いま一部フェミニストによるトランスジェンダーに関する言説がSNS上で物議を醸すことも多い中、これまで日本のフェミニズム理論に大きな役割を果たした江原由美子さんは、周司あきらさんと高井ゆと里さんの共著『トランスジェンダー入門』(集英社新書)をどう読んだのでしょうか。
本書は、タイトルの通り、「トランスジェンダーについて知りたい」と思う人が最初に知っておくべきことを書いた本である。いわゆる「LGBT理解増進法」の成立等の影響もあり、今年(2023年)においては、インターネットや新聞などのメディアには、トランスジェンダーに関する言説が溢れている。そうであればいまさら「入門」書でもないだろうと思う人がいるかもしれない。しかし、そう思った人こそ、ぜひ本書を読んでほしい。いや読む必要があるとさえ、評者は思う。
なぜか。それは現在「トランスジェンダー」について溢れている言説の中には、正確さにおいてかなり劣る情報が、散見されるからである。そしてそのような情報によって、トランスジェンダーの人たちが、苦しい思いをしているからである。無論、これは評者が本書を読んだ後の感想にすぎず、著者たち自身が、本書の刊行の意図として挙げている言葉ではない。著者たちは、単に「トランスジェンダーの人たちがどのように生きているのか、どんな法律がトランスジェンダーの生活に影響を与えているのかなど、客観的な視点から日本のトランスジェンダーの状況を論じた本」がこれまでなかったので、それが必要だと考えたから、刊行したと述べているに過ぎない。著者たちが刊行の意図として述べる言葉は、あくまで抑制的である。
しかし、それにもかかわらず、「はじめに」と「おわりに」の著者たちの文章からは、著者たちが本書の刊行にかけたかなり切迫した問題意識が伝わってくる。著者二人のこの本の執筆のしかたについて、つまり章や節を分担する通常の分担執筆ではなくすべての文章を二人で書いたことや、それゆえに二人で議論や原稿書きや見直し等を行うことが必要になり膨大な作業量となったこと、それにもかかわらず「こうした全行程を2か月以内に終え」ることができたこと等を知ることによって、著者たちがどれだけの熱意を持って本書を刊行したのかが、わかる。そこから、この「入門」書を作らなければいけないと思わせるにいたった今の状況、つまり「トランスジェンダーの人たち」に関する言説の中にかなり多くの「不正確な情報」が紛れ込んでいることに対する、著者たちの強い懸念を感じとれるのである。実際、「トランスジェンダーの人たち」について関心をもってきたつもりの評者自身、本書から学んだことは、多かった。それらの中から、重要だと思われることを一つだけ挙げてみよう。
本書で挙げられている最も重要な論点の一つは、「トランスジェンダー」の定義及び説明である。今一番流通している定義は、「身体の性と心の性が一致しない人たち」というものではないだろうか。しかし著者たちは、「この定義はとても不正確」だという。そうではなくて、「出生時に割り当てられた性別と、ジェンダー・アイデンティティが異なる人たち」であるべきだと。
なぜか。評者の言葉で言えば、「身体の性と心の性が一致しない人たち」という定義では、「トランスジェンダーの人たち」が生きている状況や困りごとの多くが、見えにくくなってしまうからだと思う。「身体の性」という言葉は、生物学的特徴である身体の形状、特に外性器に代表される身体の局所的な部位のことを想像させ、「心の性」という言葉は、自分1人の認識に基づき一瞬一瞬でも変化するような「気持ち」を指しているように思わせる。だから、「身体の性と心の性が一致しない」という事態は、自分が今持っている局所的な(外性器などの)形状が「自分の気持ち」にフィットしないということが、主要なイメージとなる。無論、「トランスジェンダーの人」の中には、このような意味で「身体の性と心の性が一致しない」という感じを持っている人もある程度いるだろう。しかし「トランスジェンダーの人」の中には、このように感じない人も、それ以外の苦しさを感じている人も、大勢いる。この定義では、そうした「トランスジェンダー」の人たちの経験の多くが、捨象されてしまうのだ。
なぜそうなのか。言葉の不正確さということから考えてみよう。先述したように「身体の性」という言葉は、外性器などの、局所的な身体の形状をイメージさせる。しかし、私たちが「身体的性別」を伴って生きているということは、局所的な外性器の形状に還元されない。「実際に私たちの社会で重要性を持っている『身体の性的特徴』は、(…)雑多なものであり、それらの複合的な組み合わせに基づいて、私たちは他人の性別についての情報を取得したり、あるいは誤って取得したり」しているのだ。
しかし、私たちが「身体の性」を、局所的にイメージしてしまいがちなのには、理由がある。私たちの社会では、生まれた子どもに、出生時に性器の形状等によって男女いずれかの性別を医療的・法律的に割り当てている。そして一度割り当てられた性別は変わらないとされている。そして子どもには、その割り当てられた性別によって「女の子/男の子としてこれからずっと生きよ」という命令が課されるのだ。「トランスジェンダーの人たち」が困難に陥っているのは、身体の形状それ自体ではなく、むしろこの「出生時に身体の形状によって割り当てられた性別によって課される、与えられた性別にしたがって生きよという命令」が、存在しているからなのである。
「身体の性と心の性が一致しない」という定義の不正確さの第二の理由は、「心の性」という言葉が持つ「主観的で、自分勝手に操作できるもの、何とでもいえるもの」というニュアンスにある。「心の性」という言葉には、「人々が社会のなかを生きていく過程で自身の性別についての認識を確立させていくプロセス」を考慮させる含意が欠如していると、著者たちは言う。それゆえ、「性別についての安定的な自己認識」という意味を強め、「その時々の思い付きや、何の実質も伴わない、一時的な自己主張」という意味を弱めるために、「心の性」ではなく、「ジェンダー・アイデンティティ」という言葉を使用すると、著者たちは言う。
この二つの言葉の不正確さによって「身体の性と心の性が一致しない」という「トランスジェンダー」の定義は、「トランスジェンダー当事者の生きている実感や現実に即しているとは到底言えない」定義になってしまう。あたかも、「トランスジェンダーの人」の困りごとは、「心の性」を変えるか、「身体の性」を変える(外性器の手術をする等)ことでしか、解決しないようなイメージ作りに、手を貸してしまうことにもなる。
しかし実際には、「トランスジェンダーの人たち」の困りごともその解決法も、多様である。私たちは出生時以降も日常生活のあらゆる場で、他者から「適切な性別表示をしているかどうか」のチェックを受けている。「出生時に割り当てられた性別とジェンダー・アイデンティティが異なる人」は、その様々な場面において、「出生時に他者から割り当てられた性別」を選ぶか、自分自身の「ジェンダー・アイデンティティ」を選ぶのかという問題に直面せざるをえない。日常生活における他者の性別判定は、身長や体格・体形・体毛、化粧や服装等様々な基準で行われているので、身体的にそれらの基準をクリアし、「出生時に割り当てられた性別とは異なる、自分のジェンダー・アイデンティティと一致した性別」の人としてパスすることも可能である。「身体的性別」は変えられないわけではなく、むしろ容易に変化させることができるとすら言いうるのだ。しかし、外性器その他、性別特徴を持つ身体の手術を望むかどうかも、その理由も、「トランスジェンダーの人」の中で、様々でありうる。さらにたとえ自分自身の「ジェンダー・アイデンティティ」と一致した性別で日常生活をパスすることができたとしても、出生時に行われた性別割り当ては、出生届や戸籍等の形で、生き方を大きく規定することになる。つまり、「トランスジェンダーの人たち」の困りごとは、「身体の性」にかかわる医療問題や「気持ちの問題」で解決できるわけではなく、それぞれの生き方に即して多様であり、しかもどの問題も「社会的な解決」を必要としているのである。
さらに著者たちは、「トランスジェンダー」という言葉自体が含みうる偏見の可能性も、指摘する。「トランスジェンダー」という言葉は、「ジェンダーの垣根を越える」「性別を移行する」というニュアンスを含む。「男性から女性へ」「女性から男性へ」という意味で、「MtF」「FtM」等の言葉が使用されていたことは、多くの人が知っているだろう。しかし、このような表記を、「侮辱された」と感じる「トランスジェンダーの人」もいるという。幼少期から「他者によって割り当てられた性別」に抗して別のジェンダー・アイデンティティを持ち続けた人に、たとえば「男性から女性になった人」というような定義をしてしまうなら、その人の「他者から割り当てられた性別(男性)ではないジェンダー・アイデンティティ(女性)をずっと持ち続けた」という経験を、無視することにもなるからだ。
また全ての「トランスジェンダーの人」が、ジェンダー・アイデンティティを、男性か女性のいずれか一方に、安定的に見出しているわけではない。「自身を女性でも男性でもない性別の存在として理解する人や、いかなる性別の持ち主としても自分を理解しない人、あるいは女性と男性の二つの性別の間を揺れ動いていると感じている人」がいる。「そうした人々を総称して「ノンバイナリー」と言うということだ。
この他、「トランスジェンダーの人」たちをめぐる近年の環境変化もあり、著者たちが紹介する「トランスジェンダーの人たち」の自己認識や経験のありかたは、非常に多様である。その意味で「トランスジェンダー」という言葉を、当人の実感や経験を超えた言葉として、つまりその人のジェンダー・アイデンティティが何であれ、「振る舞い方や服装が、(狭く期待される)典型的な女性・男性の枠からはみ出ている」ゆえに同じ差別を経験している人たちを指す言葉として、使用する場合(「アンブレラタームとしてのトランスジェンダー」)も、あると言う。
本書の最初のごく一部を紹介したが、これだけでも評者にとっては学ぶことが多かった。「知っている」つもりで実のところ分かっていなかったのだ。その意味で、評者のような「知っているつもり」の方にこそ、ぜひ読んでいただきたい。著者たちが言うように、「トランスジェンダーの人たちの力になりたいと考えているなら、この本に書かれているような知識を最低限身につけておく」ことが、望まれるからである。
プロフィール
(えはら ゆみこ)
1952年、神奈川県横浜市生まれ。1975年に東京大学文学部を卒業、79年に同大学大学院社会学研究科社会学専攻博士課程中退。同年より東京都立大学人文学部の助手を務め、同大学人文学部助教授・教授を経て、2005年より同大学都市教養学部教授。09年には同大学副学長に就任。17年に定年退職後、同大学名誉教授に。横浜国立大学大学院イノベーション研究院教授。著書は『女性解放という思想』(勁草書房)、『ジェンダー秩序』(勁草書房)、『自己決定権とジェンダー』(岩波書店)など多数。また、編者として『日本のフェミニズム』全8巻、『新編 日本のフェミニズム』全12巻(いずれも岩波書店)に携わるなど、フェミニズム理論に大きな功績を残した。