『るろうに剣心―明治剣客浪漫譚―語録〈ヴィジュアル版〉』 和月伸宏 解説/甲野善紀著

シリア、イラクで戦う相楽左之助 ―もう一度何が正しいかを自ら考え直すために― 中田 考

中田 考  (なかた こう)

 2014年、シリアの都市ラッカに行った時のことだ。そこには反アサド政権勢力のムジャーヒディーン(イスラームの大義に則った聖戦、ジハードに参加する戦士)の中でも、もっとも過激と言われている組織ISISの本拠地がある。そのキャンプで若い戦士たちと寝泊りしていたところ、シベリアから来たタタール系ロシア人の青年に突然、「日本人ですか?」と日本語で話しかけられた。

「僕はロシアで日本のアニメのコスプレをしていたんです。何のコスプレかって? 『るろうに剣心』の相楽左之助ですよ」

なんでもイスラームに目覚める前、ロシアで『るろうに剣心』のアニメを熱心に見ていたらしい。彼のことを「『るろうに剣心』のコスプレイヤーだったけれど、今、ムジャーヒディーンになったのか」と驚く人がいるかもしれない。しかしこうも考えられないだろうか。「『るろうに剣心』のコスプレイヤーだったからこそ、ムジャーヒディーンになったのだ」と。

勝者の論理が正しいとは限らない

「週刊少年ジャンプ」の連載時、大学の教員だった私も『るろうに剣心』を愛読していた。基本的には反体制的なものに心を惹かれるので、緋村剣心や相楽左之助に感情移入していたが、元新撰組の斎藤一も好きだった。

 この漫画のテーマとなっているのは「維新」である。維新にはさまざまな評価があるかもしれないが、一つはっきりしているのは「勝てば官軍」であった、ということだ。それまで「正義の権力」の立場にいた幕府は一夜にして朝敵に変わる。戦いに勝って権力を手に入れた者は、それまで使っていた暴力を今度は抑圧しなければならない。価値観は一転し、矛盾だらけである。剣心もかつて長州派志士に加勢した〝人斬り〟だったが、幕府が倒れると周りの人間は勝ち組として権力側に取り込まれていった。

 しかし彼は栄達の道を捨て、かつて殺めた者たちへの贖罪の気持ちを秘めて一人の流浪人として生きていく道を選び、身近な人間を助けようという考えに行き着く。その価値観は「弱いものを助ける」という普遍的な正義に基づくものであり、権力の定めた正義とは違うものだ。剣心は権力に取り込まれることなく、理想を胸に世の中と向き合おうとした。

 本作の中で私がもっとも心に残ったのは、明治政府転覆をもくろむ志々雄真実の部下・瀬田宗次郎が、敵対する剣心に敗れた場面である。志々雄の信念「弱肉強食」に対し、剣心の信念は「不殺(ころさず)」。相容れない考えのどちらが正しいのか迷う宗次郎は、自分を打ち破った剣心を信じようとする。しかし剣心はこう言い放つのだ。

「勝負に勝った方 つまり強い方が全て正しいというのは
それは志々雄の方が正しいということでござる。
一度や二度の闘いで 真実の答えが出るくらいなら 誰も生き方を間違ったりはせん」
(緋村剣心/第百三十四幕「天翔龍閃其之弐」)

 勝っても剣心は信念の下、宗次郎を殺さなかった。「不殺」こそ正しいのだ、と胸を張ってもよさそうなものだが、自分の考えを絶対化しないのである。剣心は「悪即斬」の斎藤一の生き方も否定しないし、志々雄でさえひょっとすると正しいのは自分ではなく彼の方かもしれない、とどこかで思っている。

 この「強いか弱いかで全てが決まるわけではない」「勝者の論理が正しいとは限らない」という相対化の視点。これこそは『るろうに剣心』のメッセージの中でもっとも重要なものだと思う。

 近年、イスラームの大義のために戦いの場に赴くムジャヒーディーンは、西欧経由の報道の中で、テロリストの烙印を押され、一方的に悪として断罪されるのが常である。それは強いアメリカは絶対的に正しく、異なる価値観を持ち、場合によっては対立するイスラームは正しくない、という発想だ。だが、強いか弱いかで全てが決まるわけではない、と相対化して考えれば、言うまでもなくイスラームにも義はあるのである。

私は「テロ」という言葉自体に反対している

 日本において「テロ」という言葉はいつ頃から定着し始めただろうか。私が若い頃にも権力に対する暴力は存在した。それはテロとは呼ばれることは少なかったように思う。ノンポリの小学生だった私でも「造反有理・革命無罪」という毛沢東の言葉は知っていた時代だ。ゲリラという呼び方が標準だった気がする。「ゲバルト」と言う言葉もあった。「やめてけれゲバゲバ」という左卜全の「老人と子供のポルカ」が大ヒットした。

 思いかえせば1990年代の一連のオウム真理教をめぐる事件から「テロ」という言い方は流布し始め、2001年の9・11ですっかり社会に根付いてしまったように思われる。

 私は「テロ」という言葉自体に反対している。殺人であれば「殺人」、誘拐なら「誘拐」と言えばいい、というだけの話だ。にもかかわらず、なぜ「テロ」という言葉を使う必要があるのだろうか。9・11事件で死んだのおよそ3000人。その後、アメリカによるイラクとアフガニスタンへの根拠無き制裁によって、数十万もの人が死んでいる。しかし後者に対する批判はほとんど聞かない。それは「テロ」という言葉が存在することで、あたかも「殺人」以上の不正義が行われるように受け止められ、それを制裁する殺人は正当化される。つまり力を持つ側の殺人を正当化するために、「テロ」という言葉があると言ってもいい。「テロリストは殺人を正当化している」と言われるが、事実はむしろ「テロリスト」と政敵を呼ぶ側の方が、実際に自分たちが犯している殺人を正当化しているのだ。

 オウム真理教事件以降「宗教は怖いもの」という考えが広まり、9・11事件以降、アメリカのグローバリズムとネオコンが世界を制覇しつつあり、日本もその流れの上にのっかっている。結果、多くの人は「テロ」と呼ばれる行為が行われる背景に思いを寄せることができず、テロという用語に反対するだけで「あなたはテロを容認するのか」と言われる始末だ。

『るろうに剣心』が提示する「政府なんてこんなものだ」「勝ったものが正しいわけではない」という相対化の視点が、今もっとも求められているように思えてならない。権力を持つものの正義なんて、一日で逆転する。政府が謳う正義を信じず、もう一度何が正しいかを自ら考え直す。その考え方はゴールではなく、あくまでも出発点である。しかしここを出発点にしないかぎり、どこにも行くことができない。

 私がラッカで出会った青年も、幕末から明治に理想をかけて闘った志士達の姿を描いた『るろうに剣心』から何かを感じ取ったのだろう。冒頭で「『るろうに剣心』のコスプレイヤーだったからこそ、ムジャーヒディーンになった」と記したのはそういうことだ。特にあえて「悪」の一文字を背中に背負った相楽左之助を選んだ、というのは象徴的に思える。

 世間から「悪」と悪しざまに罵られ、権力を敵にまわすことになろうとも、自らが信ずる志に自分自身をかけるという真摯な姿勢と言葉は、時代と場所、フィクションと現実を超えて蘇るのである。

この背中の悪一文字にかけて京都は絶対に焼かせねェ!

 

*本稿は2014年「青春と読書8月号」(7月20日発売予定)
「本を読む」に加筆の上特別編集しネット限定で緊急公開したものです。

© 和月伸宏/集英社

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プロフィール

中田 考  (なかた こう)

1960年岡山県生まれ。イスラーム学者。同志社大学神学部元教授。
専門はイスラーム法学・神学。哲学博士。
著書に、シリア、イラク諸都市を席捲しているISISらイスラーム主義者のめざす、カリフ制がどんなものかを説明した内田樹との共著『一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』(集英社新書)等。

るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-語録』和月伸宏、解説/甲野善紀(武術研究者)は7月17日発売予定。和月伸宏先生のロングメッセージ、甲野善紀先生の解説「志の時代の再来を求めて」収録。

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