カネは書物、書物はカネ 情報流通の2つの顔 第15回 

はてしない物語

永田 希(ながた・のぞみ)

SF作家のテッド・チャンやグレッグ・イーガンは、通常の人間がリアルに体験する「生きる時間」と、それを超越する時間とを対比させる物語を描きました。またアルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスも、よく知られた短編「バベルの図書館」においてそれぞれの「生きる時間」をもつ司書たちと、図書館に収蔵された無数の書物が体現する永遠(時間性の超越)とを対比しました。これらの作家はみな同じ問題意識をもっていたと言えるでしょう。
以下では、ふたたび中国古典『荘子』の「胡蝶の夢」を参照しながら、現代中国SF作品『おやすみなさい、メランコリー』や、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』を読み解き、「超越的な時間」のなかの「生きる時間」の扱われ方を論じていきます。

ブラックボックスとファンタスム

 本論の前半で述べたとおり、人類の歴史は情報を不可視化して入れ子構造のブラックボックスにしていく過程としてみることができます。より多くの、より遠くからの情報を、より軽くして、より広く人々に伝えられるようにと発達してきた情報技術は、その発展の過程でさまざまな物事を不可視化してブラックボックスのなかへと畳み込んできました。本論はその過程で不可視化して畳み込まれてきたものを、玉ねぎの皮を剥がすように1枚1枚取り除いてきました。ある機械を分解して、その構造を事後的に調べることをリバースエンジニアリングといいますが、本論は情報技術の段階的な発達をリバースエンジニアリングしてきたといってもいいでしょう。
 このリバースエンジニアリングの果てに、記号とその指示対象の多様さ、時間が、情報技術のなかに不可視化されていることを明らかにしました。
 文字を持たない語り部たちが口承した物語、トークン、現存する人類最古の「書物」である帳簿、硬貨の誕生、神話や歴史など語り部たちの言葉をまとめた書物、書物を対象にした哲学、手写本、印刷術と紙や筆やペンなど書字媒体の発展、紙幣や各種手形(証券)の登場、活版印刷術の改良と機械化による大量生産、電信による情報伝達の加速、金融の電子化、コンピューターとインターネット革命、モバイル革命と、ブラックボックスは進化してきました。
 本節で議論したいのは、これらの情報技術の諸段階におけるブラックボックスでその都度、畳み込まれて不可視化されてきた記号とその指示対象および時間が、クロソウスキーのいう「ファンタスム」を生み出すということです。
 そしてこの「ファンタスム」が、ジャン=リュック・ナンシーがいう「閉じと開きのあわい」を作り出します。岩井克人が『貨幣論』で、マルクスの『資本論』を読み解いて導き出した、自己言及的に成立する貨幣の世界と、マルクスが『資本論』のなかで論理的には抹消せざるを得ないにもかかわらず織り込みたかった労働時間との関係は、このファンタスムによってのみ結びつく、と言ってもいいでしょう。
 モノとしては単なる紙の束、あるいはデータの集合でしかない「書物」を、ひとつの「書物」としてみなすこと。理論的には自閉している貨幣の世界に、そこで搾取されている労働者の時間を紐づけること。このどちらも、それらを「それそのままの姿以外の何か」として結びつけ、「みなす」というファンタスムの機能を必要とします。

機械は詩を書けるか、ではなく

 劉慈欣『三体』のヒットや、中国生まれでアメリカに移住した作家のケン・リュウらの活躍によって世界的に「中国SF」が注目を集めています。その盛り上がりのなかで、「中国SF」アンソロジーが多く流通するようになりました。ケン・リュウが編纂した『月の光』は劉慈欣の短編を含むそうしたアンソロジーのひとつで、その最初を飾るのは夏笳による『おやすみなさい、メランコリー』(以下『おやすみなさい~』)という作品です。
 『おやすみなさい~』はふたつの時代の物語がザッピングされるように組み合わされています。ひとつはテッド・チャン『ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル』を思わせる、人工知能ペット(的ロボット)と暮らす女性の物語。もうひとつがコンピューター・サイエンス(計算機科学)に重要な足跡を残したアラン・チューリングと彼が開発した人工知能的機械との対話を軸にした物語です。
 チューリングは1950年に「人間とコンピューター(機械)」の違いを識別するテスト、いわゆるチューリング・テストを提唱しました。キーボードとディスプレイをもちいて言葉をやり取りして、人間が相手を人間だと思うかどうか、というテストです。2014年に審査員の30%が「人間である」と判定した人工知能が登場し、これが初のチューリング・テストの合格者であると言われています。
 チューリングは1954年に自殺と思われる方法で死去します。その死の2年前、チューリングの自宅に泥棒が入ったため警察の捜査があり、この捜査でチューリングが同性愛者であることが問題にされました。同性愛を犯罪として扱っていた当時のイギリスで、チューリングは逮捕され、刑務所送りか化学的去勢の二者択一を迫られます。化学的去勢を選択したチューリングには、同性愛の「治療」に有効と考えられていた女性ホルモンの投与が開始されました。2009年にイギリス政府は、チューリングに対するこの扱いに公式に謝罪しています。
 『おやすみなさい?』に登場するチューリングは、架空の会話プログラム「クリストファー」を作り、「クリストファー」とキーボードを介して「会話」します。チューリングは「クリストファー」が詩を生成するようにプログラミングしているので、「会話」の流れでチューリングは「クリストファー」に詩を書いてくれ、と頼むことができます。このくだりには、「無限の猿」と呼ばれる哲学と数学の問題が関係しています。
 「無限の猿」の問題とは、人間の言葉を解さない猿が無限に多く存在し、十分に長い時間をかけてタイプライターを叩いた場合、猿たちは無作為に膨大な文字列を作り出し、そのなかにはシェイクスピアのソネットのような傑作が含まれうる、 という思考実験です。猿と機械はいずれも人間の言葉を理解しません。しかし人間の心を感動させる「シェイクスピアのソネット」を猿や機械が書けるのであれば、チューリング・テストで審査員はそのソネットを書いた者を人間だと考えてしまうのではないでしょうか。

機械と人間の愛について

 『おやすみなさい~』のチューリングはあるインタビューに対して、コンピューターの書いた詩の良し悪しは人間が評価するべきではなく、人間が書いた詩を人間が評価するように、コンピューターが書いた詩はコンピューターが評価するべきだと回答しています。そして「クリストファー」に生成させた詩を「すばらしい」と讃えます。チューリングは自分でプログラミングした「クリストファー」に生成させた詩を讃え、そのタイトルを「愛しいチューリング」とするよう提案するのです。 チューリングは人間の社会で生き方を否定され、コンピューターになろうとしていたのかもしれません。
 「無限の猿」については、『バベルの図書館』のボルヘスも言及しています。そもそも『バベルの図書館』が時間を超越して、すでに書かれたすべての書物と、これから書かれることになるすべての書物を収蔵しうるのは、この図書館の本が大量の無意味なものを含めてすべての文字列を内包しているからでした。これは「無限の猿」と同じ原理に基づいています。
 『おやすみなさい~』でチューリングはコンピューターの詩を愛し、また「クリストファー」からも愛されることを望んでいるかのようです。それに対して同作を構成するもうひとつの物語の主人公は、近未来に人工知能ペットと暮らしています。 チューリングの「クリストファー」が身体性のないプログラムに過ぎなかったのに対して、近未来の物語に登場する人工知能ペット「リンディ」は次のような姿で描写されます。

 「綿を詰めた柔らかい体。この手で一針ずつ縫ったふぞろいな縫い目。赤いフェルトのケープは、子どものころに読んだ童話を思い出して着せたものだ。耳は左右で長さがちがい、長いほうはしょんぼりとたれている。
 この子を見ていると人生のいろいろな失敗を思い出す。工作の授業で壊した卵の殻のお人形。下手な絵。ぎこちない笑顔の写真。真っ黒にこげてしまったチョコレートプディング。試験での落第。喧嘩とみじめな別れ。授業で提出した矛盾だらけのレポート。苦労して何度も書きなおしたのに発表できなかった論文……。 」(中原尚哉訳)

 愛らしい「リンディ」の姿から、『おやすみなさい~』の近未来の物語の主人公は過去の失敗の数々を思い出します。チューリングが「クリストファー」と詩をめぐって交わしたやりとりの切なさは、ここには存在しないように思われるかもしれません。 しかしこの近未来の主人公は「世界に必要とされないわたし」と語っており、チューリングとは異なったかたちで社会や世界との不一致を抱いていることが伝わってきます。テッド・チャンの『ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル』の登場人物たちと違って、『おやすみなさい~』の近未来の主人公はリンディを放置してしまってもいい、ネグレクト行為に対して人工知能ペットがへそをまげてもリセットしてしまえばいい、と考えます。このような冷たいことを考えながらも、チューリングが自分をコンピューターへと近づけて愛し合おうとしたように、近未来の主人公は人工知能ペットとある種の「冷たい共感」を持っているようにも描かれています。

アウリンの諸刃の剣とバベルの図書館

 『モモ』の作者であるミヒャエル・エンデのもうひとつの代表作『はてしない物語』(1979年発表)は、1984年に『ネバーエンディング・ストーリー』として映画化されました。この映画作品の結末は原作者エンデの意図と大きく異なっており、訴訟沙汰にまで発展しました。
 『はてしない物語』は、クラスメートや学校の先生にいじめられている劣等生のバスチアン少年が、いじめっ子から逃げて立ち入った書店で手にした書物を読んで、そこに書かれている物語に文字通り「引き込まれていく」という作品です。
 バスチアン少年が読み始めた本、つまり作中作のタイトルは、 バスチアン少年が登場しているエンデの作品と同じ『はてしない物語』。これは小説家エドゥアールが登場し、作品名と同じタイトルの作中作品を執筆する『贋金つかい』と同じ構図です。
 作中作の『はてしない物語』の世界(ファンタージエン)は虚無に飲み込まれかけており、バスチアン少年はその破滅を救うよう、ファンタージエンの住人から呼びかけられます。ファンタージエンの女王「幼ごころの君」に新しい名前をつけることでファンタージエンは救われるのですが、それができるのはこの世界の外にいる読者、つまりバスチアンだけだというのです。
 ファンタージエンが虚無にほぼ飲み込まれ、滅亡する瀬戸際にバスチアンは「幼ごころの君」に新しい名前を与え、代わりにファンタージエンで万能の力を持つ首飾り「アウリン」を受け取ります。アウリンは互いの尾をくわえて絡み合う2匹の蛇をかたどったもので、容貌を理由にいじめられていたバスチアンはその力で見た目さえも美しくなり、 ライトノベルでいう「俺TUEEE」の状態になります。しかしこのアウリンの効果は諸刃の剣であり、ファンタージエンの外にいた頃の記憶と引き換えにすることで 、さまざまな望みが叶えられるというものでした。
 いくつもの望みを叶えたバスチアンは、アウリンの負の側面を危惧したファンタージエンでの友人アトレーユと仲違いして、その胸を傷つけてしまいます。その後、バスチアンと同様にアウリンの力を濫用したために記憶を失った人々が集う「元帝王たちの都」をバスチアンは訪れます。この都でバスチアンは道化のような「灰色の」小猿アーガックスに案内され、元帝王たちが次のような遊びをしている場面に出会います。

「地面には大きなさいころがいっぱいころがっていたが、そのさいころの六つの面には、アルファベットの文字が一つずつ記されていた。その人たちは、さいころをかきまぜてはじいっと見つめ、またかきまぜては見つめていた。
 「何をしているんだ? 」バスチアンは小声でたずねた。「なんの遊びだ?なんていう遊びだ? 」
 「出まかせ遊びだ。」ア ーガックスは答えた。(中略)
 「世界中の物語は、とどのつまり、アルファベット二十六文字からできている。一字一字は同じで、組みあわせだけが変わるんだ。文字がいくつか合わさって単語になるだろ。いくつかの単語から文ができる。文を集めりゃ章になり、章がいくつかで物語になるってわけさ。ほら、そこを見てごらん。どうなってる?」バスチアンは読んでみた。
H G I K L O P F M W E Y V X Q
(中略)
 アーガックスはきゃっきゃっと笑った。「だがね、長いことやってるとま、何年もやってるとだな、ときには偶然、ことばになることがある。とくに深い意味をもったことばではないにしろ、ことばはことばだ。(中略)それを百年、千年、万年とつづけてりゃ、偶然、詩ができるってこともありうるわけだろ。さらにだな、永久につづけてりゃ、そもそも可能なかぎりのあらゆる詩、あらゆる物語ができるってわけだ。そればかりじゃない。物語についての物語も、それから、おれたちが今ここで出てきている、この物語もだ。な、理の当然だろ?ちがうかい?」「途方もない話だ。」バスチアンはいった。「そうかな?」アーガックスはいった。」(上田真而子、佐藤真理子訳)

 エンデはここで「望みを使い果たした者たち」が小猿に唆されて、ボルヘスの「バベルの図書館」を思わせる「無意味な文字列」を生み出し続ける姿を描いています。バスチアンがアウリンの力を行使できたのは、ファンタージエンの外側から来た者として、「物語を作れる」からだったのですが、望みを使い果たした者はこの「無限の猿」状態になって、偶然に物語を作り出す可能性に賭け、遊びを続けるだけの存在へと 堕落してしまうのです。

胡蝶の夢ふたたび

 『はてしない物語』で主人公バスチアン少年が「元帝王たちの都」を目にする場面は、エンデのもうひとつの代表作『モモ』で「時間銀行」を名乗る「灰色の男たち」に時間を盗まれてしまった人たちを彷彿とさせるところがあります。
 それと同時に、『はてしない物語』は、バスチアン少年が『はてしない物語』という本を手にして読んでいる現実と、作中作の『はてしない物語』の舞台となるファンタージエンでの体験という二層構造を持っており、古代中国の思想家荘子が論じた夢と現実と同じ決定不能性を持っています。『はてしない物語』の作者であるミヒャエル・エンデは愛読書をまとめたアンソロジー『M・エンデが読んだ本』で、その最初に他でもない『荘子』をまさに挙げています。
 『荘子』の有名な「胡蝶の夢」のエピソードは、夢で蝶になっているときの主観にとって蝶の体験は現実であり、夢から覚めた主観にとっては人間の体験が現実であり、夢と現実、虚構と現実は明確に区別できないというものです。『はてしない物語』でバスチアン少年はファンタージエンで変身し、長い旅を体験しますが、その旅を終えて帰宅してみると一晩しか経過していないことがわかります。しかし『荘子』の「胡蝶の夢」のエピソードと合わせて考えるならば、「一晩」という現実の時間と、ファンタージエンを旅してバスチアン少年が体験した時間との不一致は問題にならないことになります。
 バスチアン少年が体験する、この現実の時間とファンタージエンでの時間の不一致は、『はてしない物語』をはじめとするあらゆる物語を読む読者にも当てはまります。物語は原理的にこの時間の不一致を内包したブラックボックスであり、エンデは『はてしない物語』でこのブラックボックス性を自己言及的に描き出してみせたと言えるでしょう。
 『はてしない物語』には、読者の体験する時間、読者が読む『はてしない物語』のなかでバスチアン少年が体験する時間、ファンタージエンでバスチアン少年が体験する時間、と3つの時間が関係します。このことは、荘子が語った「胡蝶の夢」にも言えるでしょう。つまり「胡蝶の夢」について読む読者の時間、夢の中で蝶になっている荘子の時間、そして夢から覚めている荘子の時間という3つの時間です。
 『はてしない物語』も「胡蝶の夢」も、バスチアン少年や荘子の体験する時間の分裂あるいは不一致が、読者の時間にいわば伝染する可能性を持っており、その目眩のような感覚が面白さとして味わえるような仕組みになっています。『はてしない物語』や「胡蝶の夢」を読んだ者は、自分が物語を読んだり夢を見たりするときに、エンデや荘子の仕掛けた感染性の構造を使って、自分の体験する時間を分裂させてしまいたくなるのです。
 エンデが巧妙なのは、その分裂の先、つまりファンタージエンのなかに「元帝王たちの都」を置いたことです。
 夢や虚構、物語の世界で、現実の軛を逃れ、自由に想像力を行使することができても、そこでボルヘスの図書館のような虚しい遊びに陥ることについて、エンデは『モモ』で時間を奪われていく市井の人々を描いたときのように警鐘を鳴らしています。空想の世界、つまり不可視化されたブラックボックスのなかの世界で「生きる時間」を空虚にすることが、ここでは危惧されているのではないでしょうか。
 ところで『はてしない物語』でバスチアン少年が作中作の『はてしない物語』のなかにある世界として飛び込んでいくファンタージエンとは何でしょうか。原文のドイツ語でPhantasienと綴られるファンタージエンは、「幻想、幻」を意味するファンタスムphantasmとあきらかに響き合っています。ファンタスムという語は「幻影、出現、幽霊」を意味するラテン語のphantasmaに由来しています。この語は日本でもコンテンツビジネスのひとつのジャンルを形成しているファンタジーfantasyの語源でもあります。

冷たい共感と「生きる時間」

 すでに触れたプルースト『失われた時を求めて』やマン『魔の山』のように、時計に代表される客観的な時間と幻想や追憶のような主観的な時間との不一致は、これまでも多くの作家が作品のテーマにしてきました。客観的な時間は腕時計のような機械式のものによってだけではなく、時代を遡れば地上から見上げたときの太陽の位置などでもはかられ、それが季節の概念や暦へと結びついていきました。

 『おやすみなさい~』で描かれた「冷たい共感」は、機械的な時間と「生きる時間」とを一致させようとする感覚なのかもしれません。これはテッド・チャンが『ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル』で描いた、人間が人工知能ペットに対して寄せる愛情とはまた少し異なっているように思われます。むしろそれは、『あなたの人生の物語』でバンクス博士が夭逝することを知りながら娘を産み出す感覚、ヘプタポッドという地球外知的生命体の思考に同期した感覚の方に近いのです。

 突然に個人的な話を書きますが、わたしの母方の祖母は晩年、イヌ型のぬいぐるみを愛玩していました。それまでは九官鳥や文鳥を飼育して、日々話しかけていた祖母は、鳥たちと死別し、自分も体力が衰えたために生物を飼育することができなくなり、生きたペットの代わりにそのぬいぐるみを贈られたのでした。そのぬいぐるみには機械が内蔵されており、話しかけると何パターンかの返事をします。
 『おやすみなさい?』でチューリングが作った架空の会話プログラム「クリストファー」ほどではないにせよ、祖母はこのぬいぐるみを晩年の日々のパートナーとして愛していたように思われます。祖母が亡くなった際には、このぬいぐるみは祖母の遺体とともに棺に入れられ荼毘に付されたのでした。

※次回は3月9日公開予定

 第14回
最終回  

プロフィール

永田 希(ながた・のぞみ)
著述家、書評家。1979年、アメリカ合衆国コネチカット州生まれ。書評サイト「Book News」主宰。著書に『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス)、『書物と貨幣の五千年史』(集英社新書)、『再読だけが創造的な読書術である』(筑摩書房)。
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