カネは書物、書物はカネ 情報流通の2つの顔 第14回

あなたの人生の物語

永田 希(ながた・のぞみ)

これまで、書物と貨幣とは「閉じと開きのあわい」にあるブラックボックスであることを示してきました。「閉じと開き」とはそれぞれ、自己言及(同語反復)によって増殖していく「時間を超越した永遠」と、そのなかで読者や著者、そして作中のキャラクターたちが「生きる時間」とのことです。
今回はテッド・チャンやグレッグ・イーガンなどのSF作品を中心に取り上げながら、この「時間を超越した永遠」と、「生きる時間」とがどのように組み合わされてきたかを考えます。

『目撃者』と窓

 ネットフリックスで見ることができるアニメシリーズ「ラブ、デス&ロボット」のなかに『目撃者』という作品があります。これは劇場版がヒットした『スパイダーマン:スパイダーバース』にも参加していたアニメーターが制作した短編アニメーションです。この作品は、東アジア風の集合住宅かホテルの一室にいる主人公の女性が、他の部屋で行われている殺人事件を目撃してしまい、その犯人に追われ、やがて自分も殺されてしまう、そこをまた別の部屋から主人公の女性が目撃してしまう、というループ構造になっています。
 実写と見紛う精密な3DCGと集合住宅やボンデージファッションへのフェティッシュな魅力の共存が見どころの作品ですが、登場人物の視点に着目すると、主人公はループによって繰り返し「殺され」、殺人現場を目撃される男は主人公を何度「殺して」もふたたびその現場を目撃され、どちらも終わることがありません。
 人間の生は死によって終わり、通常であればそれが繰り返されない一回だけのものです。見えている部分(3DCGで描かれるハイクオリティな集合住宅やボンデージファッション)のほかに、この作品を見ているわたしたちの生きている「限りある生」と、作中に展開される「生と死の絶えない入れ替わり」とが、登場人物とそれを眺めているわたしたちに共有されている「視覚」を通じて重なり合ってしまうという部分が、この集合住宅の繰り返しや、フェティッシュなファッションが喚起する身体性と相まって、鑑賞者であるわたしたちに眩暈に似た印象を残すのです。
 『目撃者』においては、まず主人公と犯人が窓をとおして互いを「目撃」する部屋がそれぞれ「どの部屋」なのかが描かれていません。集合住宅の「どの部屋」にそれぞれの視点があるのか、鑑賞者にはわかりません。主人公を犯人が殺害する部屋も、それをまた「主人公と同じ見た目の人物」が目撃する部屋も、やはりわかりません。これらは不可視化されているブラックボックスなのです。わたしたちが作品を鑑賞している画面もまたある種の「窓」とみなすならば、 殺人現場を「目撃」しているのは主人公だけではなくわたしたちでもある、ということになります。

人間と人造人間、本物の記憶と偽物の記憶

 1968年に発表されたフィリップ・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(以下『アンドロイドは?』、1982年に『ブレードランナー』として映画化)では、人間の管理下から逃亡した人造人間(アンドロイド)を狩るバウンティハンターであるデッカードの、人間と同じ容姿で人間と同じような感情を示すアンドロイドたちを狩ることに葛藤を覚え、困憊していく様子が描かれます。
 外見だけでなく感情まで人間に近づき、その識別が困難になったアンドロイドと、それを管理して狩り出す人間とのあいだにどのような違いがあるのか、という決定困難な問題をディックのこの作品は突きつけてきます。
 この人間と人造人間の違いという問題は、遡ればメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』(以下『フランケンシュタイン』、1818年)にもすでに描かれていました。近代SFの源流のひとつに数えられるこの作品は、 人造人間の開発に取り憑かれた若き天才科学者フランケンシュタインと、フランケンシュタインが死体を継ぎ合わせて命を吹き込んだ「怪物」との確執を描いています。
 自分で作り出しておきながら、その醜さを嫌ってフランケンシュタインは「怪物」を捨て去ります。「怪物」は親とも創造主ともいうべきフランケンシュタインを恨み、人間の生活を盗み見しながら、復讐の機会を伺います。ふたりはやがて北極であい見えるかと思いきや、「怪物」のもとへ辿り着くことなくフランケンシュタインは息絶えてしまい、「怪物」は嘆くしかないのでした、というあらすじです。
 「怪物」は、フランケンシュタインによっていわば「贋物」として作り出された存在です。しかし読者は本作に描かれた「怪物」の知性も感情も読むことができるので、ただ醜いというだけで「怪物」を嫌悪する「本物」の人間であるはずのフランケンシュタインこそ忌まわしく感じるかもしれません。
 押井守監督のアニメーション映画『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』および、士郎正宗によるその原作マンガ『攻殻機動隊』では、近未来を舞台に電脳犯罪を取り締まる公安9課の活躍が描かれています。主人公である公安9課のリーダー的存在の草薙素子とその仲間がある日逮捕したテロリストは、贋の記憶を植え付けられていたことが判明します。テロリストは自分には妻子があり、離婚の問題に悩んでいる、という疑似記憶が与えられていたのでした。しかし実際には彼は独身だったのです。原作で草薙は、取り調べを受けるテロリストの姿を窓(おそらくマジックミラー)ごしに眺めているのですが、その様子はまるで映画やドラマをパソコンやスマートフォンのディスプレイで眺めるわたしたちのようです。あるいは本を開いて物語を読む姿にも似ているかもしれません。
『攻殻機動隊』に登場するほとんどのキャラクターはその身体を、発達した機械化の技術によって脳を含めいたるところをサイボーグ化されています。先ほど触れたテロリストは脳の一部を機械化しており、そのためにハッキング(クラッキング)」をうけて記憶を改竄されたのでした。本作の主人公である草薙は全身を機械化しており、ある時「自分はもう死んじゃってて今の私は義体と電脳で構成された模擬人格なんじゃないか?」と不安になると語ります。「義体」とは『攻殻機動隊』に描かれた世界で機械化された身体を指す造語です。
 この草薙の感覚もやはり、人間と人造人間(模擬人格)との決定不可能性に由来します。自分は 『フランケンシュタイン』で「怪物」を創造して捨て去るフランケンシュタインの立場なのか、それともフランケンシュタインによって創造されて捨て去られる「怪物」の立場なのか決定できないという問題、『アンドロイドは?』でアンドロイドを狩り出すデッカードの側なのか、デッカードに狩られるアンドロイドの側なのか決定できないという問題と相同なのです。

増殖する世界

 1994年に発表されたグレッグ・イーガンのSF小説『順列都市』には、コンピューターのなかでシミュレートされた模擬人格が登場します。この作品の主人公のひとりポール・ダラムは、自分の脳をスキャンしてコンピューターで模擬人格を作ります。作中で「コピー」と呼ばれる模擬人格として作られた方のダラムは、仮想的な人造人間と言えます。『フランケンシュタイン』とは異なり、『順列都市』では「コピー」とオリジナルとが直感的にわかるような敵対関係にあるわけではありません。 ただ「コピー」はコンピューターがシミュレートしている時間のなかでしか存在できないため、「コピー」が生きている時間はオリジナルが生きている時間から次第にズレていきます。ダラムにはエリザベスという恋人がいるのですが、オリジナルのダラムは「コピー」の存在をエリザベスに知らせておらず、「コピー」はエリザベスと会えなくなってしまうのでした。
 恋人と関係を続け、「コピー」の生殺与奪を握るオリジナルと、恋人と引き離され、いつでもオリジナルによって突然に消去されたり、勝手に身体に変更を加えられたりする可能性のある「コピー」。このオリジナルと「コピー」の対比は、小説を読む読者と、作中人物との対比に対応するかのようです。
 「コピー」のダラムは、ネットワークで繋がれた諸都市のコンピューターで分割して演算されています。コンピューターはブラックボックスなので、仮に東京のコンピューターで演算が行われていても、「コピー」のダラムにはシドニーの景色(シミュレーションの景色)が見えていたりすることになります。オリジナルのダラムは、さらに「コピー」のダラムの主観時間の演算を分割したり逆の順番にしたり、ランダムにしたりする実験を行ないますが、その演算がどれほど細切れにされても、「コピー」の主観時間は滑らかなまま保たれます。「コピー」にとっての主観時間が塵のように細分化されバラバラに演算されていても、「コピー」の主観というパターンはその塵から再構成されることになるのです。作中でこの方法は「塵理論」と名付けられた理論に則して実施されています。
 『順列都市』ほどのランダム性はありませんが、現在のわたしたちが使っているインターネット上のアカウントにも、『順列都市』の「コピー」人格に近い側面があります。アマゾン社が提供しているAWSに代表されるクラウドコンピューティングサービスは、世界各地にあるデータセンターで計算処理(演算)を行なっているのですが、たとえばSNSを使っているわたしたちが、どの地域にあるデータセンターのコンピューターを使用しているのかは不可視化されています。ある意味でわたしたちの「コピー」であるアカウントは、塵理論に依拠しているのです。
 『順列都市』の塵理論は、ボルヘスの「バベルの図書館」とそのなかに生きる司書たちのように、時間を超越した無限とその無限のなかに生きる「コピー」たちを可能にします。『順列都市』の作者イーガンは、塵理論によって可能になった「コピー」の世界にもうひとつTVC理論というさらに別の理論を持ち込みます。TVC理論は、現実に存在しているセル・オートマトンという考え方を発展させたもので、実在するチューリング(アラン・チューリング)、フォン・ノイマン(ジョン・フォン・ノイマン)、そしておそらく架空のチャンという3人の研究者の頭文字をとった理論です。
 オートマトン(複数形はオートマタ)とは「自動人形(自動機械)」のこと、そしてセル・オートマトンとは、セルつまり生物の細胞のように自己増殖するオートマトン、自己増殖する自動機械型の仮想細胞を作るシステムのことです。 TVC理論は、このセル・オートマトンによって仮想世界にコンピューターがコンピューターを作るという理論です。塵理論によって無限の時間が与えられ、その無限の時間のなかでTVC理論のセル・オートマトンが計算資源を次々に、更に無限に作り出していくことになります。こうなると、仮にオリジナルのダラムたちが生きていた世界が終焉を迎えても、塵理論とTVC理論によって無限に世界が持続していくことになります。

仮想環境の維持費

 短編集『息吹』に収録されたテッド・チャンの『ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル』(2010年発表)は、インターネット上の仮想環境「データアース」とコンピューター内に仮想的に「生きる」人工知能ペット(AIペット)を作り出し、ともに「生きる」人々を描いた作品です。
 この作品のなかで主人公たちはAIペットを教育し、いつくしみます。AIペットの「生命」を持続させるためには彼らが「生き」ている場所である「データアース」というサービスを維持する必要があるのですが、「データアース」は一定のユーザーがいることで運営されている仮想環境なので、競合のサービスが登場してユーザーシェアを奪われてしまうと維持が難しくなります。本作の主人公は仮想環境のユーザーが少なくなってしまう以外にもいくつもの問題(AIペットの虐待、仮想環境のハッキングなど)に直面しますが、本論ではこの仮想環境の維持と、その環境で「生きる」AIが重要です。
 さきほど触れたイーガンの『順列都市』では、仮想空間内のコンピューターが自らコンピューターを作り出し、加速的に増殖していく様子が描かれていました。コンピューターが細胞のように自己複製をしていくTVC理論という架空の理論と、仮想世界のなかに無限を見出す塵理論というもうひとつの架空の理論によって『順列都市』は、生身の人間が暮らす世界(基底現実)が滅びてもなお持続する仮想世界(TVC宇宙)を構築したのです。
 TVC宇宙の生成が開始され、いわば基底の現実から乖離しはじめるよりも前、『順列都市』で模擬人格を「生き」ている状態にするためにはコンピューターを使ってその人格を「演算」する必要があり、その膨大な計算リソースをまかなう資金が必要になります。これは現実の世界で 労働者が自分の時間を売って対価を得る錯覚(雇用者が労働者の時間を買って奴隷化する錯覚)に近いものです。あるいは、生活費や税金、賃貸住宅の家賃など、生身の人間が生きていくために必要とされている出費にたとえた方がわかりやすいかもしれません。

偽りのない事実、偽りのない気持ち

 『息吹』に収録されている別の短編『偽りのない事実、偽りのない気持ち』(以下『偽りの~』)は、「リメン」という生体記録(ライフログ)検索サービスをめぐる近未来の物語と、ナイジェリアの現地人集落をキリスト教伝道師が訪れる過去の物語が錯綜する作品です。
 『偽りの~』に描かれる近未来の方の物語は、 ジャーナリストをしている父親と、いまは離れて暮らしている娘との、その別居の原因になった口論をめぐって語られます。最初、父親は娘との口論で娘が暴言を吐いたと思い込んでいますが、リメンによって自分の方こそ暴言を吐いたということに気付かされます。
 他方、ナイジェリアの現地人集落を舞台とする物語では、ヨーロッパ人の伝道師が現地人に文字を伝えます。しかし現地人のあいだにはそれまで語り継がれていた彼らの「歴史」があり、「文字」の記録と現地人にとっての「歴史」との衝突が描かれます。
 『偽りの~』の近未来の物語では生体記録とその検索サービスによって 「事実」がユーザーの「記憶」と食い違い、ナイジェリアの物語では「文字」と「歴史」が齟齬を来たします。このふたつの齟齬をめぐる物語をひとつの作品にセットで書き込んだことで、ふたつの齟齬は互いに、いわば響き合うようになっているのです。
 『偽りの~』のなかでふたつの物語が響き合うのは、どちらも記憶や口承の、いわばナマモノの時間と、生体記録や文字情報の、いわば機械的な時間とが対比されているからです。
 本書でこれまで論じてきたことに関連して言えば、『偽りの~』という作品は、ナマモノの時間つまり「基底現実」と、機械的な時間つまり仮想環境との不一致を利用して語られています。この不一致は通常、『偽りの~』で描かれているように、人間が「事実」を忘却し、歪曲して「歴史」を作ることで不可視化されていきます。

『あなたの人生の物語』と再生

 ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督により『メッセージ(原題はArrival)』として2016年に映画化もされた短編『あなたの人生の物語』(1998年発表、同題の作品集に収録)でテッド・チャンは、 ヘプタポッドという宇宙人と人類のファーストコンタクトの様子を描いています。主人公である言語学者のルイーズ・バンクス博士はヘプタポッドの言語を解析しようとつとめ、やがてヘプタポッドの言語でものを考えることができるようになります。ヘプタポッドの言語は、ヒトの口にあたるとおぼしき部位をはためかせて語られる発話言語と、象形文字のような複雑な視覚言語に分けられます。地球人の線的な言語と違い、ヘプタポッドの視覚言語は「はじまり」と「終わり」がなく、時間の流れを超越しているかのように思われます。
 バンクス博士はヘプタポッドの研究チームにいた男性と子作りをして娘を産むことになり、その自分の娘に向けて語りかけるように本作の記述をしています。読者はバンクス博士の娘になったような気持ちでこの作品の記述を読むことになるのです。
 この作品を読んでいる途中で、読者はバンクス博士の娘が25歳で生命を落とすことを知らされます。つまりこの作品は「バンクス博士の娘の人生」をつづった物語なのでした。この手記によって自分の娘が蘇るわけではないことを、バンクス博士はよくわかっていますし、もしかするとヘプタポッドの非線形の言語で思考できるようになった博士は、自分の娘が若くして死んでしまうことをあらかじめ知っていた可能性すらあります。それでも子供を作ることで、バンクス博士は娘がその人生を生きることを可能にしたのでした。
 この作品の原題はStory of Your Lifeです。「life」は人生と訳されていますが、この語には 同時に「生命」という意味もあります。また物語の内容からこの作品で「あなた」と呼びかけられているのはバンクス博士から見た「自分の娘」だと思われるのですが、同時にこれを読むすべての読者もまた「あなた」と呼びかけられているような効果を持っています。つまり本作は「バンクス博士の娘の人生の物語」であるのと同時に「読者の生命の物語」でもあるのです。
 このことは、単純に言葉の多義性によるものではありません。「書かれた言葉」はそれを「読むとき」こそ線的ではあるものの、「書かれた言葉」それ自体には過去も未来もなく、原理的には時間を超越しているのです。バンクス博士はヘプタポッドの非線形の言語を習得することで時間を超越した思考を手に入れるのですが、そもそも「書かれた言葉」がヘプタポッドの視覚言語と同じ本質を持っています。
 この作品をわたしたち読者が「読む」ことでバンクス博士の主観時間が何度でもいわば「再生」され、その都度、バンクス博士の娘は仮想的に何度でも身篭られ、出産され、死んでいく、つまり「生きる」ことになる、ということに読者は気づかされるのです。そしてそれに気づくたびに、その「バンクス博士の娘の人生」の「再生」が、読者の生命と文字通り同期していることが感じられます。これによって、「バンクス博士の娘の人生の物語」は「読者の生命の物語」と同じことになるのです。

イーガンの後悔

 『あなたの人生の物語』は、母親であるバンクス博士がその娘に注ぐ愛情あふれる眼差しが見事に書き留められており、読者はこの作品を読むたびに「感動」することができます。しかし、この作品を読むごとに作中で産み出されては夭逝する「バンクス博士の娘」の主観にまでは、この作品で到達することはできません。
 「母の愛」や、そのために繰り返される「娘の人生」に感情的に同期することはできても、読者は「バンクス博士の娘」の主観に同期することはできません。娘の行動、表情、発言を、母であるバンクス博士の手記から読み取ることはできるのですが、娘の側の一人称の語りはこの手記には含まれていません。 
 バンクス博士にとってヘプタポッドは言語や思考を共有できる他者ですが、言語や思考の仕方を共有できても、他者である以上はその主観まで共有することなどもちろん不可能です。残酷な言い方をすれば 『あなたの人生の物語』の読者は、バンクス博士の視点を借りながら読むたびにその娘を死に追いやっているとも言えます。これは本節の冒頭で触れた『目撃者』で、作品の鑑賞者が繰り返し殺害される主人公を傍観する構図と同じだと言えるでしょう。
 『順列都市』の作者イーガンは、公式Webサイトに開設されたThe Dust Theory: Frequently Asked Questionsにおいて、作中に登場するオートヴァースという世界について、ある種の後悔を表明しています。『順列都市』には先述の塵理論とTVC理論を使って無限に生きることが可能になった人々が登場します。そのほかに、作中人物が構築する別の物理法則に則る惑星と、その惑星で繁栄するべくプログラムされた仮想生命種が描かれます。『順列都市』のクライマックスはTVC宇宙で生き延びた仮想人格が、別の宇宙(オートヴァース)で進化した仮想生命種が生み出した、地球人とはまったく異なる文明と邂逅する場面です。
 このオートヴァースに知的生命体が生まれるまでのあいだに、無数の仮想生命たちが発生し死滅していったと考えられる、とイーガンは書いており、その無数の仮想生命の苦しみについて無批判だったことを後悔しているのです。

※次回は3月2日公開予定です。

 第13回
第15回   

プロフィール

永田 希(ながた・のぞみ)
著述家、書評家。1979年、アメリカ合衆国コネチカット州生まれ。書評サイト「Book News」主宰。著書に『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス)、『書物と貨幣の五千年史』(集英社新書)、『再読だけが創造的な読書術である』(筑摩書房)。
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