浅草キッドの水道橋博士は、タレントや作家の顔を持つ一方で「日記を書く人」としても知られています。
小学生時代に始めたという日記は、たけし軍団入り後も継続、1997年からは芸能界でもいち早くBLOG形式の日記を始めた先駆者となり、現在も日々ウェブ上に綴っています。
なぜ水道橋博士は日記を書き続けるのか? そこにはいったいどんな意味があるのか?
そう問うあなたへの「日記のススメ」です。
日記を書き続けた小渕恵三と百瀬博教
ボクは59年の人生の8割方は日記を付けているほどの日記マニアですが、他人の日記を読むのも好きです。
他人の日記を断片的に読むのではなく、かなりの長期にわたって読んでいくと、そのひとの人生の変遷や内面世界の成長がよくわかります。
今回は、思いつくままに印象的だった日記を書いていきます。
数々の名作ノンフィクションを残してきた佐野眞一作品で何が好きかと問われれば、『凡宰伝』(2000年、文藝春秋→文春文庫)が、ボクの推しのひとつです。
第84代、内閣総理大臣・小渕恵三。周囲から「凡人」「冷めたピザ」と思われていたこの人物の不気味な凄みとしたたかさを描いた作品ですが、本人への対談取材を進めると同時に、著者は小渕さんの日記を解析していきます。
小渕さんは、幼少の時から亡くなる寸前まで毎日、日記を残していました。
いかにも凡人らしいコツコツの歩みで宰相まで登りつめたのだから、日記は決して無駄骨ではなかっただろうと思います。
佐野眞一氏は、その日記を全てチェックして本作品を書いたとのこと。
気の遠くなるような作業ですが、ボクはさぞ楽しかろうと思ってしまいました。
ボクは現在noteに『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』を自主的に連載していますが、格闘技興行のプロデューサーで「PRIDEの怪人」と呼ばれた詩人の故・百瀬博教さんの日記は実際に手書きの文章を読ませてもらいました。
拳銃不法輸入事件で昭和44年(29歳)から6年半に及ぶ刑期を送った百瀬さんは、その間、一日も欠かさず獄中日記を書いています。
その数41冊という大学ノートに綴られた現物を読みながら、ボクは鳥肌が立つほど興奮しました。
何故なら最初の方はひらがなが多めの普通の日記なのですが、獄中で万巻の書を読み漁り、次第に森鴎外の文章のような漢字だらけの日記になっていきます。まるでSF小説の古典『アルジャーノンに花束を』の主人公・チャーリーの知能指数がまたたく間にあがっていく日記を見ているようでした。
獄から出た百瀬博教さんは、平成元年(49歳)に、『新潮45』に「不良日記」(現・幻冬舎文庫)を連載し文壇デビュー。
以降、「過去偏執狂」と言われるほどの記憶力を駆使して文章を著しますが、残された著作はすべてが「私」を巡るエッセーであり、日付のない「日記」でした。
一日一日を大切にするしかない「凡人」だからこそ
さて、ボクの運転手を努めていた若手芸人に、マッハスピード豪速球のガン太くんがいます。
3年前に、彼は相棒の坂巻くんとキングオブコントに備えて山籠りした日々を手書きでノートに書きました。
しかも、このまま日記帳として製本し、LIVEの物販で1000円で売ってみたら採算がとれたらしいです。
このノートを入手して読みましたが、坂巻くんの整然とした文字に比べ、なんとガン太の幼稚で乱雑な文字ぶり。それを見比べるだけで楽しい気分になりました。
そして、芸人になった息子を心配して親心で盗み読むような感覚に陥りました。
ファンには、愛しい芸人の肉声を聞くようで、素晴らしい宝物になると思います。
実は、その逆の経験もあります。
ボクは35年前、親に内緒でビートたけしに弟子入りし、知らせていた下宿先から行方不明になり、親が気がついた時には浅草のストリップ小屋の住み込みになっていました。
両親は上京し、ボクを連れ戻そうとしましたが、ボクは断固拒否。
親子の関係は、互いに「家出」と「勘当」で絶縁状態になりました。
数年後、ようやく芸人として少しは食えるようになった時、やっと実家に帰省することが出来ました。
そのとき父親の本棚で見つけた日記のなかに、ボクの行くすえを心配する一文を見つけて、一瞬で涙が吹き出しました。
26歳の時でした。この世に生を受けてから親心というものがわかるまで、26年という時間が必要だったのです。
ボクの日記史上、最も詳細に綴られた期間は23歳の時、浅草フランス座の修行時代です。
住み込みの初日からフランス座の崩壊まで、小屋暮らし、芸人修行の完全なレポートが続いています。
細かい文字で、起床から就寝までの小屋暮らしの若者の心の叫び。
貧乏に喘ぎながら夢を食べている、その日暮らしの芸人未満の何者でもない自己を悶々と観察しています。
Blogと違って他人に公開することを前提としていません。
今見ると、あの頃の自分がいじらしく、声をかけたくなります。
当時から小渕恵三のように自分が「凡人」でしかないとわかっていたのです。
「天才」でないのだから、一歩一歩、一日一日を大切にすることから始めるしかなかったのだと思います。
そして、今から日記をはじめようとする若者に声をかけたいのです。
人生が一冊の本だとしたら、日々の日記こそ「人生の付箋」なのです。
つまり、あの日、あの時、自分が何を思い、何を行動したか、全てを振り返り確認できる付箋を貼っているのです。
人生100年時代と言われる現代、日記をつけていれば、50歳を過ぎた時、人生の前半は全てフリであり伏線であることに気が付くはずです。
「付箋=伏線」なのです。
人生の後半は偶然の一致としか思えない、フリからのオチが必然的に起こり、伏線回収が続きます。
老い方の方法論、長生きする楽しみのためにも、皆さんも今から日記を始めてみませんか。
プロフィール
1962年岡山県生れ。ビートたけしに憧れ上京するも、進学した明治大学を4日で中退。弟子入り後、浅草フランス座での地獄の住み込み生活を経て、87年に玉袋筋太郎と漫才コンビ・浅草キッドを結成。90年のテレビ朝日『ザ・テレビ演芸』で10週連続勝ち抜き、92年テレビ東京『浅草橋ヤング洋品店』で人気を博す。幅広い見識と行動力は芸能界にとどまらず、守備範囲はスポーツ界・政界・財界にまで及ぶ。著書に『藝人春秋』(1~3巻、文春文庫)など多数。
水道橋博士の日記はこちら→ https://note.com/suidou_hakase