浅草キッドの水道橋博士は、タレントや作家の顔を持つ一方で「日記を書く人」としても知られています。
小学生時代に始めたという日記は、たけし軍団入り後も継続、1997年からは芸能界でもいち早くBLOG形式の日記を始めた先駆者となり、現在も日々ウェブ上に綴っています。
なぜ水道橋博士は日記を書き続けるのか? そこにはいったいどんな意味があるのか?
そう問うあなたへの「日記のススメ」です。
「博士年表」のきっかけ
2021年の8月18日にボクは59歳の誕生日を迎えました。
この日、ボクはライブハウスの『阿佐谷ロフト』で、『「アサヤン」VOL・20 59歳 真夏の大冒険〜年表の鬼〜』と題したイベントを主催しました。
誕生日イベントを開催することは長い芸能生活で初めてでしたが、この日の目玉企画は、『決してLIVEでは読みきれない 1962➡2021 水道橋博士LIFE年表』と銘打った17万字の文字で埋め尽くした新聞紙大12頁にもわたる巨大年表の無料配布と「年表とは何か?」のトークがメインテーマでした。
そして、この日の出演者には、この年表作りに携わるボクのブレーンのふたりが出演しました。
ふたりには「オール東大・京大」というコンビ名を授け、この20回目となる、「アサヤン」ライブシリーズに初めての登壇となりました。
読者にここで紹介しておきますと、まず「オール東大」の相沢直くん。
一般には誰も知らない名前ですが知る人ぞ知る、お笑い界の「頭脳警察」です。
現在41歳で、某大手企業の社員のまま、放送作家を兼業し、既婚者で娘2人の子育てをしながら、2年前から医大生も兼任しているという異常な経歴の持ち主です。
「オール東大」の由来は、「番組の企画で芸人の東大受験を提案したら、芸人が誰もやらないので自分が受けて……合格した」というどうかしているエピソードを踏まえています。
そして、「オール京大」は原カントくん。
このひとは、れっきとした博報堂の社員さんですが、やたらとテレビやラジオに出ている売れっ子の裏方さんです。
BSトゥエルビの『BOOKSTAND.TV』では、長年、ボクとコンビを組んで司会をしています。
また、ボクが編集長をつとめるメールマガジン『メルマ旬報』では副編集長をつとめています。
ちなみに最終学歴は京大です。
そもそも、この巨大年表は、もともとボクの日記ありきです。
何度も書いていますが、ボクは1997年から24年間も(一昨年の休養期間はありましたが)一日も欠かさず、8500日以上ブログを書いています。
それ以前にも、子供の頃から公開を前提としない日記を書いていますから、年表を作っても、人生の大半の日付と出来事が、日記を第一次資料として埋まります。
そこに注目したのが、相沢くんです。
テレビ番組プロデューサーとして、ボクのライフワークである『博士の異常な……』シリーズの裏方をつとめながら、当時、「TV Bros.」でもライターを兼業していました。
2013年の7月に「TV Bros.」の26周年記念号でボクの特集が組まれたのです。
テレビ大阪『たかじんNOマネー』での「小銭稼ぎのコメンテーター生放送降板事件」を受けて、「どうした⁉ 水道橋」と題して4ページもの特集が組まれました。
このなかの企画の一つとして、水道橋博士の奇天烈な行動を理解するための補助線として、「博士年表」を作ることになりました。
びっちりと頁を文字で埋めたのですが、「TV Bros.」の掲載は1万文字が限界です。元原稿は4万字もあったのです。
それを捨てるにはもったいないことから、「自前で年表作ろう」との話になり、それが『メルマ旬報』に持ち込まれました。
その人の人生のハイライトが浮かび上がる
そもそもボクは他人の年表を作る趣味がありました。
最初は私淑する作家で詩人の百瀬博教さんの年表を人知れず手作りしていました。
百瀬博教さんの一般的に知られているパブリック・イメージは、格闘技のPRIDEの会場でリングサイドに猪木の横に座っている「プライドの怪人」です。
その波乱万丈の経歴はほとんどの人が知りません。
もともと、ボクはこの人が書く、美文で綴られている本やエッセーの大ファンなのですが、百瀬博教さんの文章は、基本的に、自分を巡る経験譚しか書かれていません。
そこには年代も日付も入れないのが特徴なので、そのために氏の文章の全てをパソコンにデータで取り込み、並べ直して、年代日付を打ち、年表を作るようになりました。
もともとは完全な個人的趣味でしたが、2003年の8月に「TV Bros.」で浅草キッドと百瀬博教さんの対談が組まれた際、対談と共に、正体不明の怪人であり続ける百瀬博教さんの人となりがわかる自家製年表が付記されたのです。
年表を作ると、その人の人生のハイライトが、文脈のなかに浮かび上がってきます。
偶発的な出来事が、実は必然的に発生することもわかるようになります。
そして、人生には予告編があることがわかります。
それは物語で言えば「伏線」であり、長い人生の後半生には必ず「回収」があるのです。
それがボクの言うところの「星座」の概念です。
その後、年表作りが続きます。
2012年の10月5日、新宿FACEで『最強のふたり』と題した、プロレスのトークイベントが開催された際に、長州力と髙田延彦の年表を作りました。
これは同時代に新日本プロレスで育ったレスラー二人が、袂を分かち、後の1995年の10月9日、新日本 vs UWFインターの団体を背負って戦うことになる運命を、過去の日付を辿ってトークしてもらうために作りました。
新日本プロレス時代は、のべ5分ほどしか話していなかったふたりが、この日、5分後の世界を語ります。
ふたりの年表を並列に記してみると、時代ごとのふたりの距離感や接点がわかります。
そして、基本的には、プロレスラーや芸人は虚実を入り混ぜたトークをすることを許されている職業なので、あえて事実ベース、ファクトで裏付ける、トークショーを試みたわけです。
この大成功に味をしめて、この年、年末に浅草の下町コメディフェスが開催された時、「映画秘宝祭り」で、映画評論家の町山智浩さんと初めての対談を依頼され、このときも年表を作って配布しました。
町山さんの処女作『映画の見方がわかる本』にかけて、「町山智浩の見方がわかる年表」というタイトルです。
町山智浩さんとは今も懇意ですが、異業種の人との対談で、本質的な人となりの理解は、なかなか出来ないものです。
表層的ではなく、人の人生を理解するのは年表を作るのが一番わかりやすいのです。
年表作りは、ノンフィクション作家は必ずやる作業です。
見ず知らずの人に日記を渡す
さて、相沢くんの年表作りに話を戻します。
そもそも一番最初のボクの年表作りの時には、相沢くんが、ボクの自宅へ訪ねてきました。
当時、ボクは倉庫部屋と呼ばれる、20畳規模の書庫を兼ねた部屋を借りていました。
そこへ実家から、上京する前、過去に書いた日記や、蔵書のコレクションを送らせていたので、私物が最も揃っていた時期です。
自分で言うのもナンですが、ミニ大宅文庫とでも呼ぶべき資料部屋でした。
「相沢君が年表作りたいのなら、俺の部屋にある日記を全部読んでイイよ」
と言って、その日、ボクが地方に泊まりのロケだったから、泊まり込みで日記、資料を読み放題する、許可を出したのです。
見ず知らずの、ほとんど赤の他人を、よりにもよって一番パーソナルな個人情報である非公開の日記を読ませるのに部屋を明け渡すのですから、どれだけオープンな人なんだか自分でも呆れます。
相沢くんも、「最初はそこまで本気にやる気はなかったんですけどね」とのこと。
どうやら、ボクの提案で、逆に不本意にもこの年表作りの世界に巻き込まれてしまったようです。
そして、そこで出来上がった4万字の博士年表を、ボクが主催するメールマガジン『メルマ旬報』に掲載しました。
その後、これをメルマガではなく、11月9日のWOWOWでのダイノジ大谷くんとのトークイベント「博士と大谷の異常な熱情」開催の際に、観客にプレゼントするから、紙、ペーパーに打ち出したいと、ボクが言い出しました……。
メルマガでは、理論的には、デジタル上にどれだけ長いのを書いても大丈夫だから、最初の年表にどんどん日付と事件を足していったわけです。
打ち出してみると、8万字年表が出来上がりました。
この時点では、まだ新聞紙大で一枚のオモテウラのサイズで済んでしました。
しかも、「無駄で無茶で無理なものを!」が当時のボクのスローガンでしたので、無料で配ることにも拘りました。
その頃は、「FREE」という概念を追っていましたから、この年表を『藝人春秋』一作目のサイン会で各地で配っていました。
2013年8月26日開催の大阪のサイン会で、この年表を手にして、
「自分もコレをさんまさん年表を作りたいです!」
と名乗り出たのがエムカクさんです。
今や、新潮社でネバーエンディング・ストーリーである『明石家さんまヒストリー』(新潮社)を描き続ける、日本一の明石家さんま研究家です。
エムカクさんは、すぐに『メルマ旬報』の執筆者になってもらいましたが、とにかく彼がさんまさんの出生からの歴史を、日付ごとに追う、膨大な量の原稿を書き始めるわけです。
しかも「編集長の博士が年表作りが出来るんなら、自分も出来るはず」と勘違いして(笑)、エムカクさんまで、次々と年表を作り出します。
・明石家さんま×オレたちひょうきん族年表
・木村拓哉×明石家さんま年表
・明石家さんま×岡村隆史年表
ヒューマン・インタレスティング、人間愛、人生愛
こうして、『メルマ旬報』の執筆者を中心にした年表作りが盛んになっていきます。
そして、2017年、ボクの自伝的著書『はかせのはなし』(KADOKAWA)の出版記念に、第二弾の水道橋博士年表が作られました。
これが15万字バージョンの長大な大年表になったのです。
そして、今回、2017年までだったのが4年ぶりに更新して、17万字となりました。
今回、編集した相沢くんが、最も苦労したところは、ボクが休養期間に2年ほど日記が止まっていたので、その間をボクの妻の「ママ日記」で埋めたところでしょう。
人生を並走する隣人の観察もまた、人の営みを追っているのです。
相沢くんはボクとの付き合いを通して、年表作りの面白さに目覚めて、ライフワークとして年表を作るようになっていきました。
ボクと一緒に東洋館を舞台に『ザ☆フランス座』のLIVEシリーズを開催していたときは、お呼びするメインゲストの年表を、毎回作っていました。
その他の相沢くんの年表仕事、現物と経緯を紹介すると……。
・高田文夫年表
・いとうせいこう年表
・坂上忍年表
・和田彩花年表
などなどがあります。
2000年に相沢くんが発表した、高田文夫年表に至っては20世紀に絞っていながら、総量が20万字を超えていて、活字の級数を落としすぎて、老眼のボクも高田先生も読めないという、本末転倒ぶりです。
高田文夫年表は、『メルマ旬報』に連載し、毎回、毎月、高田先生のインタビューを敢行していますが、これだけのものを作るのに相手方、高田先生への取材費は一切、払っていません。
つまり、作る方も作られる方も趣味、道楽なのです。
自分の人生に興味を抱く後輩に胸襟を開き、人生の先輩が、己の来し方を語り尽くす姿こそが、年表作りの醍醐味です。
自分の人生を振り返り、慈しむ。
他人の人生に興味をいだき、探究心を持って調べ尽くす。
そこにあるのは、ヒューマン・インタレスティング、人間の喜怒哀楽に関心を寄せる人間愛、人生愛があります。
今回は、日記のススメから、敷衍して、年表のススメでした。
是非、皆さんも日記を通じて、人生年表を作ってみてはいかがでしょうか。
プロフィール
1962年岡山県生れ。ビートたけしに憧れ上京するも、進学した明治大学を4日で中退。弟子入り後、浅草フランス座での地獄の住み込み生活を経て、87年に玉袋筋太郎と漫才コンビ・浅草キッドを結成。90年のテレビ朝日『ザ・テレビ演芸』で10週連続勝ち抜き、92年テレビ東京『浅草橋ヤング洋品店』で人気を博す。幅広い見識と行動力は芸能界にとどまらず、守備範囲はスポーツ界・政界・財界にまで及ぶ。著書に『藝人春秋』(1~3巻、文春文庫)など多数。
水道橋博士の日記はこちら→ https://note.com/suidou_hakase