大阪府の北側、“北摂”と呼ばれる地域に「千里ニュータウン」という大きな住宅地がある。吹田市と豊中市にまたがる丘陵地帯を切り開き、日本初の大規模なニュータウンとして開発された。
千里ニュータウンは12の「住区」から構成されている(吹田市に8つ、豊中市に4つの住区がある)のだが、その中で最も歴史の古い「佐竹台」への入居がスタートしたのが1962年9月。つまり今年2022年は千里ニュータウンの“まちびらき”から60年を迎える節目に当たるのだ。
それを記念して「千里ニュータウンの60年」という写真展が開催されると聞き、見に行くことにした。会場は千里中央駅からほど近い「千里文化センター コラボ」という公共施設で、無料で入れるスペースに、時代ごとに変わっていく町の様子や、そこで暮らす人々の表情を捉えた写真が展示されていた。
私は「千里ニュータウン」周辺を散策したことがこれまでに数えるほどしかなく、中心地である千里中央駅前の賑わいを除けばあとは画一的な風景が続くばかりの住宅街だと、そんなイメージを勝手に頭の中に描いてしまっていた。しかし、並んだ写真を見れば、60年という長い歳月の中で様々な変化が起きてきたことがわかる。「ニュータウン」という響きからにわかに連想できない歴史が、ここ、千里ニュータウンには積み重なっているのだ。
写真展の会場に、千里ニュータウンに関するさらに詳しい資料を集めた「吹田市立千里ニュータウン情報館」という施設があることを記した案内パネルが掲示されていた。少し離れた場所にあるらしかったが、せっかくなのでそこまで足を延ばしてみることにした。
建物の老朽化を理由に閉館した商業施設「セルシー」の跡地や、1970年に開催された日本万国博覧会の跡地「万博記念公園」への交通ルートとしてもよく利用される大阪モノレールの車輌を眺め、起伏に富んだ地形の中に建つ住宅街を歩きながら、南千里駅方面へと歩いた。
駅前に建つ「千里ニュータウンプラザ」の2階にある「千里ニュータウン情報館」にたどり着くと、千里ニュータウンの開発が決定した1958年から近年までの出来事をまとめた年表や、千里ニュータウンのまちづくりを当初から記録した映像資料、全国各地のニュータウン関連の書籍などが閲覧できるようになっていた。
それらの資料を眺めている私に声をかけてくれたのが、千里ニュータウン情報館のスタッフを務め、吹田市都市計画部の職員でもある曽谷博之さんであった。聞けば曽谷さんは幼少期に千里ニュータウンに引っ越して来て、今もなお住み続けている生粋の“千里ニュータウンっ子”.なのだとか。「千里ニュータウンについてのお話を聞かせていただけないか」とその場で取材を申し込み、日を改めてお話を伺うことになった。
2014年から大阪に移住したライターが、「コロナ後」の大阪の町を歩き、考える。「密」だからこそ魅力的だった大阪の町は、変わってしまうのか。それとも、変わらないのか──。
プロフィール
1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』『QJWeb』『よみタイ』などを中心に執筆中。テクノバンド「チミドロ」のメンバーで、大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』(スタンド・ブックス)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)、パリッコとの共著に『のみタイム』(スタンド・ブックス)、『酒の穴』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)がある。