阪急電車は「地ごく谷」を通る
――60周年を迎えて、千里ニュータウンの歴史を総括するような企画とか、書籍が出るとか、そういう予定はありますか?
「10周年の時はたとえば『大阪ガス』のような在阪の大企業体が千里ニュータウンに記念のモニュメントをプレゼントしてるんですよ。20年目の時は、20周年のお祭りがあって、30周年も、40周年もお祭りをやってきた。だんだん住民が企画段階から参加するようになっているのが面白いんです。50年目の祭りは住民参加型の一大イベントで、それはかなり華やかやったんです。ただ、大阪府としてはそこで一区切りついたなというスタンスみたいで、60周年目は行政が主体となる大きいお祭り・イベントはありません。今は住民さんが動き出して、ちょっと何かやろうよっていうところですね」
――なるほど、現在計画中ということですね。
「千里ニュータウンはまだ60年です。僕が今61歳やから、ちょうど一緒ぐらいなんですけど、まちとしてはまだまだこれからですよね。100年にもなってない。奈良とか京都の歴史からみたらね、あっちはもう人の一生にすると……何回転してんねんっていう(笑)。千里ニュータウンって資料や文献もそれなりにはありますし、近年ではグルメなどまちの紹介本などは多種出版されています。加えて、これからは住民さんが執筆する千里ニュータウンの出来事、歴史、資料集などの出版が増えたらいいなと思っています」
――そうなんですね。
「もっと千里ニュータウンの歴史や記録を残していきたいと思ってるんですけどね」と語る曽谷さんが差し出してくれたファイルがあった。
開いてみると「千里ニュータウン むかしのはなし」というメインタイトル、「おじいさん おばあさんらから聞いたはなし」というサブタイトルが記されている。1977年に石井俊子さんという方が著した書籍をコピーしたものだ。曽谷さんによればこの書籍は、千里ニュータウンで暮らす主婦であった石井さんという方が近所のお年寄りに千里ニュータウンの昔話を聞いてまわった、自力で作った聞き書き集なのだという。
「各地域の古いはなし」「雨乞いのはなし」「きつねやたぬきのはなし」などといった項目別に、長い話も短い話も分け隔てなく収録されている。
たとえば、曽谷さんが住んでいた高野台の辺りではこんな話が聞かれたようだ。
“馬詰(まずめ)()の西側(高野台二丁目阪急線)にあった谷を地ごく谷といいました。名の通りのけわしい谷で、この谷にそって阪急電車を通しました。又、地ごくの谷ほど深かったので、子どもたちが悪いことをすると「地ごく谷へやるぞ」といったものです。”
“山田の中でも高野台辺りは、一番竹やぶが多く竹の子がたくさんとれました。米を一石作っても収入は十二円でしたから、生活は楽ではありません。それで、あちらでもこちらでも竹やぶを作り生計をたてました。しかし、五十年ほど前、竹の子は、とれてとれて、裏庭に捨てる方がましなほどの値しかつかなくなり、農協でも、個人でも、竹の子のかんずめ作りを始めたのです。かんずめ作りは好評で今も続いています。”(すべて原文ママ)
書籍にはこれらの話の語り手が明治28年生まれの方であることが併記されている。曽谷さんは言う。「この頃、明治や大正生まれの人がまだ元気だったんですよね。そういう人の話を残しておかなければという強い使命感のようなものが石井さんにはあったんやと思います。僕も今の70代や80代の方々に千里ニュータウンができた当時のことを聞いてまわりたいと思ってるんですよ」
たくさんの資料をお借りしての帰り道、千里ニュータウンがこれまでとはまったく違った町に見えている自分に気がつく。地ごく谷が子どもたちをおびえさせ、曽谷さんが凧揚げをして遊んだ千里ニュータウンの昔話を、私はもっと知りたいと思った。
(つづく)
2014年から大阪に移住したライターが、「コロナ後」の大阪の町を歩き、考える。「密」だからこそ魅力的だった大阪の町は、変わってしまうのか。それとも、変わらないのか──。
プロフィール
1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』『QJWeb』『よみタイ』などを中心に執筆中。テクノバンド「チミドロ」のメンバーで、大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』(スタンド・ブックス)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)、パリッコとの共著に『のみタイム』(スタンド・ブックス)、『酒の穴』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)がある。