「それから」の大阪 第20回

千里ニュータウンの昔の話

スズキナオ

万博がまちづくりのターボに点火した

――曽谷さんの子ども時代から、町の風景は変わっていますか?

「道路線形はほとんど変化はないですが、全体的に変わってますね。もとからある団地は少なくなりましたね。老朽化で建て替わってますし。銭湯がなくなりましたし、よく泳ぎに行ってた市民プールも無くなったり」

――思い出の場所ってあったりしますか?

「千里ニュータウンの中を自転車を買ってもらったら自転車で走ったり、原付買ったら少し遠くまで走ったりとか、車の免許を取ったら隅々までドライブするとか、その時代で好きな場所が変わっていってますね。ああ、でも『セルシー』ができた時は、友達同士で『自転車で探検だー』ゆうて見にいって『けったいな建物やなー』ってびっくりしてね。ここは思い出深い場所ですね」

千里中央駅の駅前に商業施設「セルシー」がオープンしたのは1972年のこと(提供:北摂アーカイブス)

――千里ニュータウンのそれぞれの住区では、たとえば夏祭りをしたりもするんですか?

「まず今はコロナが大ブレーキやね。かといってコロナがなかっても、最近は夏祭りを頑張ってる住区や近隣センターと、『そこまで労力が確保できない。無理だ』っていうところに分かれてますね」

――誰かが中心に立ってまとめていかないとできないことですもんね。

「人材、資金、場所とイベントをするには相応のパワーが要りますからねぇ。盆踊りなんかは昔は小学校でやってましたね。近隣センターの敷地でやってたところもあったんですけど、それもコロナでぽしゃってます」

――今は曽谷さんは職員として千里ニュータウンの全体を見るお仕事をされていると思うのですが、大きな課題のようなものはありますか?

「やっぱり高齢化ですよね。高齢化率をどう下げていくかは課題ですよね。千里ニュータウンの人口でいうとね、1975年、昭和50年の時点で人口が13万、高齢化率が3.5%ですわ。ものすごい少ないです。それが2005年、平成17年になると人口がどんどん減って9万人で、高齢化率が26%。高齢化率はなかなか下がりません。人口は2010年、平成22年頃から反転が始まり、10万人を超えてきてます。人口はわずかながら右肩上がりにはなってますけどね」

千里ニュータウンの津雲台周辺に建つ集合住宅(2022年4月撮影)

――千里ニュータウンのまちびらきが1962年で、1970年には近い場所で大阪万博が開催されますよね。それはニュータウンに影響を及ぼしたんでしょうか?

「まちづくりのさらなる追い風になりました。いや、ターボに点火したみたいな感じかな(笑)。まちびらきしたっていっても住区ごとに順番に造っていったんで、『まちづくりがようやく一区切りついたよね』っていうタイミングに万博がきたんで千里ニュータウンにさらに注目が集まったし、消防やゴミ処理施設が充実するなど、まちづくりへの影響はむちゃくちゃ大きかったですね。それに加えて万博って、跡地をうまく活用できるかどうかというのがあるんですよね。70年の大阪万博は跡地を公園にしているのがすごいんですよ。これは未来を考えた当初計画の功績ですね」

――千里ニュータウンが開発された時は1970年の大阪万博のことは想定されてなかったんですかね。

「どうやろうねぇ? でも千里ニュータウン完成の次は万博開催なんて……それはすごくラッキーやったと思います。千里ニュータウンは万博のおかげで、中国自動車道や地下鉄御堂筋線、北大阪急行線が開通して交通網の整備がさらに進みました。飛行場まで行けるモノレールも続けて開通しました。千里ニュータウンを創造した当時の大阪府の職員の考え方がかなり柔軟で斬新だったと思います。ようもここまでまちづくりを考えたなーと思いますもん。万博とか『太陽の塔』にはそれができるまでのドラマがありますやんか。千里ニュータウンにもああいうドラマがたくさんあったと思うんですよ」

「千里ニュータウン情報館」では、1964年創刊の地方紙「千里」のストックを閲覧することもできる(2022年4月撮影)

――日本初のニュータウンなわけですもんね。

「もともとまちづくりに『区画整理』っていう言葉があるでしょう。それの巨大版がニュータウンなんですよ。農地に対して、水の流れを考えて、道を碁盤の目にして、農業の効率を上げましょうっていうのが区画整理の基礎にあるんですね。そんな発想で人が住むまちを昭和の時代に始めから造ったわけで。それにしても60年前の大阪市の近隣にこんだけの土地がようあいてたなっていう。これが全ての始まりですね。他のニュータウンって人口が減ったりとか、色々と難しい問題がありますやんか。千里ニュータウンはこの立地と高速道路と二つの鉄道とモノレール、これが決定的にまちの活性が続いているポイントやと思います」

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2014年から大阪に移住したライターが、「コロナ後」の大阪の町を歩き、考える。「密」だからこそ魅力的だった大阪の町は、変わってしまうのか。それとも、変わらないのか──。

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プロフィール

スズキナオ

1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』『QJWeb』『よみタイ』などを中心に執筆中。テクノバンド「チミドロ」のメンバーで、大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』(スタンド・ブックス)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)、パリッコとの共著に『のみタイム』(スタンド・ブックス)、『酒の穴』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)がある。

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