「それから」の大阪 第20回

千里ニュータウンの昔の話

スズキナオ

SF映画の風景のような町

千里ニュータウン情報館の曽谷博之さん(2022年4月撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 家族で千里ニュータウンの高野台というエリアに住み始めた時、曽谷さんは2歳だったという。一家はもともと大阪市大正区に住んでいたが、千里ニュータウンに新しくできる団地が入居者を募集すると知り、抽選に応募した。その結果、かなりの倍率をくぐり抜けて当選し、入居することになった。曽谷さんはトラックに家財道具を積んで引っ越してきた日のことを憶えているそうだ。

 入居が開始されたばかりの高野台の町は、人の姿の見えない広い土地に団地がドーンと建っているだけで、SF映画の風景のように思えたらしい。曽谷さんが入居することになったのは8世帯が住む2階建ての団地。建物は斜面地を背にして建っており、それが格好の遊び場になった。物心がついた曽谷さんはダンボールやベニヤ板でその坂を滑って遊んだことや、団地の周りにテントを張ってキャンプをして遊んだこと、大人たちが外に出て近所の仲間と酒を飲んでいたことなど、実にたくさんの場面を記憶している。

 

――子どもの頃は団地の裏が遊び場だったんですね。

「そうですね。団地の裏には何もなくて斜面地だけだったんで、そこを滑ったり、斜面地の上で凧揚げした思い出もあります。小学生になると、千里南公園が近かったんで、そこへよう遊びに行ってました。この公園には昔からため池があって、津雲台あたりの雨水が土管を伝ってここに入ってくるんですよ。小学生が入れるぐらいの大きな土管なんですけど、そこに僕みたいなあんぽんたんな悪ガキが入って遊んでたと(笑)」

――なんと!それは結構危険な遊びじゃないですか?

「悪い遊びやね(笑)。そこに津雲台の連中も来てて、どっちが奥までいけるかとか、馬鹿なことやってね。見上げたらマンホールの蓋があって、そこはたぶん道路だったんでしょうね。車の通る音がマンホール内に反響して、怖くなって逃げたりね」

幼少期から青年期までを高野台で過ごしたという曽谷さん(2022年4月撮影)

――おいくつまで高野台で過ごしたんですか?

「17歳までですね。2歳からで15年です。今は(同じく千里ニュータウン内にある)青山台に住んでいます。ニュータウンの人生そのものですわ」

――高野台とか青山台といった一つ一つの住区をまたいで遊びに行ったり、友達ができたりとか、そういうこともあったんですか?

「それはほとんど無かったと思います。一つの住区に必ず一個ずつ小学校があるんです。小学校はそうなんですけど、中学校は二つの住区に一校なんですよ。たとえば、高野台にも佐竹台にも小学校があるんですけど、中学校は高野台にしかないんです。佐竹台の子はそこで初めて高野台の子らと出会うんですよ。他も一緒で、中学校は二つの住区に一つやから、そこでの出会いはあるけど、それ以外は自分の住んでいる住区の友達と遊んでいましたね」

――どの住区に住んでいるかということが結構大きいわけですね。ちょっと悪ガキというか、不良といわれるような子たちもいましたか?

「私のまわりにはまったくいなかったんですよ。純粋培養みたいなもんで、校内は平和平和。僕らが中学校の時ゆうたら、1973年ぐらいですけど『旧市内の方から不良がニュータウンに来るらしい』って噂が流れて、実際に遭遇した友達が『怖かったわー』って(笑)」

――想像上の存在みたいなものだったんですね。

「のどかな時代でしたね」

――なんというか、ニュータウンと聞くと少し画一的な場所で、若者は「ここは自分に合わない」と思ってそこを飛び出していくみたいなイメージを勝手に抱いてしまっていたんです。

「ああ、『俺はカメラマンになんねん』とか『アーティストになんねん』っていう人はそうやったかもしれんけど、僕がそんな達者じゃなかったんでね。塾の後で仲のいい友達連中とワイワイしゃべってたぐらいですね」

――近隣センターというのはどういうものですか?

「千里ニュータウンってもともと何もないところに造ったまちなんで、商業施設の集合地が全部の住区に一個ずつ造られてるんですよ。それが『近隣センター』です。大阪府の当時の職員いわく、ニュータウンを設計する上で、道路と鉄道をまず考えて、それを12個の住区に割って、その次に小学校を配置する場所にものすごいこだわったと。その上で、小学校の近所に近隣センターを必ず配置するようにしたんだそうです」

――なるほど、あらかじめそこまで考えて設計されていたんですね。

「そこにお医者さんも配置されました。商業施設も病院も『どこに建ててもいいよ』じゃなしに、制限をかけて『他には建てられませんよ』と。だから近隣センターの商店は八百屋さん、魚屋さん、肉屋さんと、全部一軒ずつやったんですよ。お医者さんも小児科、外科、内科とか、一種類ずつ集まっていた。そしてほとんどの近隣センターには銭湯があったんです」

まちびらき当初の団地には浴室が無い構造の団地があり、台所やベランダにこのような簡易浴室を設置する住民も多かったという(2022年4月撮影)

――必要な商店や施設が必ず計画で決まった場所に建てられていたわけですね。曽谷さんはそういう町で育って、地域のつながりみたいなものは感じていましたか?

「自治会があって子ども会があって、結構昔はハイキングやなんやゆうて、地域でやろうやないかみたいなの多かったんやね。千里ニュータウンに住み出したのは僕らの親が初めての年代やからね。その人らの親世代っていうのはおれへんわけやから、何かにつけてフロンティア精神があって、『俺らが創るねん』っていうのがあったんやと思いますわ。地域のつながりは強かったですね」

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「それから」の大阪

2014年から大阪に移住したライターが、「コロナ後」の大阪の町を歩き、考える。「密」だからこそ魅力的だった大阪の町は、変わってしまうのか。それとも、変わらないのか──。

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プロフィール

スズキナオ

1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』『QJWeb』『よみタイ』などを中心に執筆中。テクノバンド「チミドロ」のメンバーで、大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』(スタンド・ブックス)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)、パリッコとの共著に『のみタイム』(スタンド・ブックス)、『酒の穴』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)がある。

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