1970年11月25日
タイムマシーンでまた別の時間に行ってみたい。
やはりこれをもう一度書かずにはいられない。
――1970年11月25日の夜7時すぎだったか。とんとんとんと新宿の大通りから階段を上ってくる音がする。モルタル造りの洋服屋2階にあるジャズ喫茶、ピットイン・ティールーム。管打弦の楽器が渦巻く室内でも壁は薄い。靴音が聞こえるのである。
と、まもなく黄色いアクリルのドアが開く。誰か入ってきた。
この日は一日中晴れ。最高気温13.4度、最低気温は4.7度まで下がる。8メートルの強い北風である。夕闇のこの時間は寒かったと思いだす。店の客はダッフルコートなんか着ていたはずだ。このあたりの都心学生ファッション事情は庄司薫の小説『赤頭巾ちゃん気をつけて』(新潮文庫)をご覧あれ。
上がってきた男はダッフルを着ていない。
ん? 短髪。若者が渦巻く当時の新宿ではまず見ない。目を凝らすと、
坂本龍一である。
細長いカフェの空間を黒人女性のハスキーヴォイスが満たしている。ニーナ・シモンのライブ盤である。そのLPを掲げるレジ前から、のそっとした塊が奥まで来た。
この日も単独行動だろう。なんで髪を切ったんだ。
向こうは4月に高校を卒業して東京藝術大学の学生、こっちはまだ同じ高校の3年生だ。でもお互い学校なんか行っちゃいない。昼はデモや集会三昧、夜には新宿のどこかで顔を合わせるのである。前の年、1969年1月東大安田講堂の攻防直前に彼は砦に潜り込み、私は当日の本郷三丁目で投石のあげく寿司屋に逃げ込んだとは、後から話して知ったことだ。
「三島の首を見に行った」
隣の席に座るや坂本はこう言い放った。市ヶ谷から遺骸が移された牛込署に押しかけたという。彼の声はニーナ・シモンに劣らず低い。それでも口ぶりにいつにない圧が加わるのである。ギクッとして一瞬。こちらも応えた。
「う~ん、そう」
そう言って、耳はヴォーカルの艶に惹かれてしまうのである。
それがどうしたんだ? という意味である。マイルス・デイヴィスならso what? と吐き出すところだろう。
全テレビ局のアナウンサーはもちろん、新聞も街の声も口ごもった熱に覆われていた。その口吻は猟奇事件への嗜好を隠している。三島たちは自決しただけじゃない。将官数人の身を斬っている。
とはいえ、こちらも食えない高校生。受験まで3か月ないのに、紀伊國屋書店5階で歌川国芳門下の幕末無惨絵集くらいは覗いている。討幕内乱の嵐を借景して首が飛び胴も両断される。市ヶ谷の方向をうかがうと、そんな流血地獄の極彩色が眼に浮かぶのである。
そいつが鬱陶しい。
しまいに坂本はテーブルに乗って店中に演説を始めた。左右どちらへの煽動なのかまるでわからない。しばらく聞いて、こちらは早々に退散。病に倒れた親たちの家業を手伝わなきゃならないからだ。
クサヤの干物
市ヶ谷の一件は、40年ほどして坂本本人の口から明かされるようになった(*1)。その後のピットイン・ティールームでの演説についても語られている(*2)。私はその現場にいた一人なのである。
当時、新宿のジャズ喫茶は新左翼学生やフリージャズ・フリークの巣窟である。ピットインは中でも最高熱なスポット。アジテーションを聞いた客たちに坂本がヤジりたおされたという記憶はない。黒や赤のヘルメットを片手に入ってくるような連中だ。まあしょうがねーな、という雰囲気がこの店にはあった。
あいつにはあいつの衝動があり、おれにはおれの意地がある。
私は私で特有の、つまりそういう彼にはわかりにくい違和感を抱えたまま店を出たのである。新宿通りを北関東から空っ風が吹き抜ける。彼の家がある京王線千歳烏山とは逆の方向に歩いた。そして長い間、なぜso whatなのか考え続けたのである。
後にこの「事件」を語る坂本自身の語り口は、じつにあっけらかんとしている。こういうすれ違いが人生の迷路を作り出すんだな――と思うのである。
首を失う寸前の三島由紀夫は、歌舞伎についてこんなことを言っている。
くさやの干物に例えて、
―――非常に臭いんだけれども、美味しい妙な味がある(*3)。
うまいことをいうね。
「くさや」とは伊豆七島新島特産の発酵液に浸した魚の干物だ。味はまろやかだが、死臭を思わせるほど猛烈に臭い。湿った路地に精液がこぼれ、泥濘に屍が横たわる江戸悪場所の小屋で演じられる歌舞伎に、これはふさわしいのである。
なにせ18歳である。そこまで達観できたわけじゃない。
それでも歌舞伎座のテレビ中継を見て育った赤線街のガキ。そういう嗅覚は鼻腔に染みている。軍旗はためくバルコニーで大見栄を切ったあげく、幕僚を斬り己を切る大立ち回り。なぜか100人の機動隊は書割のように建物を囲んだまま手を出さない。
明晰な合理主義者三島は、新左翼騒乱を背にして、臭いと知りつつ「クサヤの干物」を演じて見せたのである。いずれ、この苦味を知る者の中から憂国の士が現れるだろうと。「七生報国」の物語は見世物小屋から生まれたようなもの。いま読むと『文化防衛論』(ちくま文庫)はそのタネあかしである。
こういう出来すぎた花道芝居に耽溺する日本人の心根を抉るのが、オレたちが始めたことなんじゃないの。このとき私はそう言いたかったと思う。高校三年生じゃあ、とても言葉になりませんでした。
クサヤじゃないが、このころ元赤線青線の女たちは道端の七輪でメザシを焼いていた。夜の街の暗がりで魚の脂とミニスカートの淫らな臭いが混じりあっている。おれんちから歩いて20分。四谷永住町(現在の四谷4丁目)の高台で育った作家は二丁目赤線の沼地をどこまで知っていたのか。龍一が帰る千歳烏山の路上には臭い煙が上がる干物を焼く人はいなかったと思う。
だが彼が先に逝って、網膜の銀塩写真も解像度が上がる。
うす暗いジャズ喫茶の隣で光る坂本龍一の眼球。そこに若い理知の恥じらいが覗いていたのもたしかである。あれから43年たって、それをいくらか武勇伝っぽく話してしまうのが、ぼくらのジェネレーションの悪い癖だ。
(1:「日経ビジネス」Web版、國分浩一郎との対談。https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/040400377/?P=5)
(2:『週刊現代』2012年1月号。「現代ビジネス」に再録。https://gendai.media/articles/-/108491?page=3)
(*3:1970年7月3日、国立劇場俳優養成所での特別講義。https://www.asahi.com/articles/ASNCW54ZBNCVPTFC00M.html)
(vol.6「『生きるための音楽』とは」は9/29公開予定です)
2023年3月28日、1人の音楽家が世を去った。坂本龍一、71歳。 著者の平井玄は、都立新宿高校で坂本の1年後輩。1968年の夏、2人は出会って意気投合し、高校生全共闘運動を共にするようになる。 約半世紀、長い沈黙も含めて「異論ある友情」を続けた坂本と平井。 平井は「僕らがついに話さなかったことがたくさんある」と言う。 だから、坂本龍一を探して旅に出ようと決めた。未知の存在も含めて、坂本を知る人びとに会ってみよう、と。 それはこの国の戦後文化史であり、この時代の精神史にもなるだろう。
プロフィール
文筆家
1952年、東京・新宿二丁目生まれ。1968年、都立新宿高校に入学。1974年、早稲田大学文学部抹籍。
家族自営業をへて校正フリーターに。早稲田大学や東京藝術大学、立教大学の非常勤講師を務めた。映画『山谷 やられたらやりかえせ』の制作上映に関わり、非正規労働者運動にも参加する。
著作に『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』(太田出版)、『千のムジカ』(青土社)、『暴力と音』(人文書院)、『ぐにゃり東京』(現代書館)など。最新刊は『鉛の魂』(現代書館)。