ぼくらが話さなかったこと 坂本龍一への旅 vol.4

「坂本龍一」の不在

平井 玄(ひらい・げん)

バケツとテクネー

 彼は正しく「音の人」だな、とあらためて感じる。
 こんな写真が残されている。
 ニューヨークの自宅だろう。雪がやんで小雨に変わった庭先。その景色を前にバケツを被って音を採集する坂本龍一がいる。その微笑ましい後ろ姿だ。
 バケツ? ランダムに底を叩く雨音に耳を澄ましている。滑稽だけれど、あられもなく真摯。音に帰依する虚無僧である。最期の病床でも音の録音ばかり聴いていたという。この托鉢僧がさらにマイクを手に森の中に分け入る映像もある(ドキュメンタリー映画『Ryuichi Sakamoto: CODA』2017年)。喜捨を乞うのは、雨摘が着地しては砕け散る非連続な音。あるいは樹々の息遣いや葉のかすれ声、飛ぶ鳥の高周波音や這う虫のささやきである。

 宮本常一を重ねるのはこういう場面だ。人はさまざまな声を降り積もらせて生きる。そして口を閉じて一人ひとり朽ちる。どこにも残らないそんな声音を求めて、民俗学徒は島国いたるところの裏道を歩いた。坂本にはもっと寂れた路地裏を徘徊してほしかったと思う。いずれにせよ二人ともそうとうな「聞き上手」なんである。

 坂本龍一の生涯。それは初めに音ありき。終わりにも音ありき。
 ザワメキが音色になるずっと前の粒を採取し切断配合しては、時間の中にひとつひとつ置いていく。ナノ単位の精密作業である。山下洋輔のように体から絞り出すような即興演奏は数少ない。DNA配列をひとつひとつ置き換えるゲノム編集にも似たその手つきを、竹田賢一は「テクネー」という古典ギリシャ語で呼んでいる。

 もっとテクネーというか。 思想に先立つ技術みたいなもの。民衆であろうと王様であろうと、そういった階級的存在のあり方に先立つ技術みたいなものに対する、坂本の惹きつけられ方だと思う。

「耳だけじゃなくて、頭もいい」っていうと普通の言い方になっちゃうけど。「耳がいい」というより、頭の感度が坂本龍一はいいよね。

(2023年5月29日収録インタビューより)

「テクネー」とは、まずなにより魂から真っすぐに伸びた掌の技藝である。民俗学者である宮本常一も産業化以前の世界を生きる「忘れられた民」を探しにいった人。そこで彼が見つめ続けたのは掌に親しんだ民具だ。その柔らかな形をたどる民俗学徒の手つきに、詩人で思想家の谷川たにがわがんも鋭く反応した。筑豊炭坑で炭鉱夫たちとともに闘った詩人は、天からのイナズマや夜明けの村に佇むかめにアジアの永劫を見る眼を養った。坂本龍一の掌、その編集技術も慎み深くて決断力に富む。この「テクネー」についてもこれから語ることになるでしょう。

 久しぶりに竹田さんと話して二人うなずいたことがいくつもある。
 最初の3作と最期の3作はとにかくすごくいいよね。これにまず口をそろえた。特にアレハンドロ・G・イニャリトゥ監督の映画『レヴェナント:蘇えりし者』(2015年)の音を聴いたときは、二人ともハッとした。これはまた龍一を聴き直さなければ。と語り合うのである。

 う~んでもね、と間があく。
 竹田さんや私にとって30年以上「坂本龍一」は不在にしていたのである。
 いなかった?
 実際、『B-2 UNIT』が出された1980年から、『レヴェナント』に接する2016年までの間、わたしたちは坂本龍一をそれほど聴いていなかった。

教授がいない30年

 そうなんだよね。
 これはどういうことなんだろう?
 西欧のクラシックを熟知した藝大出のアレンジャーという音楽スタジオ職人からYMOへ。忌野清志郎と「い・け・な・いルージュマジック」をリリース、大島渚の映画『戦場のメリークリスマス』に出演して「メリー・クリスマス ミスターローレンス」がヒット。さらにベルトルッチの映画『ラストエンペラー』にも出演。アカデミー作曲賞を受賞する。いつの間にかテレビのバラエティー番組で見るポップスターがいた。この時代の坂本龍一は芸能人である。言ってみれば「新宿の人」から「青山・渋谷の人」になる。そして1990年にはニューヨークへ向かう。多くの人が知るこういう「教授」の日々を、私たちは意外なほど知らないのである。

 これはちょっと冷たい言い方かもしれないね。
 二人の口ぶりがまた重なる。

 1980年代、大学をドロップアウトした私は、家族自営商店の肉体労働からさらに出版界の日雇い校正マンになっていた。そういう人間が歩く印刷工場の暗い廊下や長い塀の裏通りには、教授の音はまったく似合わない。彼が加わった『パパ・ヘミングウェイ』(1979年)に始まる加藤和彦ヨーロッパ3部作の時期は、ちょうど私が日雇い労働者の街である山谷に通った日々である。世間は「バブル時代」なのに、ヘミングウェイの「移動祝祭日」めいたその音を、当時の私は一度も耳にした覚えがないのである。ああ、遠く離れてしまったな。工場裏のとんかつ屋で見かけたテレビの彼にそう呟いたこともある。

 この間の坂本龍一になにがあったんだろう。
 と、お互いに言葉を探す。
 竹田さんは、坂本がニューヨークに移ってから手掛けた映画音楽の数々に興味を抱いている。私は大衆音楽の世界で坂本が積み重ねた職人芸をたどってみたいと考える。加藤和彦や南佳孝だけじゃない。彼は矢沢永吉や森進一、前川清の作曲やアレンジも務めている。『千のナイフ』を聴き直すと、その仕事がたんに生活のためのルーティン・ワークだけとは思えないのである。ちょっと角度は異なるが、永六輔と戦後ポップスを編み出した中村八大とも比べてみたい気がしている。
 これも探し出したい旅の忘れ物である。

 天は、降り落ちてくる時の滴を長い時間をかけてゆっくりとろ過する。
 そうやって坂本龍一のテクネー、魂の感度は然るべきところに降り立ったと思う。
 朝鮮半島の古民具が佇む部屋でピアノの音がそう聞こえるのである。
 アカデミー作曲賞を手にした坂本龍一は、国内では文化勲章も国民栄誉賞も受けていない。1992年のバルセロナ五輪開会式では自作曲を指揮している。サッカー協会に頼まれた「日本サッカーの歌」なんて曲もある。
 けれど、国家イベントに関わったような形跡はない。
 はたしてオファーされたのか? あったとしたら、そこにどんな交渉があったのか、あるいはなかったのか。福島ではどうなのか。彼は国家の力にはまつろわなかったと思う。音楽の無力と同時に、人の魂を動かす恐ろしさも知っていたからだ。私には、そういう意味でも坂本は「忘れられた非日本人」の一人なのである。

(vol.5「あいつにはあいつの、おれにはおれの」は9月22日公開です)

 vol.3
vol.5  
ぼくらが話さなかったこと 坂本龍一への旅

2023年3月28日、1人の音楽家が世を去った。坂本龍一、71歳。 著者の平井玄は、都立新宿高校で坂本の1年後輩。1968年の夏、2人は出会って意気投合し、高校生全共闘運動を共にするようになる。 約半世紀、長い沈黙も含めて「異論ある友情」を続けた坂本と平井。 平井は「僕らがついに話さなかったことがたくさんある」と言う。 だから、坂本龍一を探して旅に出ようと決めた。未知の存在も含めて、坂本を知る人びとに会ってみよう、と。 それはこの国の戦後文化史であり、この時代の精神史にもなるだろう。

プロフィール

平井 玄(ひらい・げん)

文筆家

1952年、東京・新宿二丁目生まれ。1968年、都立新宿高校に入学。1974年、早稲田大学文学部抹籍。

家族自営業をへて校正フリーターに。早稲田大学や東京藝術大学、立教大学の非常勤講師を務めた。映画『山谷 やられたらやりかえせ』の制作上映に関わり、非正規労働者運動にも参加する。

著作に『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』(太田出版)、『千のムジカ』(青土社)、『暴力と音』(人文書院)、『ぐにゃり東京』(現代書館)など。最新刊は『鉛の魂』(現代書館)。

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