(前編はこちら)
スーフィズムは、日本語ではイスラーム神秘主義と訳され、日本人にはあまり馴染みのない難解な思想に思えるが、その本質は茶道や武道にも通じ、日本文化と極めて近い。『スーフィズムとは何か イスラーム神秘主義の修行道』を上梓した山本直輝氏は、トルコをはじめ、イスラームの若者たちには日本の少年漫画の熱烈な愛好者も多く、その物語の中にも、スーフィズムと共有できる思考法や関係性があるという。
山本氏の学部時代からの師であるイスラーム学者・中田考氏、宗教学者の島田裕己氏に参加していただき、スーフィズムの世界観、魅力、さらにその枠を超えた新しい文化体系の可能性などについて、語り合っていただいた。
構成=宮内千和子 撮影=石川雅彩
「道」「修行」にあたる言葉がなぜ欧米にはないのか
島田 スーフィズムが日本の「道」「修行」に非常に近いというお話を伺ってきましたが、欧米にはそういうものはないんでしょう。
山本 どうでしょう。例えば現代英語の中に「修行」に相当する語があるのかというと、trainingとかpracticeという言葉が思い浮かびますが、何か違う感じがしますね。
中田 英語もヨーロッパ語も主語がある言語ですよね。アラビア語は主語がないんです。日本語もそうですね。基本的に主語がなく、行為自体がある。東洋哲学における究極はまさに主語がない、我がないということ。そこに行き着く。イスラームも自分がないという考え方です。自分がやっていると思っていたことは、実は神であったことに気づくことに究極の学びがあるわけですから。
山本 要するに、無我の文明圏があるということですか。
中田 そう、まさにそういうことですね。彼我がないというね。
島田 日本では無我無心といいますね。そういうところじゃないですか。
中田 まさにそのとおりですよね。
山本 トルコにスーフィーの道場の跡地が残っているんですが、入り口にアラビア書画が飾ってあって、一番よくあるのが、「ヒッチ」=「無」「虚無」という言葉です。修行の心構えや目的を表している言葉なんですが、なぜ虚無にならなければいけないのか。それは絶対的有である存在のアッラーだけを意識するために、まず自分が無我にならなければいけないということです。
島田 私は以前、フランス人が書いた『虚無の信仰 西欧はなぜ仏教を怖れたか』(ロジェ=ポル・ドロワ著、法藏館、2002年)という本を訳したことがあるんですが、これはヨーロッパでどう仏教が受容されたかという話なんです。インドでの仏教やバラモン教の成り立ちを調べていくうちに、西洋の人たちが何を感じたかというと、虚無です。仏教とは、涅槃や虚無というものを目指す宗教であると。全く有であるべきこの世界が無であるとは、仏教とは何と恐ろしい宗教なのかと感じたと、その本に書かれていた。ですから、無という概念は、ヨーロッパ文明から見ると、否定的で恐ろしい。自分たちは到底、そういうものは受け入れられないということになるんでしょうね。
山本 例えば近代以前のイスラーム文明は、基本的にリアルなものというのは神だけであって、かつ来世以降の、最後の審判以降にあるものであって、現世に今あるものは実体がないとされている。なので、むしろ無というものは受け入れるべきもので、そこに否定的なものはなかったと思います。
島田 そうするとやっぱり日本とイスラーム圏はよく似ているんですね。
欧米に住むムスリムたちの男らしさ自慢
山本 イスラーム文化を理解する上で、日本語のほうが英語や他のヨーロッパ言語よりも、アドバンテージがあるんじゃないかと最近思うんです。まず、イスラームに対して、あまり偏見というものがない。欧米の言語にはやはりイスラームに対する偏見というノイズがあるので、なかなか本質が正しく伝わらない。あるいはアメリカ文化やヨーロッパ文化にあるイスラームへの偏見に対抗しようとして、本来あるイスラーム文化の粋な部分が隠れてしまっている。
例えばアラビア語で「フトゥーワ」という、若者らしさ、転じて義侠心・任侠心という意味で使われる言葉があるんですが、最近一部の人が、「フトゥーワ」をmasculinityと訳すんです。つまりイスラーム的男性性と。なぜ彼らが好んでそう訳すのか。世界ではフェミニズムやLGBTによって、自分たちの男性性を表現する場が奪われている。でも、イスラームは、伝統的な男性性を保持している男らしい宗教だ。それを復興しなきゃいけない。さらに、西洋文明圏と中東圏を比べると、ムスリムのほうがテストステロン値が高いと。見ろ、俺たちムスリム男は、こんなに筋肉がたくさんついていて、声もでかくて、男らしさを保っているだろうと……。こんなつまらない議論は聞いたことがない。どんどんイスラーム圏から発信される文化がつまらなくなっている……。あまりネガティブなことを言ってはダメかもしれませんが。
中田 いやいや、いいですよ。どんどん言ってください。
粋な日本の伝統芸能
山本 そう考えると、日本文化はまだ粋なものがたくさん残っています。昨日初めて寄席で演芸場に行って落語を観たんですが、若い人から年配のベテランの方まで、みんな味があってものすごく面白かった。一つの正解を見せるのではなく、人間完成のプロセス、味わいそのものを見せる文化という点では、世界でもトップクラスじゃないかなと感激しました。
中田 落語家の中にミャンマーにルーツを持つ方もいて、枕も秀逸でうまかったね。
山本 そうでしたね。桂蝶の治さんという方なんですが、むちゃくちゃ面白かったです。「勘定板」というネタで、東北かどこかの田舎では、「勘定」が、うんこという意味を持っていることから生じるミスコミュニケーションの話なんですが、そのばかばかしい話が本当にうまかったです。若さゆえに勢いもあるし、あれこそフトゥーワですよ。
島田 日本の伝統芸能は破壊されてこなかったから残っているんですね。それは中国と比較してみればよく分かると思います。中国ではいろいろあって、特に文革などの影響で、伝統芸能がそこで途絶えてしまった。そもそも多くが征服王朝なので、時代時代で規制されて、伝統的なものが伝わっていない。そういう意味でいくと、日本では、伝統芸能が生まれて、それが成長し、継承されてきていることは、非常に文化的に強いんじゃないかと思います。
山本 このガラパゴス的な島国に残ってきた文化の中で培われていた用語が、同じように伝統を継承するスーフィズムに響くのは面白いところだと思います。
スーフィズム伝承を日本の文化手法に学ぶ
島田 イスラーム道というものを、いかに残すか。それは日本文化の中にヒントがあると。そういうお考えでこの本を書いたわけですね。
山本 はい。「道」という文化手法の中で生きている我々日本人のほうが、イスラームのことをかっこよく理解できるのではないか。僕はそう思っています。
中田 そう、ムスリムたちはもっと楽しいステージで表現したほうがいい。
山本 本当にそう思います。この間、イスラームフォビア(イスラーム恐怖症)を議論する学会に出たんですが、結局、議論されていることは、ヨーロッパの中でムスリムがどれだけいじめられているか、あるいはヨーロッパ社会がどれだけ二枚舌であるかという話ばかりなんです。何か、聞いていて悲しくなりました。
せっかくムスリムとして生まれてきたのなら、もっと楽しいことをやればいいのにと。ムスリムに必要なのは、さっきの「勘定板」じゃないかと改めて思います。人間の奥ゆかしさ、バカバカしさ人間の面白みを語る文化をもっと考えるべきではないか。さっき中田先生がおっしゃったように、自分たちの正しさを主張していても、何の解決にもならないと僕も思います。いかに人間性の深みを表現できるか、美しく語れるか。それをいろんな文化の中で感じることができて初めて、その宗教がある意味を感じられると思うんです。
プロフィール
(しまだ・ひろみ)
1953年東京生まれ。作家、宗教学者。1976年東京大学文学部宗教学科卒業。同大学大学院人文科学研究科修士課程修了。1984年同博士課程修了(宗教学専攻)。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任し、東京女子大学非常勤講師。著書に『帝国と宗教』『ほんとうの親鸞』『「日本人の神」入門』『性と宗教』(以上、講談社現代新書)、『創価学会』『世界の宗教がざっくりわかる』(以上、新潮新書)、『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』『葬式は、要らない』(以上、幻冬舎新書)、『宗教消滅』(SB新書)、『0葬』(集英社)などがある。
(なかた・こう)
1960年岡山県生まれ。イスラーム学者。東京大学文学部卒業後、カイロ大学大学院文学部哲学科博士課程修了(哲学博士)。在サウジアラビア日本国大使館専門調査員、山口大学教育学部准教授、日本学術振興会カイロ研究連絡センター所長、同志社大学神学部教授、同志社大学客員教授を経て、イブン・ハルドゥーン大学(トルコ)客員フェロー。著書に『イスラーム 生と死と聖戦』『イスラーム入門』『一神教と国家』(内田樹との共著、集英社新書)、『カリフ制再興』(書肆心水)、『タリバン 復権の真実』 (ベスト新書)、『どうせ死ぬ この世は遊び 人は皆 1日1講義1ヶ月で心が軽くなる考えかた』(実業之日本社)他多数。
(やまもと なおき)
1989年岡山県生まれ。専門はスーフィズム、トルコ地域研究。広島大学附属福山高等学校、同志社大学神学部卒業、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。トルコのイブン・ハルドゥーン大学文明対話研究科助教を経て、国立マルマラ大学大学院トルコ学研究科アジア言語・文化専攻助教。著書に『スーフィズムとは何か イスラーム神秘主義の修行道』(集英社新書)、内田樹、中田考との共著『一神教と帝国』(集英社新書・2023年12月刊行予定)。主な訳書に『フトゥーワ――イスラームの騎士道精神』(作品社、2017年)、『ナーブルスィー神秘哲学集成』(作品社、2018年)等、世阿弥『風姿花伝』トルコ語訳(Ithaki出版、2023年)、『竹取物語』トルコ語訳(Ketebe出版、2023年)、ドナルド・キーン『古典の愉しみ(The Pleasures of Japanese Literature)』トルコ語訳(ヴァクフ銀行出版、2023年11月刊行予定)」等がある。