スマホ、AI、電気自動車……あたらしい技術やメディアが浸透する過程では多くの批判が噴出する。なぜ私たちは新しいテクノロジーが生まれると、恐れてしまうのか。消費文化について執筆活動を続けてきたライターの速水健朗が、「テクノフォビア」=「機械ぎらい」をキーワードに、人間とテクノロジーの関係を分析する。
第11回は「機械音痴」がなぜ生まれるのかを、「説明書」をキーワードにひもとく。
■機械音痴と2度のマシンエイジ
機械音痴2.0という言葉は、著者の造語だが、1890〜1920年代のマシンエイジ時代と、2度目のマシンエイジ(つまり現代)という2度のテクノロジー時代、その変化を踏まえたものだ。
マシンエイジと呼ばれる時代は、産業革命以降に工場で作られるようになったさまざまな道具が日常生活にまで入り込んで来るようになった時代だ。機械が家庭に入り込み、そのあり方を大きく変えるのは、主に20世紀初頭のこと。ジェネラル・エレクトリック社(GE)の電気トースター「D-12」が、1905年に発売されているが、冷蔵庫から大型車まであらゆる製品を作っていたGEが彼らにとっての電化製品の第一号が、この電気トースターだった。
この時代に家庭に入り込んできたのは何も電気製品だけ出ない。手回し式の蓄音機やタイプライターといった道具がすでに電化生活の少し前の頃から普及を始めていた。これと前後して、電話や自動車も普及した。生活は一変していくが、それらがどれも便利で、快適さをもたらしただけとは考えにくい。同時に、機械が生活の光景を急変させていくことに不安を感じていた人々、機械の扱いの苦手さゆえに肩身の狭い思いをしていた人たちも少なからずいたはずである。
■なんでも壊す男の話
ジェームズ・サーバーの『なんでも壊す男』という短編小説がある。主人公は、「ぼくは生まれつき、道具というものとどうも相性がよくない」(『傍迷惑な人々 サーバー短編集』サーバー、芹澤恵訳、光文社文庫)のだと思っている。いわゆる機械音痴。彼はいろいろと苦手なものをカミングアウトしているが、電話機、電球のソケット、マッチ、蓄音機、自動車などの扱いが苦手だという。この小説が発表されたのは、1914年のこと。
彼は、素直に説明書をしっかり読み込むタイプだが、それが裏目に出ている。彼が購入したのは「ソーダ・サイフォン」で、いつものように説明書に目を通す。ただし、すんなり入ってきたのは、3項目までだった。問題は4項目目に待ち受けている。
「スーパー・チャージャーを所定のポジションにセットします。細い方が外側を向くようにしてください(図C参照)。セットしたら、チャージ・ホルダーのキャップをもとどおりに締めなおします。その際に、無理やり力任せに締めないようにお気をつけください」
部品の名前に「スーパー」と付けるのは、メーカーの自己都合、盛りすぎといった印象がある。さらに「力任せ」とユーザーのことを信頼していないことも透けて見えている。この説明書は、機械が苦手な主人公でなくとも、理解不明で使いたくなくなるのは仕方がない。
「使う人の十人ちゅう九人までの言うことはちゃんと聞きそうだが、ぼくが使うとなると、おいそれとは言うことを聞いてくれそうになく、さんざん粘られて、結局は引き分けということになるのではないか」。主人公も、自然とこの機械を使わないまま仕舞い込んでしまう。人の機械への不信感は、こうして不親切な説明書によって植え付けられていくのだ。
■チュートリアルの時代
ちなみに、わかりづらい説明書は、100年経っても同じように存在する。
「コンテキストタスクバーの中から、ラスターグラフィック、またはアウトライン化されたテキストを編集することができます」
これはあるグラフィックソフトの説明部分である。専門用語が多く、カタカナの部分はほとんど「アウトライン化」くらいしかわからない。その意味では、100年前の説明書と何ら変わらないのだが、現代の複雑なハードウェア、ソフトウェアの場合は、必ずしも説明書に頼らなくては使えないというわけではない。
この「コンテキストタスクバー」から始まる説明は、チュートリアルの中に組み込まれている一文だ。チュートリアルは、複雑な操作を必要とするゲームや、アプリケーションには、欠かせないものになっている。そのチュートリアルが、いつ、どのように誕生したのかまで遡るのは困難だが、1986年に登場した『ドラゴンクエスト』のゲーム開始の部屋は、チュートリアルとして機能していた。主人公がおうさまの部屋を出るまでに、会話や宝箱を空けるなどの一連の必要な動作の中で説明を受けることができる。これが最初というわけではないだろうが、操作方法が複雑化していくテレビゲームの冒頭では、遊びながら操作やルールを覚えていくといったチュートリアルが当たり前のものになった。
■計器とフィードバック
『なんでも壊す男』の主人公が苦手とするもうひとつの要素が「計器」である。主人公は、自動車の運転ができる。1910年代の話だから、まだまだ自動車の運転が誰でもできたという時代ではない。エンジンをかけるだけでも一苦労、操作も複雑だった。とはいえ、主人公は完璧なドライバーではない。ハンドルやアクセル、ブレーキを問題なく使うことができるようだが、計器を見ながらその操作をしているわけではない。しょっちゅう油圧計を見て速度計と見間違えたり、ラジオの周波数を温度計と取り違えたりする。
ボタンやレバー、自動車であればアクセルやブレーキなどの装置を作動させることは「入力」である。その結果は、計器類に数値として示される。入力と結果。それらがワンセットで、その繰り返しが自動車の運転(機械の操作)である。スピードが出過ぎているのであれば、アクセルを弱めればいい。エンジンの回転数が上がりすぎているのであればギアチェンジが必要になる。入力に対する結果のことを専門的に「フィードバック」と呼ぶことがある。機械のフィードバックは、必ずしも1つではない。アクセルを踏めば、フロントガラスの風景が早く流れるし、体全体にGもかかるし、路面からの摩擦がハンドル越しにも伝わってくる。これらもフィードバックの1つで、機械に触れる上で重要な感覚ということになる。
運転時に計器を見ることは重要だ。だが、人はすべての計器に注意を払って運転をしているわけではない。例えば水温計は、常時気にする性質のものではない。異常時だけ伝えてくれればいい。ただそれすら無視して運転を続けると、オーバーヒートを引き起こす。計器には、重要度の差がある。これらを無意識のうちに習得しているのが、運転、または機械に強い人々の得意とするところなのだろう。ただ、主人公は、こうした取捨選択という発想がない。すべての計器の意味を知ろうとして、結果、すべてを無視した運転を行ってしまうのだ。
ちなみに古い車であればあるほど、計器の数は多い。ドライバーが、理解しておくべき知識がたくさんあり、自動車の運転は、機械が得意なだけが許可されている、特別なものだった。ただし、それでは自動車は普及しない。誰でも使えるまで操作が簡略化され、機械の側が引き受けるようになることで、自動車は誰にでも運転できるものになっていったのだ。
(次回へ続く)
20年前は「ゲーム脳」、今は「スマホ脳」。これらの流行語に象徴されるように、あたらしい技術やメディアが浸透する過程では多くの批判が噴出する。あるいは生活を便利なはずの最新機器の使いづらさに、我々は日々悩まされている。 なぜ私たちは新しいテクノロジーが生まれると、それに振り回され、挙句、恐れてしまうのか。消費文化について執筆活動を続けてきたライターの速水健朗が、「テクノフォビア」=「機械ぎらい」をキーワードに、人間とテクノロジーの関係を分析する。
プロフィール
(はやみずけんろう)
ライター・編集者。ラーメンやショッピングモールなどの歴史から現代の消費社会について執筆する。おもな著書に『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)『1995年』(ちくま新書)『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』(朝日新書)などがある。