私たちの睡眠は、完全な休息とは切り離されはじめている? 哲学者の伊藤潤一郎が、さまざまな睡眠にまつわるトピックスを、哲学を通して分解する連載「睡眠を哲学する」。第2回は睡眠にまつわるビジネス書のベストセラーを読み解く。
1. 科学知と能力主義の蜜月関係
東京メトロの駅で配布されている『メトロポリターナ』の2024年9月号が、「ぐっすり快眠」という特集を組んでいる。産経新聞社が発行するこのフリーマガジンのコンセプトは、「東京の「いま」を伝える」、「さまざまな角度から新しいライフスタイルを提案する」とのこと。簡単にいえば、大都市でスマートに生きていくのに役立つ情報を提供しようということだろう。
バックナンバーを見てみると、もともとは東京メトロの駅周辺のグルメ情報や名店を紹介する記事が中心であり、「神楽坂」「表参道」「銀座」など定番の駅をめぐる特集が多い。下町からは「錦糸町」が取り上げられているが、もちろんあの猥雑さはすべて削ぎ落とされ、江戸を受け継ぐ伝統の街としてまとめられている。子どものころ、毎週のように錦糸町の場外馬券場に祖父と出かけていた身としては釈然としない思いが残るが、東京メトロが通っている街はすべて小ぎれいでなければならないのだろう。
コロナ禍以降は駅名特集が減り、代わりにライフスタイル提案型の特集が多く組まれるようになっていったようだ。「サステナブルファッション入門」、「サステナブルな、ちょっといいこと」、「フェムテックを、もっと!」といった近年の特集は、このフリーマガジンをとおしてたしかに時代の雰囲気を感じ取ることができる。
そのような「いま」を伝える雑誌が最近組んだのが睡眠特集なのだ。特集のサブタイトルは、「その眠りが、人生を左右する!?」というもの。いささか大げさにも思えるが、最近の睡眠本にはこの手の誇張表現がとても多い。強い言葉を並べつつ、「!?」でお茶を濁すあたりが安っぽいが、実際に雑誌を開いてみるとまず登場するのは筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構教授の柳沢正史。そう、前回も登場した「Pokémon Sleep」の監修者だ。
柳沢による科学的な睡眠の基礎知識が提供された後は、睡眠を計測するスリープテックの紹介、睡眠データを解析できるカプセルホテルや睡眠環境を整えるさまざまなグッズについての記事などがつづく。なかでも「スリープツーリズム」は非常に興味深い。いまや快眠を求めてわざわざ都心の高級ホテルで「睡眠脳波測定プラン」を利用したり、都会を離れて南の島まで寝に行ったりするらしい。さまざまなシーンで「体験」がキーワードになり、観光や音楽からアートまで体験型の施設やイベントが重視されるなかで、睡眠すらもお金を払ってすべき体験と化しているのだ。
とはいえ当たり前だが、「良質な睡眠体験を得るための旅のニュースタイル」は、あくまで非日常の睡眠体験でしかない。たとえ奄美大島で二晩だけぐっすり眠れたとしても、自分の家の寝室でよく眠れなかったとしたら、数万円の高い体験料は何のためのものなのだろうか。そもそも、睡眠本にもよく書かれているように、普段と異なる環境での睡眠の質は悪くなりがちなのに(「枕が変わると眠れない」というやつだ)、なぜわざわざ場所を変えて眠ろうとするのか。こうした疑問が頭をもたげるが、さらに気になるのは、柳沢が説く科学的によい睡眠と「スリープツーリズム」が本当に噛み合っているのかということだ。最適な睡眠時間を調べるには4日必要だと説明する柳沢に対し、紹介されているホテルの「快眠体質プラン」は2泊3日であり、「日数が足りないのでは?」と思わざるをえない。もちろん、特集全体を柳沢が監修しているわけではないので、齟齬や矛盾があるのは仕方がないといえば仕方がないのだろう。しかし、最初に科学の知識を示し、そのあとにスリープテックやスリープツーリズムの記事がつづくという構成は、特集全体に科学的な裏付けがあるかのような印象を与えかねない。
近年の睡眠にまつわる記事や書籍には、柳沢をはじめ睡眠を専門的に研究する科学者が多く登場する。科学者たち自身は、研究の成果を社会に還元して、よりより睡眠について理解を深めてもらいたいと思っているのかもしれないが、結果的に生じているのは、『メトロポリターナ』の睡眠特集のような、科学の知が資本主義を後押しする事態だろう。そして、資本主義が盛んに推し進めているのが能力主義なのだとしたら、現在、睡眠にまつわる科学言説は資本主義と一体となってひとつの能力主義のシステムを作っているといえるのではないだろうか。
そのような見通しのもと、今回はまずあるひとつの本を読んでいきたい。2017年に刊行されベストセラーとなった西野精治『スタンフォード式 最高の睡眠』(サンマーク出版)である。
2.圧倒的にシンプルな『スタンフォード式 最高の睡眠』
前回の確認になるが、2017年は睡眠ブームに沸いた年だった。「睡眠負債」が流行語大賞のトップテンに入り、寝不足がたんなる「不足」ではなく、命取りになる「負債」だという認識が急速に広まっていった。そのきっかけのひとつとなったのが、スタンフォード大学医学部教授で同大学睡眠生体リズム研究所所長の西野精治による『スタンフォード式 最高の睡眠』(以下『スタンフォード式』)である。2024年10月時点で版元のサンマーク出版のウェブページを見てみると、「続々重版! 33万部突破!!」とあり、まちがいなくベストセラーだ。実際、私の手元にある本は、2017年9月20日発行の第25刷。初版の発行が2017年3月5日なので、約半年のあいだにすさまじいペースで売れていたことがわかる。ちなみに、西野はその後も睡眠本を立てつづけに出しているが、語り方や切り口が少々異なるだけで、基本的には『スタンフォード式』と内容は大きく変わらないため、ここではこの本に絞ってみていこう。
この連載をはじめるにあたって、さまざまな睡眠に関する書籍を読んだが、数多ある睡眠本のなかでも『スタンフォード式』はある意味で非常によくできた本である。なぜかといえば、この本はベストな睡眠を目指していないからだ。タイトルで「最高の睡眠」を謳っていながら、西野が提唱するのはベターな睡眠なのである。印象的なところを引いておこう。
とはいえベストの眠りが難しいあなたに、ベターを提供するのが本書の目的である。「Better than nothing」とは「やらないよりマシ」という言い回しだが、マシどころの話ではない。本書で提案する「睡眠のベター」によって、人生の質すら変わってくると私は確信している。
(西野精治『スタンフォード式 最高の睡眠』サンマーク出版、2017年)
もちろん西野もベストな睡眠について語ってはいる。だが、多くのひとにとってベストな眠りを毎日実行することは現実的に難しい。だからこそ、ベターでよい。むしろベターでも人生を変えられるというメッセージを打ち出しているところに、この本がベストセラーとなった理由のひとつがあるだろう。
試しに、西野の本と前後して出た他の睡眠本を見てみよう。『スタンフォード式』と同じく2017年に出版された、ショーン・スティーブンソン『SLEEP:最高の脳と身体をつくる睡眠の技術』(花塚恵 訳、ダイヤモンド社)では、よい睡眠を得るための方法としてなんと21ものメソッドが紹介されている。この本もよく売れたようだが、さすがに21はチェックすべきことが多すぎるといわざるをえない。それに対し、マシュー・ウォーカー『睡眠こそ最強の解決策である』(桜田直美 訳、SBクリエイティブ、2018年)で提示される健やかな睡眠のためのアドバイスの数は12個で少ないほうではあるが、『スタンフォード式』と比べてしまうとシンプルさに欠ける印象がどうしても残る。
では、西野が『スタンフォード式』で提唱している睡眠術は何かというと、「黄金の90分」といわれるただひとつのメソッドに尽きる。後半に進むにつれて細かなアドバイスも増えていくが、それら枝葉末節はすべて「黄金の90分」のためにあるといってよいだろう。本の前半で示される「黄金の90分」さえ理解すれば、よい睡眠を得るための核心は掴めたことになるのだ。この圧倒的なシンプルさこそ、『スタンフォード式』がかくも話題になった理由にちがいない。
3.タイムパフォーマンス時代の「黄金の90分」
『スタンフォード式』で語られる「黄金の90分」はノンレム睡眠と関係している。よく知られているように、睡眠はノンレム睡眠とレム睡眠のリズミカルな周期によって成り立っているが、『スタンフォード式』が一貫して提案しているのは、眠りはじめの最初の90分ほどを占めるノンレム睡眠の質を上げることだ。この最初のノンレム睡眠が「黄金の90分」と呼ばれ、この時間の眠りの質を向上させるためのさまざまな方法が語られていく。そのなかで出てくる次のような具体的な場面がとても興味深いので引いておきたい。
「どうやって黄金の90分を手に入れるのか」というと、答えはいたってシンプルだ。
毎日同じ時間に寝て、同じ時間に起きる。ベッドに入るのは日付が変わる前、できれば23時くらい。人間も日内リズムに支配されているので、夜になれば眠り、朝になれば起きるのは生物として理にかなっている……。
だが、ほとんどのビジネスパーソンにとってこれは無理難題だろう。
「もう、午前0時。でも、どうしても資料を作らなければならない」といった夜が、あなたにもきっとあるはずだ。そんな夜でも、徹夜だけは避けてほしい。
私がおすすめするのは、眠気があるならまず寝てしまい、黄金の90分が終了した最初のレム睡眠のタイミングに起きて、資料作りにとりかかるという作戦だ。最初のレム睡眠も入れてわずか100分ほどしか寝ていないとはいえ、深く眠れていれば質は確保される。
(西野精治『スタンフォード式 最高の睡眠』)
ここにあるのは、まさにベターを目指す態度だろう。一定の時間に寝て一定の時間に起きるのがベストだが、働いているとそんなことはまずできないので、「黄金の90分」だけはしっかりと眠るベターな睡眠を目指すべきだ。そう提唱する西野のメッセージは「次善の策」に満ちている。資料作りを深夜にしなければならないような状況に陥らないのが最善だが、そうも言ってはいられない状況は必ずやってくるので、そのときにはまず90分間の良質な深い眠りを確保しようというのだ。私自身の経験からいえば、とりあえず90分眠る作戦は明らかに体調を悪化させる。資料作成ができないわけではないし、急場はしのげるが、どう考えても睡眠の量が足りていないので体によいわけがない。にもかかわらず、西野は臆することなく次善の策を提案していく。
理想的なベストを掲げず、ベターな短時間睡眠で手を打つ『スタンフォード式』の姿勢は、タイムパフォーマンスが重視される時代にはもってこいの睡眠術である。タイムパフォーマンスという言葉が広まったのは2022年ごろと言われている。三省堂の辞書編者らが選ぶ「今年の新語2022」では「タイパ」が大賞を獲得し、稲田豊史『映画を早送りで観る人たち:ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(光文社新書)やレジー『ファスト教養:10分で答えが欲しい人たち』(集英社新書)が出版されたのも2022年だった。そう考えると、2017年出版の『スタンフォード式』は、時代を先取りするような睡眠本だったといえるだろう。
4.睡眠の代理不可能性と2つの選択肢
そもそも、睡眠を量として考えるとどうしても壁にぶつかってしまう。1日の時間は誰にでも等しく24時間であり、家事などを代行サービスに委託したとしても、睡眠時間を誰かに代わってもらうことは現状ではできない。ちなみに食事も同様で、作る部分は外部委託できても、食べる行為は代行されえない。逆にいえば、何らかのテクノロジーで睡眠や食事に決定的なブレイクスルーが起きるとしたら、このような代理不可能性を突破するときだろう。
食事時間の短縮を目指すのであれば、口から食べるのではなく点滴のように血管からすべての栄養摂取をおこなうべきではないかといった議論はすでになされているし、経口摂取であってもサプリメントや完全食の発達によって現在でもある程度までは食事の時間を短くする動きは進んでいる(もちろん、この方向に突き進むとまっさきに消えるのが「おいしい」という経験だ)。また、長らく出産も代理不可能な行為だったが、生殖補助医療によって代理出産が可能になり、倫理的な問題が議論されているのも周知の事実だろう。テクノロジーは多くの代理不可能に思えた行為を代理可能なものにしてきたのである。
しかし、いまのところ睡眠に関しては依然として代理は不可能なままであり、このような状況において選べる選択肢はあまりない。活動時間を減らして睡眠時間を増やすのが論外なのだとしたら、残された道はおそらく二つだけだろう。
ひとつは、「ながら睡眠」である。眠りながら何かをすることで、眠っているあいだに眠り以外のこともしてしまおうという発想だ。前回、「Pokémon Sleep」を例にみたように、スマホの登場によって、いまや眠りをゲーム化したり、眠りながらデータを生産したりするようになっているわけだが、現在進行形のこうした動向は睡眠をただ眠るだけの行為にとどめない方向へ向かうものだといえるだろう。スマホによって「ながら睡眠」が現実化しつつあるのだ。ただし、「ながら睡眠」への欲望は最近登場したものではない。たとえば、電車やバスなどでの移動中に眠ることも「ながら睡眠」の一種であるし、ほかにも「睡眠学習」は元祖「ながら睡眠」とでもいえるものだが、この点については次回見ていくことにしよう。
もうひとつの選択肢は、量ではなく質へと問題を変えることである。1日24時間という量的な限界があるならば、量ではなく質で勝負しようというわけだ。『スタンフォード式』が提案していたのは、まさに睡眠時間という量から睡眠の質への転換だった。短時間であっても質のよい眠りを得られればよいという考え方は、いうまでもなく睡眠に効率を求めることであり、睡眠をタイムパフォーマンスとして考えることにほかならない。質へと発想を転換することによって、睡眠にもタイパの良し悪しが発生するのである。
5.現在の社会構造を下支えする睡眠研究
睡眠の量は時計で計測できる睡眠時間であるがゆえに、誰にとっても変わらない。寝たのが23時で起きたのが6時であれば、睡眠時間は誰にとっても7時間である。それに対し、質はほとんど「感覚」にもとづかざるをえない。7時間の睡眠の質がよかったか悪かったかは、起きたときの当人の感覚次第ということだ。むろん、大がかりな装置を使えば、睡眠の質を量的に計測することはできるだろうが、睡眠の専門的な研究者でもない人間がそのような装置に毎日アクセスすることはまずできない。そのため、質へと発想を転換すると、睡眠の良し悪しを判断するのは、起きたときや日中の私たちの感覚以外になくなってしまう。
『スタンフォード式』でも述べられているように、自分の睡眠を精密に検査しようとすると非常に手間と費用がかかる。だからこそ、西野は正直にこう述べている。「検査しにくいからこそ、科学的診断の前に、自覚症状という一番精度の良い検査方法をフル活用してほしい」。
『スタンフォード式』が巧妙なのは、睡眠の質を問うことによって、各人の「感覚」というある意味では非科学的な領域へと、いつのまにか睡眠の問題をもっていったところにある。西野の立場からすれば、睡眠の科学的研究にはエビデンスがあり、研究成果にもとづいた科学的睡眠メソッドを提案しているということなのだろう。実際、西野は本の冒頭で、「根拠なき話は書かない」と明言している。しかし、最終的に読者の睡眠がよくなったかは、「自覚症状」という客観的エビデンスの及ばないところで判断せざるをえない。つまり、エビデンスにもとづいた睡眠術の成否は、エビデンスの届かない各人の感覚次第ということだ。
余談だが、このような議論の構造は無敗の論法を生み出しかねない。提案されている睡眠法を実行した読者から睡眠が改善したという感覚を得られなかったという声が上がったとしても、「正しいのはエビデンスにもとづいた睡眠法のほうであって、各人の感覚などエビデンスがないのだからまちがっている」といったかたちで簡単に否定できてしまう。ネットでよく見る「論破」にも似たこの論法を振りかざすとき、『スタンフォード式』は無敵の睡眠術になるだろう。
だからこそ、同じ科学者であっても質ではなく量を重視する立場もある。先にも言及した「Pokémon Sleep」を監修している柳沢正史は、ことあるごとに睡眠は質ではなく量だと強調している。
睡眠は質がよければ短時間でも大丈夫という話は、はっきり言って間違い。実際には、量が最も重要です。毎晩、たとえ30分でも睡眠時間を増やすことができれば、多くの人が調子のよさを実感するでしょう。
(柳沢正史 監修『今さら聞けない睡眠の超基本:快眠法の前に』朝日新聞出版、2024)
科学知識の社会還元という点では、誰でも計測できる睡眠時間を基準にする柳沢のほうが明らかに西野の『スタンフォード式』よりも誠実に思える。睡眠時間を少しでも増やすという正攻法には奇抜さこそないが、よい睡眠に王道なしということなのだろう。
質か量かで対立する西野と柳沢だが、両者に共通するのは睡眠をパフォーマンスの向上と結びつけているところだ。よい睡眠とよい覚醒はセットであり、覚醒時のパフォーマンスを上げたければよく眠らなければならない――科学者たちによる最近の睡眠本には必ずそう書かれているうえ、睡眠不足や睡眠障害による経済損失まで語られている。先に引いた柳沢が監修した本には「睡眠時間は企業の利益率にも影響」という項目が立てられているが、このあまりにも経営者目線のトピックは、第1回でミシェル・フーコーを参照しながら見たように、誰もが「企業家」になった現在の社会の姿を映し出しているといえるだろう。私たちはみな、あたかも経営者であるかのように社会とみずからの生き方について語るようになっているのだ。
もちろん、医学を専門領域としているはずの西野や柳沢が睡眠による経済損失を語るのは、自分たちの研究が経済的利益と直結していることを示したいからなのだろう。しかし、そのような語りは、現在の経済構造や社会体制を問い直さないがゆえに、専門知を現状肯定の道具にしてしまっている。多くのひとが十分な睡眠時間を確保できていないとしたら、おかしいのはそんなにも働かなければならない社会のあり方のはずである。しかし、西野も柳沢も社会や経済の構造そのものには異議を唱えずに、極度に能力主義的な現在の体制を科学知によって下支えしている。客観的にみえる睡眠研究には、政治・経済的なイデオロギーが染みついているのだ。
6.規律でも自己管理でもない睡眠を求めて
いまや科学者がもたらす睡眠についての知識は、量産される睡眠本やネット記事のみならず、テレビ番組からフリーマガジンまでいたるところに溢れている。冒頭で取り上げた『メトロポリターナ』の睡眠特集で柳沢は次のように語っていた。
朝型か夜型かは遺伝子レベルで決まっていて、自分の力では変えられません。でも世の中の仕組みとしては朝型中心。夜型の人には不利にできています。夜型への理解が進み、それぞれの体質に合わせたフレックスタイムが採用されたほうが、生産性も上がるし健康な人も増えるはずです。
夜型の人間にとって毎朝8時から9時のあいだに学校や職場に行くことは苦痛にちがいない(私自身も夜型だからよくわかる)。だが、フレックスタイムは解決策なのだろうか。たしかに、現在の社会の仕組みは、全員が同じような時間に起きて一日がはじまるようなものではなくなってきている。交通機関のオフピーク定期券のような取り組みをみても、朝礼で全員が顔を合わせるような働き方は徐々に過去のものになりつつあることがわかる。
しかし、労働者が自分で出社時間や労働時間を決めるようになるとき、最も必要とされるのは自己管理能力だろう。古くからある朝型に合わせた働き方が、あらゆる人間を同じルールで縛る「規律型」であるとしたら、ある程度まで労働者の裁量にゆだねるフレックスタイムのような働き方は「自己管理型」だといえよう。上から押しつけられたルールに従うか、自分で自分にルールを課して行動するかのちがいである。かなり単純化すれば、前者は横並びな古い働き方、後者は成果主義的な働き方だともいえる。
いま私たちの社会は、セルフマネジメントのできる人間だけが生き残れるような方向へと雪崩を打つように突き進んでいる。『スタンフォード式』に典型的なパフォーマンス向上のための睡眠術は、能力主義や成果主義に染まった社会が要請する眠り方なのだ。ちなみに、西野精治の『スタンフォード式 お金と人材が集まる仕事術』(文春新書、2020年)を読んでみると、西野そのひとの思想がきわめて成果主義的であることがわかる。
もちろん、全員一斉に同じ時間に動く昔ながらの社会へ戻ろうと言いたいのではない。フーコーがかつて指摘したように、学校も会社も規律に従順な人間を生み出すという点では監獄と同じである。朝型に合わせた社会は、社会全体が監獄のようなものだ。朝寝坊をしないようにと「しつけ」られ、ルールを心のなかに深く刻み込んだ人間が望ましいとはどうしても思えない。とはいえ、際限なく自己管理が要請されつづける社会もまた息苦しい。
それゆえ、私たちにいま必要なのは、規律でも自己管理でもない睡眠であり、そのような眠りを可能にする社会だろう。それは、どのような眠りであり、どのような社会なのだろうか。本連載の探究はこの問いをめぐって進んでいくが、さしあたり今回は「コモン」というトピックについてだけ最後に簡単に触れておこう。
これまでもフーコーや多くの哲学者が、規律によっても自己管理によっても支配されない社会のあり方について語ってきた。ここのところ絶えず議論されてきた「コモン」もそのひとつだ。コモン論とは、簡単にいってしまえば、ある種のものは資本主義的な私的所有の原理に吞み込まれてはならず、人々の民主的な共同管理のもとに置くべきだという議論である。
身近なところでは、日本でも時折り話題になる水道の民営化を思い出せばよいだろう。水道事業を私企業にゆだねようという動きが意味しているのは、人間の生存に直結する水を資本主義のシステムによって運営することにほかならない。しかし、よく指摘されるように、実際に水道を民営化した海外の事例では、水質の悪化や水道代の高騰によって水を飲めなくなるひとが現れ、公営へと戻したところも存在する。水のような人間の生存に直接かかわるものについては、私企業や個人による私的所有を排し、共有のもの(コモン)として私たちが自主的に管理しなければならない――近年ではアントニオ・ネグリやジュディス・バトラーといった哲学者が、コモンをめぐってそのような議論を積み重ねてきた。
たしかに、コモンや自主管理は、現在の社会とは異なる社会の姿を示している。多くの思想家がそこに現状を突破する糸口を見出しているのも頷ける。だが、睡眠に関して「コモン」を考えることはきわめて難しい。「共同の睡眠」なる事態を考えようとすると、またしても規律へと戻っていってしまう危険もあるだろう。ここには、睡眠がきわめてプライベートな領域であるという事情が関わっている(さらにいえば、睡眠は「私」の輪郭そのものがあいまいになるような経験だともいえる)。
はたして睡眠を規律や自己管理から守るにはいったいどうすればよいのだろうか。次回からは、時計の針を巻き戻して、歴史を視野に入れながらこの問いを考えていきたい。
(次回へ続く)
私たちの睡眠は、完全な休息とは切り離されはじめている? 哲学者の伊藤潤一郎が、さまざまな睡眠にまつわるトピックスを、哲学を通して分解する。
プロフィール
いとう じゅんいちろう
哲学者。1989年生まれ、千葉県出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、新潟県立大学国際地域学部講師。専門はフランス哲学。著書に『「誰でもよいあなた」へ:投壜通信』(講談社)、『ジャン゠リュック・ナンシーと不定の二人称』(人文書院)、翻訳にカトリーヌ・マラブー『泥棒!:アナキズムと哲学』(共訳、青土社)、ジャン゠リュック・ナンシー『アイデンティティ:断片、率直さ』(水声社)、同『あまりに人間的なウイルス:COVID-19の哲学』(勁草書房)、ミカエル・フッセル『世界の終わりの後で:黙示録的理性批判』(共訳、法政大学出版局)など。