私たちの睡眠は、完全な休息とは切り離されはじめている? 哲学者の伊藤潤一郎が、さまざまな睡眠にまつわるトピックスを、哲学を通して分解する連載「睡眠を哲学する」。第1回は、「Pokémon Sleep(ポケモンスリープ)」や「睡眠負債」というトレンドワードから、現代の眠りの在り方を通覧する。
1. 「いい睡眠」とは?
「いい睡眠リズムを、つかまえよう!」
2023年7月にリリースされたアプリ「Pokémon Sleep(ポケモンスリープ)」のキャッチコピーだ。この短いフレーズには、睡眠について考えるべきことがいくつも詰まっている。分解してみると、「睡眠」の周りに、「いい」「リズム」「つかまえる」という少なくとも3つのキーワードが見えてくるだろう。どれもよく考えてみると、簡単そうで難しい言葉だ。というわけで、ここを出発点にしてみよう。
まずわかるのは、睡眠には「いい睡眠」と「悪い睡眠」があるということだろう。当たり前といえば当たり前だ。たとえば、酒飲みなら誰しも経験があるだろうが、酒を飲むと寝つきがいい。「寝酒」という言葉があるくらいだし、べろんべろんに酔っぱらって帰宅した日などは風呂に入らずにベッドに入りたくなってしまう。だが、医学的なアドバイスとしてよくいわれるように、飲酒による睡眠は、寝つきはよくても、途中から寝苦しくなり起きてしまうことが多く、総体としてみると「悪い睡眠」なのだ。
では、逆に「いい睡眠」とは何だろうか? 長く寝ることだろうか? たしかに、少し前から「睡眠負債」という言葉を聞くようになった。「睡眠負債」なる言葉を広めたのは「NHKスペシャル」だが、番組をもとにしたその名も『睡眠負債――“ちょっと寝不足”が命を縮める』(NHKスペシャル取材班・著、朝日新書、2018年)という本を読んでみると、睡眠不足がいかに危険かが詳しく説明されている。一例を挙げれば、休日にいくらたくさん寝ても、平日に足りなかった睡眠の穴埋めはできないというのだ。つまり、「寝だめ」はできないということだが、このいささか冷酷とも思える人間の性質を前に、慢性的に寝不足な私は日々せっせと命を縮めているのだろうかとほんの少しだけ不安になる(しかし、そんなことはすぐに忘れてしまうのも人間の性だろう、現在午前四時である)。
それならばできるだけ長く眠ればよいかというと、『睡眠負債』にも登場する白川修一郎や「Pokémon Sleep」の監修者である柳澤正史といった医学者たちが言うには、どうやらそうでもないようなのだ。あまりにも長く寝ているひとは、何らかの病気になっている可能性があるらしい。実際、さまざまな調査結果をみても、睡眠時間が10時間以上のひとの死亡率はかなり高い。
それでは、「いい睡眠」とは本当のところ何なのだろうか? たしかに、長すぎず短すぎもしない適度な睡眠時間は「いい睡眠」のひとつの条件にちがいない。ただし、「Pokémon Sleep」のキャッチコピーは、時間とは異なるものを「いい睡眠」に結びつけている。そう、「リズム」である。
2. Pokémon Sleepから現代社会が見える?
「いい睡眠」には、「いいリズム」がともなう。音楽好きかつ哲学を生業にしている私は、ついここで「リズムとは何か?」という厄介な問いを頭に思い浮かべてしまう。英語の « rhythm » の語源が、「流れる」という意味のギリシア語 « rhythmos » に由来していて……といった語源の探究が脳裏をよぎり、そもそもただひとつの音が鳴っただけだとしたら(つづく二音目が鳴らなかったとしたら)、そこにリズムはあるのだろうかといった疑問が浮かんでくる。もちろん「睡眠を哲学する」と銘打った連載である以上、最終的にこういったややハードな問題にも触れなければならないが、いまはひとまず措いておこう。こういった問いは、のんびり考えればいい。
「Pokémon Sleep」のキャッチコピーにある「いい睡眠リズム」というのは、まったく難しいことではない。よく聞く、「レム睡眠」と「ノンレム睡眠」のサイクルをしっかりとしたものにすることが「いい睡眠リズム」だとされている。それがアプリ内では、「うとうとタイプ」、「すやすやタイプ」、「ぐっすりタイプ」という3つのタイプに分けられ、自分がどのようなリズムで寝ていたのかが直感的にわかるようにグラフで示される。毎日自分の睡眠を計測していけば、次第によりよい睡眠リズムを「つかまえる」ことができるようになるというわけだ。
もちろん、「つかまえる」という言葉には、ポケモンを「つかまえる」がかけられている。「Pokémon Sleep」がたんなる睡眠アプリとちがうのは、やはりポケモンの寝顔を集めるところにあるだろう。小学生のときに『ポケットモンスター赤・緑』に熱中した世代の人間からすると、いまでもポケモンを集めることには少しばかり胸が躍るのだが、アプリ内でポケモンの寝顔図鑑を完成させられるかは「いい睡眠」をつかまえられるかにかかっている。十分に眠ると「睡眠スコア」が上がり、睡眠時間が短かったりするとスコアは下がるわけだが、このスコアに応じて(もう少し正確にいえば、昼間育てるカビゴンのエナジーと睡眠スコアを掛け合わせた「ねむけパワー」に応じて)集まってくるポケモンの数が異なる以上、さまざまなポケモンの寝顔を集めようと思ったら、よりよい睡眠を継続的に取らなければならない。そのうえ、週の後半にいくほど珍しいポケモンが出現する確率が高いため、週末の飲み会による睡眠の乱れや休日の寝だめは厳禁なのだ。
このように、「Pokémon Sleep」はポケモンというゲームがもっているさまざまな要素を駆使して、楽しみながら私たちの睡眠リズムをよいものに導くよう設計されている。ゲームを別の行為に応用することは「ゲーミフィケーション」と呼ばれ、近年では教育・学習など多くの分野で議論されているキーワードだが、ゲームコラムニストの卯月鮎が指摘するように、「Pokémon Sleep」とはまさに睡眠のゲーミフィケーションだといえる。それと同時に卯月は、睡眠とゲームが結びつくようになった背景として、(1)睡眠のデータ化の広がり、(2)睡眠がゲームにとって新領域であること、(3)睡眠のスキル化、という3点を挙げている(「『ポケモンスリープ』って何?――睡眠ゲームが注目される3つの理由」日刊SPA!、2023年3月19日公開)。
これらはどれもさらに深く掘り下げるべき重要なポイントである。やや大げさにいえば、「Pokémon Sleep」からは私たちが生きる現代社会のあり方がくっきりと浮かび上がってくるのだ。
3. 睡眠は資本主義の外部か?
当然だが、寝ているときには意識がない。覚醒しておらず、起きているときのような行動はできない。ということは、寝ている人間は生産活動も消費活動もできないのだ。
資本主義があまりにも発達したこの社会において、大多数の人間は仕事をしなければ生きてゆけず、仕事の前後やすき間時間になると、せっせとスマホで必要なさそうなものを買って仕事のストレスを発散し、寝る直前までベッドのなかでゲーム課金をしている。いわば、私たちの覚醒している時間のいたるところに、資本主義の蜘蛛の巣が張り巡らされている。
多くの論者が指摘してきたように、資本主義という政治・経済体制は、つねに資本主義の影響を受けていないところ(「外部」と言っても「フロンティア」と言ってもよいだろう)を見つけて、みずからの支配領域を広げることを運命づけられている。資本主義は自己拡張をやめられないのである。
これを私たちに身近な消費の側から考えてみよう。たとえば、物持ちがよいひとにとって、バッグはそうそう買い替えるものではない。使えればよいと考えるひとは、見た目が少々薄汚れてこようと、物を入れて運べるかぎりはそのバッグを使いつづけるだろう。だが、それでは一生に一人の人間が買うバッグの数など高が知れている。バッグを生産する側からすれば、そんな使い方をされていては売れず儲からずで非常に困ってしまう。有用性(使える)という基準での消費にはどうしても限界があるのだ。
そこで発明されたのが記号消費である。バッグに記号をつけて(ブランドのロゴを入れて)、社会的ステータスを示すものに仕立てあげると、まだ使えるバッグをもっているひとでも、他人とのちがいを示したいがためにブランドもののバッグを買ってしまう。スマホや車のモデルチェンジなどもすべてこの論理に則っている。このような記号消費は、有用性を基準にした消費活動の限界を超えて、資本主義がその領域を広げていった一例だといえる。
このような説明は、消費社会の到来が叫ばれた数十年前からくりかえされてきたものであるし、最近だと國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫、2022年)を思い出すひともいるかもしれない。以下でみていくように、ここにさらに付け加えるべきはデータという観点だろう。情報技術が発達した現代においては、消費活動は購買データの生産になっている(Amazonにとって、買い物をする消費者は好みや購入履歴といったデータを生み出す生産者である)。この点については最後に論じるとして、いずれにせよ、現在にいたるまでかくも資本主義はひたすら勢いを強めつづけている。
そうであればこそ、生産も消費もしない時間である睡眠はとても貴重なのである。資本主義が嫌いな人間にとっては、眠りは資本主義の「外部」の時間を意味するのかもしれない。「睡眠は、グローバルな消費社会の要求を逃れ、挫く」と述べたのは、美術批評家のジョナサン・クレーリーだった(『24/7:眠らない社会』岡田温司 監訳・石谷治寛 訳、NTT出版、2015年)。人生の三分の一は睡眠時間なのだから、私たちが生きる時間の三分の一は資本主義に侵されていないことになる……本当にそうだろうか?
4. 睡眠時間にタダ乗りする資本主義
もちろん休まなければ働けないのだから、話はそう簡単ではない。労働者にとって睡眠とは、明日もまた働くための再生産の時間である。十分に休息を取っていない労働者はボーっとしてミスをしたり、ときには居眠りをしたりするかもしれない。つまり、睡眠不足は生産性の低下を招いてしまう。それゆえに、資本家は労働者に対してしっかりと睡眠を取り、休日にちゃんと休むことを勧めるわけだが、このとき睡眠の位置づけは大きく変わっている。少々小難しくいえば、労働者にとっての睡眠とは、睡眠のための睡眠(眠いから寝る)ではなく、労働のための睡眠(明日も働かなければならないから寝る)なのだ。
資本主義の生産活動の裏には、労働者の身体を維持する再生産活動が必ず存在している。再生産活動の特徴は、なんといっても賃金が支払われない無償労働だという点にある。たとえば、次世代の労働者としての子どもを産み育てることを考えてみれば、再生産活動はおもに家庭において女性によって担われてきたが、2016年にドラマ化された海野つなみの漫画『逃げるは恥だが役に立つ』などでも描かれていたように、女性がおこなってきた家事や育児やケアには賃金が支払われない。つまり、資本主義は女性たちによる無償の再生産活動にタダ乗りしてきたわけだ。このあたりについては、ナンシー・フレイザー『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』(江口泰子 訳、ちくま新書、2023年)が的確に指摘しているが、これは睡眠についてもいえるのではないだろうか。働くために寝ているのであれば、資本家は労働者の睡眠時間にタダ乗りしているのである。
たとえば、夜勤の警備などでの仮眠時間は長らく労働時間として扱われず、手当てが支払われるだけだった。現在では、仮眠を労働時間と認める基準が2002年の最高裁判例で示されているが、その判決文を実際に読んでみると、「不活動仮眠時間であっても労働からの解放が保障されていない場合には労基法上の労働時間に当たるというべきである」といった文言に出会う。「労働からの解放」というところが非常に興味深い。私たちの社会で本当に労働から解放されている時間はどれくらいあるのだろうか。法学の専門的な議論はさておき、私たちのふだんの生活のうち労働のことを気にしていない時間はあまりにも少ないのではないか。最近よく耳にする「ガクチカ」(就活でよく訊かれる「学生時代に力を入れたこと」の略語)が意味しているのは、まさに学生生活を未来の労働に従属させることだろう。
そう考えると、私たちはいつのまにか、眠るときまで労働者として生きるマインドを植えつけられているのかもしれない。惰眠を貪れないのだ。
5. パフォーマンスを上げるための睡眠スキル
いま「労働者」と言ったが、より正確には「企業家」と述べたほうが適切だろう。ミシェル・フーコーによる次の一節を読めば、私たちの意識はもはや「労働者」ではなく「企業家」になるよう導かれていると言えるはずだ。
移住は投資であり、移住者は投資家であるということ。移住者は、ある種の改善を得るためにいくらかの投資を行うような、自分自身の企業家なのです。
(慎改康之 訳『生政治の誕生:コレージュ・ド・フランス講義1978-1979年度』筑摩書房、2008年)
「移住」を「転職」に読み替えてみればわかるように、フーコーが描き出しているのはまさに現代を生きる人間のあり方だ。ふつう、転職をすれば、新たな場所で人間関係を形成したりしなければならず、少なからず体力も気力も使うわけだが、それでも新天地での報酬や待遇がこれまでよりもよければ職場を変える決断をしたほうがよい。私たちはそのように考える(よう仕向けられた)社会で生きている。いわゆる新自由主義社会だ。
自分の技能を日々向上させ、能力アップのために投資し、他人よりも生産性が高く、スペックの高い人間になり、競争を勝ち抜かなければならない――そのように競争力の向上が求められる社会では、あたかもひとりひとりが「企業家」であるかのごとく振る舞うよう求められている。私たちは、「労働者」であると同時に「企業家」なのだ。
そして、失敗したときに登場するのが「自己責任」である。すぐに思い出すのは、菅義偉が首相在任中にしきりに述べていた「自助、共助、公助」だが、まずは自分で自分を助け、次に家族や地域の共同体で助け合い、どうしようもなくなったときに最後に国が出てきて助けますよという趣旨のこの言葉からは、現代の自己責任論が、国家による能力の低い人間の切り捨てと表裏一体であることがわかるだろう。それほど現代とは能力至上主義の社会なのである。
だからこそ、睡眠も能力向上と結びつく。試しに、大きな書店で睡眠に関する本がどこに置かれているか探してみよう。もちろん医学書の棚の前に行けば、日本睡眠学会編の『睡眠学』といった重厚な専門書のほか、「睡眠障害」に関する本が目に留まる。これらの専門書を手に取るひとはそう多くないだろうが、そのほど近くには科学雑誌『Newton』が並び、その別冊『睡眠の科学知識』(2023年)や「ニュートン超図解新書」シリーズの一冊として『最強に面白い睡眠』(2023年)といった本が並んでいるだろう。出版年をご覧いただければわかるように、睡眠についての科学書が近年非常に増えている。科学の正確な知識を身につけようとするひとは、このあたりの本に手を伸ばすにちがいないが、『睡眠の科学知識』の表紙には大きな文字で「眠りの科学で、最高のパフォーマンスを手にいれる」と謳われている。科学の言説も、私たちの能力向上と密接に結びついているのだ。
次に「自己啓発」の棚に足を向けてみよう。ここでも「眠り」がタイトルに入った本がいつくか目に入る。なかでもロングセラーは、1960年代後半に翻訳され、文庫版や新装版でいまも書店に並んでいるジョセフ・マーフィー『眠りながら成功する:自己暗示と潜在意識の活用』(大島淳一 訳、産業能率大学出版部、2022年)だろう。潜在意識に働きかける重要性を説くマーフィーによれば、眠りにつく前のうとうとする時間は潜在意識への扉が開く瞬間なのだという。「眠ると知恵が出ます。眠る前に、自分の潜在意識の無限の知性は、自分を導き指示を出してくれるのだと断言しなさい」といった言葉はなんとも怪しげだが、上から目線の命令口調は近年の自己啓発本にも受け継がれているものだろう。しかし、眠りと成功が結びつけられているとはいえ、マーフィーは眠りと能力を結びつけているわけではない。そのような本は別の場所に置かれているのだ。
最後に「健康」や「健康法」といったコーナーに行ってみよう。睡眠についての本が一番多いのはここだ。2017年に出版され大ヒットした西野精治『スタンフォード式最高の睡眠』(サンマーク出版)もここに置かれている(驚くべきことに、先日立ち寄った書店ではいまだに平積みにされていた)。
ちなみに、『スタンフォード式最高の睡眠』が出版された2017年は睡眠ブームが起こった年だった。同書の刊行が3月で、その直前の2月にはこれもヒットしたショーン・スティーブンソン『SLEEP――最高の脳と身体をつくる睡眠の技術』(花塚恵 訳、ダイヤモンド社)も出版されている。さらに6月18日には先にも触れた「NHKスペシャル・睡眠負債が危ない~“ちょっと寝不足”が命を縮める~」が放送され、年末の「ユーキャン新語・流行語大賞」のトップテンに「睡眠負債」が入っている。たしかに、これ以前も「健康法」としての睡眠本はコンスタントに出ていたが、2017年以降、科学がお墨付きを与えるかたちでの睡眠本がビジネス書と結びつく傾向が強まっていったといえるだろう。
ブームの火付け役ともいえる西野は、その後もタイトルに「スタンフォード」が入った睡眠本を立てつづけに出しているが、それらのほとんどが書店の「健康」の棚に置かれている。そして、西野の本をはじめとして多くの睡眠本で強調されているのが「パフォーマンス」だ。健康的な眠り方をすればパフォーマンスが上がるというのである。
しかしむしろ、「健康」の棚の前で感じてしまうのは、そこに置かれている本の読者は健康的に眠りたいのではなく、パフォーマンスを向上させたいのではないかということだ。つまり、睡眠はパフォーマンスを上げるための手段でしかない。眠いから寝るのではなく、パフォーマンスを上げたいから寝る。それゆえに、睡眠は効果的なものでなくてはならない。いまや睡眠にも効率が求められており、パフォーマンスを上げるためには効果的な睡眠スキルを身につけなければならないのだ。逆にいえば、現代において最も困難なのは、寝るために寝る、惰眠を貪る、寝たいだけ寝るといった、睡眠自体が目的となった睡眠(自己目的化した睡眠)なのかもしれない。
6. 睡眠データの生産者
これまでのところをまとめよう。資本主義はつねに無償の再生産活動にタダ乗りをしてきた。労働者が明日働くために寝ている時間には賃金を支払わず、そのうえ睡眠不足でミスが多いひとは体調管理ができないとされ、無能力の烙印を押されてきた。その傾向は飛躍的に進み、いまや競争のために個人の能力やパフォーマンスを向上させることが至上命題となり、睡眠もまた競争を生き抜くためにうまく使いこなすべき手段となっている。資本主義に覆い尽くされた現代において、「いい睡眠」は勝ち抜くために必ずつかまえなければならないものなのである。いま注目を集めている「Pokémon Sleep」などのスリープテックは、私たちひとりひとりがそのようなスキルを体得するためのツールだといえよう。だが、スリープテックが資本主義による要請であるといわれても、楽しみながら睡眠を改善できることの何が悪いのかと思うかもしれない。
だが、資本主義があまりにも貪欲であることは、少なくとも知っておくべきだろう。現代の資本主義は、スリープテックを使って個々人がいい睡眠を取り、パフォーマンスを向上させるだけでは飽き足らず、さらにデータまで吸い上げようとしている。
各地の大学で「データサイエンス」を冠した学部や専攻が続々と新設されているように(私が勤務する大学も例外ではない)、もはやデータという存在を抜きにしていまの社会は語れない。そのデータと資本主義の結びつきに関してよく登場するのが、「プラットフォーム資本主義」や「採取」といったキーワードである。
駅のプラットフォームを通らなければ電車に乗れないように、私たちの日々の生活はGoogleやAmazonなどのデジタル・プラットフォームを経由しなければ成り立たなくなっている。いわゆるビッグ・テックがそれほどの力をもっているのは、ひとえに膨大なデータを採取しているからだ。Amazonで物を買い、Googleで検索し、Instagramに写真をアップするといった日常の行為すべてがデータとして吸い上げられて分析され、その結果がビッグ・テックの真の顧客である企業に売られていく。そのようにして回るプラットフォーム資本主義にとって最も重要なのは、いうまでもなくできるかぎり多くのデータを採取することだが、これまで採取されてきたデータの多くは、起きているあいだの人間の活動に関するものだった。逆にいえば、睡眠時間はデータ採取にとって空白の時間だったわけだ。しかし、「Pokémon Sleep」や数々の睡眠アプリの急速な普及は、この状況を大きく変えたといえるだろう。いまやスマホによって睡眠中もデータが取られるようになり、データ採取は覚醒か睡眠かを問わずおこなわれるようになっている。データを貪る資本主義は、睡眠という新たなフロンティアに手をつけたのである。
長いあいだ、睡眠中の人間は生産も消費もしない存在だったが、いまやベッドに置かれたスマホを介して、私たちは睡眠データの生産者となった。もちろん、私たちはふつうの意味で労働をしているわけではない。ただ寝ているだけだ。しかし、スマホは働いている。スマホが働くとき、私たちはつねにデータの生産者たらざるをえないのである。
7. ささやかな抵抗としての睡眠
では、プラットフォーム資本主義から脱け出すことはできるのだろうか。もはやスマホを捨て去ることができない以上、完全に脱することはたしかに難しい。だが、睡眠アプリを使わないことくらいはできるのではないか。ひょっとすると、それはとても大きなちがいを生むかもしれない。Amazonというデジタル・プラットフォームが、現実の物流という物理的な仕組みを離れて存在しえないように、睡眠データもベッドに横たわる人間を抜きにしては成り立たない。そうであればこそ、データ化されない物理空間を残すことの意味は思いのほか大きいのかもしれない。
そのようなことを考えさせてくれるのが、この夏に公開された映画『ラストマイル』だ。Amazonのような24時間稼働する巨大物流倉庫を舞台とするこの作品においては、かたときも休むことなく稼働しつづける倉庫のベルトコンベアが現代の物流を象徴している。その眠らない流れを束の間ストップさせたのは、チームマネージャーを務める社員・山崎佑(中村倫也)だった。山崎は上階から飛び降りてベルトコンベアに激突し、荷物のあいだに横たわる身体となり、出荷されていく段ボールの流れを止めたのである。だが、命を危険にさらしてもベルトコンベアはわずかな時間しか停止しなかった。人間ひとりが命を懸けてみせた抵抗がなされても、何事もなかったかのように平常運転に戻っていく物流倉庫の姿は、現代の資本主義の冷酷さを物語っているだろう。だが、人間の身体が横たわることで、物流システムは一瞬であれ止まったのだともいえる。わずかでも止まったことを過小評価してはならない。物理的に身体を横たえることは、プラットフォーム資本主義が課してくるのとは異なる時間を切り開くひとつの方法なのではないか。『ラストマイル』を観ると、そのような考えが脳裏をよぎる。
そうであれば、毎日くりかえされる睡眠もまた、やはり資本主義の外へと通じているのかもしれない。ただし、そのとき睡眠は労働からも自己管理からも解放されたものとなっているだろう。それは、再生産でもデータ生産でもない睡眠、ささやかな抵抗としての睡眠である。どうすれば、そのようないい眠りをつかまえられるのだろうか。
(次回へ続く)
私たちの睡眠は、完全な休息とは切り離されはじめている? 哲学者の伊藤潤一郎が、さまざまな睡眠にまつわるトピックスを、哲学を通して分解する。
プロフィール
いとう じゅんいちろう
哲学者。1989年生まれ、千葉県出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、新潟県立大学国際地域学部講師。専門はフランス哲学。著書に『「誰でもよいあなた」へ:投壜通信』(講談社)、『ジャン゠リュック・ナンシーと不定の二人称』(人文書院)、翻訳にカトリーヌ・マラブー『泥棒!:アナキズムと哲学』(共訳、青土社)、ジャン゠リュック・ナンシー『アイデンティティ:断片、率直さ』(水声社)、同『あまりに人間的なウイルス:COVID-19の哲学』(勁草書房)、ミカエル・フッセル『世界の終わりの後で:黙示録的理性批判』(共訳、法政大学出版局)など。