カルチャーから見る、韓国社会の素顔 第7回

映画『ミナリ』、これまでとは少し違った「韓国系移民の物語」

伊東順子

宗教的な解釈は必要か?

 これまでのような移民物語を求めていた人には、『ミナリ』は少し肩透かしのように感じられるかもしれない。ところで公開から数日後、日本人の友人からSNSでメッセージをもらった。

 「ミナリはキリスト教の映画なんですか? 見ようと思っているんですが、どうしようか迷っています」

 なるほど、やはり日本でも「キリスト教」といわれると、何か抵抗感が生まれるのかもしれない。韓国でも3月3日の劇場公開以降、これまではあまり聞かれなかったキリスト教的な解釈についての言及も増えている。

 韓国はクリスチャンが人口の30パーセントを占めており、「通っている教会の牧師さんから映画を勧められた」という人もいる一方で、その部分に対する批判的な意見もある。たとえばハンギョレ新聞に掲載された記事は『ミナリ』という作品が、「家族と宗教(キリスト教)というアメリカ人の普遍的精神に深く根ざしている」としながら、その「保守性」、について批判している。(3月22日付 ハンギョレ新聞)

http://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/987715.html#csidxc0398885f9be260892ac84289bfd2c1

 もちろん、この映画のベースにキリスト教的な世界観があるのは自明である。リー・アイザック・チョン監督は敬虔なクリスチャンであり、韓国名はチョン・イサクだ。そして主人公である父親はジェイコブ、つまりヤコブである。これはイサクとヤコブの物語であると読み解けば、映画からはまた別の世界が見えるだろう。十字架を背負っている不思議な隣人も、唐突に見える蛇の出現なども、聖書の物語に回収すれは非常にわかりやすい。

 ただ「キリスト教の映画」と言ってしまうのはどうだろう? スティーヴン・ユァンは言っていた。「『ミナリ』という映画は一切の壁を作らない」と。

 もちろんキリスト教的な解析は有効に違いない。韓国の参加型メディアとして有名なオーマイニュースには「エデンの園に植えられたセリは何を意味するか?」という長めの投稿記事が掲載されており、そこには映画のキリスト教的解析とともに、次の一文があった。

 「米国でこの映画の反応が良いのは、作品がプロテスタントの色合いと入植者の話を含んでいるからではないでしょうか?」

http://star.ohmynews.com/NWS_Web/OhmyStar/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0002728355(韓国語)

 それはもちろんそうなのだろう。例え熱心なクリスチャンでなくても、多くのアメリカ人にとって聖書は慣れ親しんだ身近な物語である。

 ただ、韓国や日本では少し事情が違う。とくに韓国では、映画をキリスト教と結びつけることは、無用な軋轢を招くことにもなる。したがってメディアも評論家もその点については慎重だ。監督自身も誰もが共感できる「家族の物語」であることを強調している。ただ、私はそちらにむしろ違和感がある。今の世界で、韓国で、「家族」という言葉は普遍性を担保するものではない。特にこの映画で描かれる血縁をベースにした家族は、果たしても「誰もが共感できる」ものなのだろうか。

 

監督への疑問 「誰もが共感できる家族」とは?

 ここに書いたことを友人にも伝え、その後、映画を見た友人からは「開拓している主人公の姿が、商売を始めた父の姿と重なり…号泣」という返信をもらった。さらに 「キリスト教的な解釈とかではなく、生きる根本に根ざした映画だと感じました」とも。

 号泣といえば冒頭でふれた、韓国の劇場で号泣したという友人の夫。どこが号泣ポイントだったのか聞いてみた。

 「韓国からおばあちゃんが来て、お土産の荷物を開けたあたりからもう泣きはじめて、その後はもう嗚咽というか泣きっぱなし……」

 おばあちゃんの荷物の中には韓国の唐辛子や煮干しが入っていた。友人の夫もやはり1980年代に海外で過ごした経験がある。今のように世界中で韓国料理が食べられたり、韓国の食材が手軽に入手できるような時代ではなかった、彼もまた同じように故郷から届けられた荷物に慰められたことがあるのかもしれない。

 一方で彼の妻はあの映画をあまり好きではないと言っていた。

 「私はやはりああいう男は許せないんです。それに母方のおばあちゃんだから、よかったけど、姑さんが登場したら最悪になっていたと思うし」

 「家族」の中でも思いは割れる。

 実は、「母方のおばあちゃん」であることは、日本で考える以上に重要だ。韓国では父方のおばあちゃんを「チン(親)ハルモニ」、母方のおばあちゃんを「ウェ(外)ハルモニ)」と明確に区別する。母方の親戚は「ウェガ(外家)」、つまり「外部」となる。韓国の伝統社会では疎外される「娘の母」という存在、それが最終的に家族の危機を救うという物語は、米国的・聖書的なものを離れて非常に意味深いと思う。

 現実問題として(もちろん映画は実話ベースだが)、これが「父方のおばあちゃん」だったら家族を救えなかったかもしれない。妻の大変さは言うに及ばず、さらに娘のアンにいたっては相当不条理な目に合うのは想像に難くない。1980年代の韓国の家族がどんなふうだったか。それは『82年生まれ、キム・ジヨン』という小説に詳しい。

 1980年代だったら、この映画が「保守的」という批判を浴びることはなかっただろう。しかし2020年代の今はやはり、監督に真意を聞いてみたくはなる。「誰もが共感する家族」とはいったいどんな家族なのか? 

 そもそも、この映画でお姉ちゃんの存在はどうしてこんなに希薄なのか? 彼女は家族の再生の物語にどう参加していたのか? 監督は「誰もが共感できる家族の物語を作った」というが、納得できない人も多いのではないか? 監督にも、映画を絶賛するスティーヴン・ユァンにも、聞いてみたいことは山ほどある。

 同時に感動も伝えたいと思う。1980年代だというのにまるで開拓時代のような米国の片田舎で、土にまみれて格闘した韓国人の家族がいたという事実。ヒヨコの選別の仕方を覚えて移民した夫婦の子どもが、40歳になってその記憶を映画にしてアカデミー賞の候補になったということ。その映画の主演俳優もまた4歳の時に親に手を引かれて移民した子どもであったこと。越境者たちの勇気と努力と成功が嬉しい。きれいな水があればミナリは育つ。水が出なければ、自分から水の方に向かえばいいのである。

 最後に一つ、映画を見ながら古い記憶が蘇ってきた。1990年の夏、ひょんなことから亡命中の中国人家族と、アメリカを東から西に旅したことがある。その家族にはジェイソンという5歳ぐらいの男の子が1人、いつもおばあちゃんと一緒にいた。ある日のこと、ジェイソンが部屋から出てこないので見に行ったら、ワンタンの丼の前でじっと動かないでいた。その前にはおばあちゃんも動かずにじっと座っていた。

 「ジェイソンは身体に悪い米国のジャンクフードばかり食べているからね……」

 二人のにらめっこは日暮れ時になっても続いていた。あの後、ジェイソンはおばあちゃんが作ったワンタンを食べたのだろうか? それがずっと思い出せないでいる。

 美しい映画はノスタルジーを喚起する。余白の多い映画は個人的体験を想起させる。そこが、細部まで綿密に作り込まれた『パラサイト』とは実に対照的だ。

 

 

 

 

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カルチャーから見る、韓国社会の素顔

「愛の不時着」「梨泰院クラス」「パラサイト」「82年生まれ、キム・ジヨン」など、多くの韓国カルチャーが人気を博している。ドラマ、映画、文学など、様々なカルチャーから見た、韓国のリアルな今を考察する。

プロフィール

伊東順子

ライター、編集・翻訳業。愛知県生まれ。1990年に渡韓。ソウルで企画・翻訳オフィスを運営。2017年に同人雑誌『中くらいの友だち――韓くに手帖』」(皓星社)を創刊。著書に『ピビンバの国の女性たち』(講談社文庫)、『もう日本を気にしなくなった韓国人』(洋泉社新書y)、『韓国 現地からの報告――セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書)等。『韓国カルチャー 隣人の素顔と現在』(集英社新書)好評発売中。

 

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