徳光和夫の昭和プロレス夜話 第3夜

アナウンサーとして大事なことはプロレスから学んだ

徳光和夫
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「咄嗟に“さあ、ジャイアント馬場が飛んだ”と言ったんです。だけども、タイミングがズレたのか、それほど高く体が上がらず、結局はサンマルチノのお腹に当たりましてね。私はすぐさま“おっと、これは意外、低空飛行”と言ったんですよ」

 咄嗟の判断で?

「ええ、よくぞあのとき“低空飛行”という言葉が出てきたな、と我ながら思いましたね。普通は絶句しちゃうもんなんですよ。というのも、すでに頭の中には馬場さんが華麗に宙を舞うドロップキックが刻み込まれているわけです。でも、実際に目に飛び込んできたのは高く跳べていないドロップキックだった。それは完全に想定外で、こういう場合、いわゆる頭の中が真っ白になるというんですかね、何も言葉が出てこなかったりします。それでも、自分でも予想してなかった“低空飛行”の言葉が出てきた。

 振り返って思うに、プロレスはアナウンサーを育てるんですよ。プロレスの試合は予定調和で終わることはありません。こちらがいくらここで必殺技を出すだろうと予測していても、その裏をかくような試合展開になったりする。そのため、私たち実況アナウンサーはなるべく頭の中をフラットな状態にし、どんな状況でも言葉を発せられるように、紡げるように準備したり、工夫を積み重ねて表現できるようにしておかなければならない。

 この試合を通しての鍛錬といいますか、プロレスの試合によって鍛えられ、結果的に身に付く現場での対応力はアナウンサーとしての大事な財産のひとつになるんです。だから、後輩の福沢もそうだし、もちろん古舘もそうですが、プロレスを実況してきたアナウンサーはみんなフリーになっても、魅力的ないい仕事ができています」

1968年2月28日に行われたジャイアント馬場対ディック・ザ・ブルーザーのインターナショナル選手権試合は、流血、場外乱闘と大荒れの展開。こういう時こそ、実況の力量が試される。写真/宮本厚二

 

  なるほど。

「私たちはプロレスの実況で学んだんですよね。目に映る世界をいかに言葉で伝えていくか。その言葉は単にそのもの自体を表現するだけでなく、付加価値が付くような面白い言葉でなければいけないと学び、さらに努力をしていく。その繰り返しで私たちは予測不能なライブ空間であっても動ぜず、言葉を紡いでいけるようになった」

 なるほど、なるほど。

「余談になりますが」

 はい。

「さきほど馬場さんが放ったドロップキックを“おっと、これは意外、低空飛行”と実況してしまったと説明したじゃないですか」

 ええ、はい。

「それで思い出したんですけど、実はね、古舘のプロレス実況の代名詞にもなっている“お~っと!”は私から取ったみたいで(笑)」

 そうでしたか。

「ええ。私はプロレスを実況する際に必ず“おっと”を入れていたんです。“おっと、馬場、これは凄い投げ技だ”とか。というのも、“おっと”を入れることにより、1秒くらい時間を稼げる。その1秒の間に次にしゃべる言葉を頭の中で探しているわけです」

 おっと、それは凄い!

「(笑)。黙ってしまうよりマシですから。それで先日、古舘と話をしていたとき、彼が言うには自分がテレビ朝日でプロレス実況を担当することが決まった際に、ふと私の“おっと”を思い出し、“これは時間を稼げる、自分もやってみよう”と思い立ち、あの“お~っと!”が生み出されたそうです」

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プロフィール

徳光和夫

1941年、東京都生まれ。立教大学卒業後、1963年に日本テレビ入社。熱狂的な長嶋茂雄ファンのためプロ野球中継を希望するも叶わず、プロレス担当に。この時に、当時、日本プロレスのエースだった馬場・猪木と親交を持つ。

 

 
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