韓国2025 アジアの民主主義を考える 第1回

「韓国における政変」であらためて考えた、アジアにおける民主主義のこと

伊東順子

大統領の暴走

 世界中で「民主主義の危機」や「民主主義の衰退」が懸念される中、韓国でもとんでもないことが起きた。12月3日の深夜に始まった大統領の暴走。「今の時代に戒厳令!?」——韓国の人にとってもそれはまさに「寝耳に水」だった。

 直後にニュースを伝える解説者もしどろもどろで、誰もがにわかには現実をうまく受け止められていなかった。「戒厳令」と聞いて思い出すのは過去の軍事政権時代のことだ。特に近年は全斗煥政権時代を舞台にした映画『タクシー運転手』や『ソウルの春』などが国内外で公開されており、頭の中はいきなり40年以上も前にタイムスリップしてしまう。実際のところ、韓国で最後に戒厳令が出されたのは朴正煕暗殺直後の1979年10月、それが済州島を含む韓国全土に拡大されたのは光州事件直前の1980年5月である。

 「大統領は正気なのか?」「酒の勢いじゃないのか」

 皆が疑心暗鬼になるのは当然だったが、メディアや一般人がオロオロする中、政治家や一部市民の動きは素早かった。

国会へ、塀を乗り越えてでも 

 韓国の現行法で、大統領の非常戒厳宣布を無効にできるのは国会である。ニュースで専門家がそれを指摘した時、すでに国会議事堂のある汝矣島には議員たちが集結を始めていた。それを阻むために軍隊が国会を封鎖する。

 「塀を乗り越えてでも、議場に入ってください」

 すでに国会内に入っていた曺国(チョ・グク)ら野党議員らは仲間に呼びかける。「寝耳に水」で飛び起きたのは与党議員も同じだった。こちらも一斉に汝矣島に向かう。

 「非常戒厳宣布は間違っている。国民と共に止めなければ」

 与党代表韓東勲(ハン・ドンフン)が真っ白な顔で訴える。国会の上空にはヘリコプター、議場を制圧しようとする軍人、SNSには戦車の動画まで現れている。何だこれ?

 「これはフェイクです」

 いつもながらお騒がせな人々が情報を混乱させる。こういう時に頼りになるのは、やはりちゃんとしたメディアのニュースである。国会内には内外の記者が入っており、時々刻々の状況が映像で伝えられる。そこに登場する「戒厳軍司令官」「空挺部隊」「令状なしの逮捕」……、40年前の悪夢が蘇った人もいたし、そんな昔に生まれていなかった人もいるし、いずれにしても「2024年の今の現実とは思えない」と、多くの人が思った。

 「とにかく国会だ!」

 議員やメディアだけでなく、一般市民も国会に向かった。「我々が議会を守らなければいけない」という思い。市民たちは盾になる覚悟だった。彼らには光州事件など独裁政権時代の記憶があった。ここで止めないと大変なことになる。

 幸いなことに無血で深夜の国会は開かれ、そこに集まった191人の国会議員によって、戒厳令解除の要求決議議案は可決された。壁を乗り越えて国会内に突入した禹元植(ウ・ウォンシク)議長の議事進行は完璧だった。

 「お見事!」

 可決の時に思わず歓声をあげたら、一緒に見ていた家族も拍手をしていた。大統領による突然の「非常戒厳宣布」から約2時間。韓国国会は見事にそれを止めた。美しかった。議会制民主主義の真骨頂を見る思いだった。

民主主義国家の国会議員としての誇り

 戒厳令を解除させ、民主主義の守護神となった191人の国会議員のうち、インターネット上で一躍ヒーローとなったのは朴智元(パク・チウォン)議員だった。御年82歳、同世代はほとんどが眠りについている深夜に、彼は国会に駆けつけてその職務を果たした。議決の後、深夜の国会でそのまま寝てしまった姿が世界中に拡散された。

 故金大中大統領の腹心と言われた彼だが、その人生は波乱万丈だった。1942年、日本の植民地時代に生まれ、その後に朝鮮戦争、そして独裁政権時代が続く。70年代に米国に移住してビジネスで成功した頃、米国亡命の身の上となった金大中に出会い、彼の志に深く共鳴にして祖国の民主化と南北統一に生涯を捧げる決意して帰国する。金大中なき後も、彼は「進歩派」の重鎮として常に最前線に立ってきた。

 また、この日、国会に駆けつけながら、壁を越えられずに涙をのんだ与党議員もいた。キム・イェジ議員は韓国では女性としては初の視覚障害者議員として知られている。

 「後ろから秘書官に押してもらって壁を越えます」

 先に議事堂内に入っていた与党代表は、そんな彼女を止めるしかなかった。

 「何を言っているんですか。ダメです、危なすぎる」

 たしかに盲目の彼女が付き添いなしで、議場までたどり着くのは難しかったと思う。

 「いつもバリアフリーの重要性を訴えていた私が、まさに物理的な『バリア』を感じて暗澹となった瞬間でした。体は障壁に阻まれ本会議場に届きませんでしたが、非常戒厳解除決議に対する気持ちは、すでに賛成ボタンを百万回以上に押していたと思います」(12月4日のキム・イェジ議員のフェイスブックから)

 彼女が壁を越えようとしたのは、民主主義国家の国会議員としての自覚であり、障害者として生きてきたプライドであったと思う。この時の悔しさは、彼女のその後の勇気ある行動につながっていく。

 12月7日、野党が提出した大統領弾劾訴追案に対して、与党はボイコットを決めていた。議場から一斉に退場する与党議員に怒号が飛び交う中、キム・イェジ議員は議場に戻ってきた。付添人に介助されながら投票する彼女の姿に多くの国民が涙した。彼女はそれにより、与党内で「造反議員」のレッテルを貼られることになる。

憧れのKコンテンツの国で、なぜ大統領は戒厳令?

 そこまでの経過を東京から見ていた私は、12月10日にソウルに移動した。「このタイミングで?」と言われたが、毎月のことである。「すわ戒厳令の韓国」への渡航を控える向きもあるといい(特に欧米からのキャンセルが多いと報道されていた)、私も友人から「今、韓国に行っても大丈夫か?」と聞かれた。

 「あのまま戒厳令だったらやばかったけど、食い止めたから大丈夫ですよ。これまでと何も変わらない」

 それは本当だ。あのまま戒厳令下に突入したら、当然ながら外国人の入国も制限されただろう。でも、そうはならなかった。今も政治的な混乱は続いているが、それ以外の日常はいつもと同じだ。街のレストランにはよく飲みよく食べよく笑う人々がいるし、学生は勉強を、大人は仕事、みんな相変わらず勤勉だ。

 それにつけても思うのは、あの大統領はいったい何を考えていたのだろう。世界中から「憧れのKコンテンツの国」を訪れる人がいる時代に、なぜ「戒厳令」などという時代錯誤のアイディアを思いついたのだろう? 

 野党の態度、妻の問題、親北勢力等々、理由はいろいろ推測されているが、それを全部足しても「戒厳令」という答えは出てこないだろう。

 ソウルで会った韓国人の友人や仕事関係者も皆、まずは「ため息」だった。「なんであんな人が大統領なんでしょう」「恥ずかしいですよ」「韓国は情けない国になってしまった」。飲んでいるうちに、思いがこみ上げてきて泣く人もいた。

 「でも、議会がちゃんと止めたからよかったじゃないですか。国会議員も市民も頑張ったし。韓国人はすごいと感心している人は世界中にいます」

中国人留学生たちが見た、「議会制民主主義の姿」

 それはお世辞ではなく本当だった。日本の友人たちもそうだったし、中国人の友人も感動したと言っていた。1990年代から韓国で暮らす彼女は30年来の友人である。 彼女のWeChatのグループには、3日に深夜から韓国の戒厳令についての投稿が上がっており、弾劾を求める集会に参加している中国人留学生も多いという。

 「大統領の横暴を議会がきちんと止める。そして弾劾の手続きは国会から司法へと引き継がれる。この民主主義の仕組みを留学生たちが実際に体験できるのは、素晴らしいことだと思うのです。残念ながら今の中国には、それがありませんから」

 それはたしかにそうだった。韓国の民主主義といえばデモとか集会のことを真っ先に思い浮かべてしまうけれど、今回、大統領の暴走を寸前で止めたのは「国会」だった。そのことは中国だけでなく、アジア全体にとって意義深いだろう。まだまだ権威主義的な政権が多いアジアにおいて、韓国が見せた議会制民主主義の手続きは大きな学びになるはずだ。

 韓国で学ぶ外国人留学生は11月基準で約18万人であり、そのうちの9割がアジアからの留学生である。そのうちでも最も多いのが中国人留学生(68,145人)であり、ベトナム(41,283人)やウズベキスタン(13,123人)などが続く。軍政から続くミャンマーからの留学生(3,220人)もいる(ちなみに日本人留学生は3,088人である)。

 彼ら留学生にとって韓国は憧れのKコンテンツの国であり、また民主主義のお手本ともいえるだろう。軍事独裁政権から民主化を勝ち取った後も、何度も激しいバックラッシュを体験した。アジアには韓国と同じような経験をした国も少なくない。

 韓国メディアは大学院に通うミャンマー人留学生の感想を掲載していた。

 「ミャンマーは2021年の軍事クーデター以後、春を完全に失うことになった。私のように歴史に痛みを持つ国から来た外国人たちは、韓国の戒厳令により不安になったと思います」(2024年12月23日付「ヘラルド経済」)

https://biz.heraldcorp.com/article/10021540?ref=naver

アジアにおける民主主義の先進国である日韓

 アジアの留学生たちは日本にもたくさんいる。彼らにとって韓国や日本は、外国人としての生きづらさはあるにしても、やはり民主主義の先進国だと考える人が多いだろう。何よりも私たちの国には言論の自由がある。

 例えばイギリスのEIUの調査によれば、アジアで「完全民主主義」に入るのは日本、韓国、台湾だけであり、また3国は米国のフリーダム・ハウスの調査でも「完全に自由な国」に分類される。一方、フリーダム・ハウスの調査で日本(96点)に比べて韓国(83点)のスコアーは低いのだが、その理由の一つは北朝鮮メディアへのアクセスが禁止されていることである。

 日本には市民が積極的に行動する韓国を「民主主義の先進国」として称賛する人もいれば、逆に「韓国民主主義は未成熟だ」と発言するもいる。

 韓国を巡って日本国内の評価が真っ二つに割れるのは今に始まったことではないが、そもそも日本と韓国では民主主義の歴史が随分と違う。敗戦後に米占領軍から優先的に民主主義のパッケージを与えられた日本と、東西冷戦の最前線で軍事優先の体制を強いられた韓国では地域での役割が異なっていた。

 ちなみにフリーダム・ハウスの調査で上位はフィンランド(100点)、スウェーデン(99点)などの北欧諸国であり、米国は2024年で韓国と同じく83点だった。民主主義の危機のシンボル的存在ともいえるトランプの返り咲きで、さらに数字を落とすと予想されている。

 蛇足ながら韓国における熱狂的な尹錫悦支持者の一角には、一部の保守系キリスト教団体の存在があるが、それは米国におけるトランプ支持者ともつながるものがある。

民主主義を破壊するリーダー、民主主義を守ること

 弾劾国会の前日、韓国の友人宅に行ったら、ちょうど軍隊に行っていた息子が休暇で戻っていた。彼も「明日はデモに参加するつもり」と言っていた。あと半年で兵役が終わる彼に「除隊後、まずは何がしたいか?」と聞いたら、彼の顔がパッと明るくなった。

 「大谷翔平を見にアメリカに行きます!」

 そのために軍隊内で貯金もしているという(韓国軍の給料は日本円に換算して約10万円。そのうち4万円までは100%という特別利息で貯金できる。頑張れば除隊時に200万円ぐらいが貯められるという)。そういえば彼は日本びいきだった。日頃から「日本は文化的な多様性がある。いろいろな楽しみがある日本が羨ましい」と言っていた。

 そう韓国人にとって「日本が羨ましい」と感じるところもあるのだ。今回の件でも韓国人の中には米国や韓国のような変化の激しい大統領制よりも、日本のような議院内閣制のほうがいいのではないかという意見も出ている。互いの民主主義の形を学びあう必要があるのだと思う。

 その尹大統領には「内乱罪」等の容疑で「拘束令状」が発布されているが、本人は出頭を拒み公邸に立てこもっている。民主主義国家の大統領がこんなことをするのは前代未聞である。みずから法を無視する大統領に対しても、あくまでも法に基づいて対応しなければならない民主主義国家のジレンマがある。果たして「民主主義を守るために民主主義は有効なのか」——韓国は今、世界が抱える同時代の問いのど真ん中にいる。

第2回  
韓国2025 アジアの民主主義を考える

2024年12月に突然出された韓国の非常戒厳令。いまだ韓国社会は揺らいでいるが、市民が積極的に行動する韓国を「民主主義の先進国」として称賛する人もいれば、「韓国民主主義の未熟さが露呈した」と批判的にとらえる人もいる。韓国を巡って日本国内の評価が真っ二つに割れるのは今に始まったことではないが、それぞれが理想とする「民主主義の形」はいったい何だろうか。韓国のリアルをレポートしながら、アジア全体の民主主義を考える。

関連書籍

韓国カルチャー 隣人の素顔と現在

プロフィール

伊東順子
ライター、編集・翻訳業。愛知県生まれ。1990年に渡韓。ソウルで企画・翻訳オフィスを運営。2017年に同人雑誌『中くらいの友だち――韓くに手帖』」(皓星社)を創刊。著書に『ピビンバの国の女性たち』(講談社文庫)、『もう日本を気にしなくなった韓国人』(洋泉社新書y)、『韓国 現地からの報告――セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書)等。『韓国カルチャー 隣人の素顔と現在』『続・韓国カルチャー 描かれた「歴史」と社会の変化』(集英社新書)好評発売中。
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「韓国における政変」であらためて考えた、アジアにおける民主主義のこと