スポーツウォッシング 第10回

日本人のスポーツとの付き合い方はなぜこんなにいびつなのか?

西村章

日本人が日本選手の活躍にしか興味がないのはなぜか?

西村 僕もスポーツをずっと取材してきた人間なので、自分はけっしてスポーツ嫌いではないと思うんですが、「ほら、みんなスポーツが好きでしょ。いっしょに応援しましょうよ」という雰囲気に簡単になってしまうことに釈然としないというか、居心地の悪い違和感をずっと抱えてきたんです。

 たとえば選手にインタビューして「表彰台で君が代を流したい」という発言があったときに、なぜ皆が一緒に盛り上がるんだろう、君が代が流れて感動するというのはいったいどういうことなんだろう、というようなことを、少なくとも取材をする側はいつも頭の隅に置いておかなければならないんじゃないか、と思うんですよ。

 武田さんの近著『なんかいやな感じ』(講談社)でも、サッカーワールドカップの日韓共催のときだったか、六本木の交差点で向こうから歩いてきた知らない人たちがいきなりハイタッチを求めてきた、というエピソードがあったじゃないですか。あれを読んで、きっと武田さんも自分と似たような違和感を持っているのではないかと勝手に思っていたんですが、どうですか。

武田 そうですね、その違和感はずっとあります。五輪が開催された2021年の8月に、たとえば(自分の好きな)オジー・オズボーンの来日公演が計画されていたとして、「他のあれこれは中止でも、オジーが来るんだぜ、みんなで観に行こうよ」と言ったところで「ファンはそう思うかもしれないけど、こっちは関係ねえよ」と言われたはずです。でも、オリンピックはそうならなかった。

「オリンピックなんだから、みんなで応援しなきゃ」という雰囲気が高まっていった。スポーツは皆が揃って応援するのが当然なんだ、というあの前提はどこから来るんだろう、と疑問に思い続けています。

 夜のテレビニュースでも、CM明けでスポーツコーナーになるとアナウンサーがものすごい笑顔で「さぁ、スポーツです!」と、いかにも、お待たせしました、というテンションになります。残念ながら、世の中で起きている出来事に良いことがあまりないので、スポーツニュースがその箸休めとして使われる傾向が、特にここ数年は強くなっています。

 大谷翔平選手が活躍しているのは、彼の才能がすごいのであって、別に日本がスゴいわけではありません。あるスポーツの日本代表が勝ち上がっているのはあくまでも選手たちの成果なのに、「日本」や「私たち」という大きな主語で語られています。大谷選手が肘の手術をして二刀流じゃなくなるといわれている来シーズン、テレビニュースはどうするんだろうなんて思ったりもします。

西村 個々のアスリートの活躍はもちろん見たいし、凄いなとも思うんだけれども、そこに同化する心情というのはいったい何なのか。ある種のナショナリズムみたいなところに収斂して行くんだろうとも思うんですけれども、たまたま同じ国籍だというだけで、そんなに簡単に一体感を持ててしまうものなのかな、ということがずっと疑問なんです。

 かつてナンシー関さんがコラムで「ふだんは温厚でもの静かな善男善女が、家でサッカーワールドカップの試合を見て絶叫する声が団地の窓越しに響いてくる薄気味悪さ」みたいなことをお書きになっていたんですが、そういう違和感を自分も気持ちのどこかにずっと抱えながら取材をしてきたんですね。

 で、20年ほど昔の話なんですが、バレンティーノ・ロッシというイタリアのスーパースターがいて、まさに今の大谷翔平選手のような状態で、僕は「この人はいったいどこまで才能を伸ばしていくんだろう」という凄味を感じながら、ずっと取材をしていたんです。そのロッシがチャンピオンを決めるかどうか、というレースがブラジルであって、彼のタイトル獲得を阻止できる可能性があったのが、たまたま日本人選手ふたりだけだったんです。

 決勝レースが行われた日曜日は朝から土砂降りの雨で、でも、その日本人のひとりは雨がどうにも苦手なんですよ。これで可能性はひとつ消えた、と。で、もうひとりの選手もレースが始まると雨の中であっさり転んで終わっちゃった。そのときに、「何やってんだよ……」と自分が思ってることに気がついたんです。

 バレンティーノの才能の凄味をこの目で見たい、と思っていたはずなのに、実際には彼のチャンピオン獲得がうれしいんじゃなくて、日本人選手が転倒したことをすごく悔しいと思っていることに気がついて、それが自分でもすごく意外だったんですね。

 日本人選手を普段から取材している親近感があったにせよ、それは他の国籍の選手たちにも同じように自分は取材をしているわけです。なのに、日本人選手が活躍しなかったことに悔しさを感じる。だから、それは共通の生活文化があって共通の言語を話すことで結びつきのようなものを感じる、何か抜きがたいものが自分たちの中にあるんだろうな、ということも、一面ではやっぱり理解はできるんですよ。

1964年生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。2010年、第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞受賞。2011年、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。著書に『MotoGP最速ライダーの肖像』(集英社新書)『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』『MotoGPでメシを喰う』(三栄)など。

武田 でも、そう感じる自分に対する疑いを持ちながら見ていたわけですよね。「なぜ自分はそういう気持ちになってしまったんだろう」っていう。その疑問があるかないかという差は、大きいと思うんです。

 今回の書籍にも登場されている山口香さんに、先日、ラジオ番組のゲストにお越しいただいたのですが、そこで「オリンピック憲章ではメダルを国別ランキングで表示することは推奨されていない」という話になりました。徐々にその傾向は弱くなってきてはいますが、やっぱりオリンピックになると、特にテレビでは国別のメダル競争を取り上げるわけです。

 オリンピックに限らず大きな大会があった時、日本が負けた途端、その後の試合はあまり報じられなくなっていきます。ラグビーのワールドカップでも、日本が敗退するとスポーツニュースでは扱いが小さくなっていく。バスケットボールのワールドカップでも、自力でパリオリンピックの出場枠を獲得したことが話題になった後はほとんど報じられなくなった。自分は、国際的なスポーツの現場、あるいは鑑賞のされ方を知っているわけではないので西村さんに聞きたいのですが、「自分たちの国のチームや選手はどうなったのか?」みたいなシンプルな報じ方って、やはり日本に突出したものなんでしょうか。

西村 その競技に対するリスペクトや興味よりも、「日本人だから」ということが上に来ている気がしますよね。もちろんどの国でも、自国選手やチームが活躍したら、スポーツ新聞でもテレビニュースでも扱いが大きくなるのは当然だと思うんですけど、自国の選手かどうかで報道のされ方が違ってくる度合いは、日本の場合、ほかの国と比べてちょっと強い気がしないでもないですね。

武田 どうしてそういうふうになってしまったのでしょう。

西村 視聴者や読者が求めるものと、メディアが提供するものは鶏と卵のような関係だと思うんですが、どんな競技でも現地でずっと丹念に取材している日本人ジャーナリストがいる一方で、たとえば日本人選手がメジャーリーグやセリエAに移籍したときに日本からわっと押しかけていく取材陣は、極端なことを言えば日本語しかしゃべれない人も中にはいたりする。すると、日本語しかしゃべれないから日本人選手しか取材しない、できない。

武田 だから、その選手が勝った、打ったの後は、休みの日にどんなご飯を食べているか、みたいな話になるわけですね。エンゼルスの大谷選手だって、ホームランやヒットを何本打ったとか、三振はいくつだったという話の後、試合結果がどうだったのかさえ、よくわからないまま終わることさえありますもんね。

西村 ニュースをよく聞いてみると、つけたしのように最後でちょこっと言ってたりはするけれども、ニュースの力点は明らかにそこにはないんですよね。

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プロフィール

西村章

西村章(にしむら あきら)

1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。

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