スポーツウォッシング 第10回

日本人のスポーツとの付き合い方はなぜこんなにいびつなのか?

西村章

メディアのスポーツの扱いは、尊敬がないし雑すぎる!

武田 山口香さんが『スポーツの力』(集英社新書)で書いていましたが、スポーツの感動は一瞬で消える打ち上げ花火みたいなものだと。でも、世界中ではいつも何かしら大会をやっているので、それを次々ピックアップしていけば、スポーツニュースはその都度盛り上がりを作れる。でも、競技団体にしてみれば、雑に消費されているわけだから、もっと憤ってもいいはずです。これまで見向きもしなかったのに、いきなり「日本のバスケ最高だよね」「やっぱりソフトボールだよね」と言われたりしている。その扱われ方に対する苛立ちも、スポーツ界の中にはあるんじゃないかと。

西村 競技団体や選手の側にしてみれば、「テレビで放送してもらえる・・・・」「新聞に書いてもらえる・・・・」という意識も、実際まだ強いんでしょうね。

武田 東京オリンピックでは、スケートボードの選手たちの発言が軽やかでしたよね。オリンピックは大事な大会だけど、別にこれだけが一番というわけでもなく、マイクを向けても「日本のために」とか、「犠牲」みたいな言葉を使わない。あの競技特有の通気性の良さが言動に表れたのかもしれません。あれくらいフランクな、その人ならではの言葉を聞きたいな、と感じました。

西村 彼らの活躍に対して「日本がメダルを獲った!」と言って喜ぶ意味ってどれぐらいあるんだろう、と思うんですよ。スケートボードでもブレイキンでもいいんですが、そこで日本人選手たちがメダルを獲ると、「日本の選手だ」と言って喜ぶわけですよね。

武田 スケートボードの実況でも、当時13歳だった西矢椛選手に「真夏の大冒険!」ってアナウンスを入れたじゃないですか。失礼だな、と思いました。もちろん、若いとはいえ世界で勝負してきたトッププレーヤーに対して、「真夏の大冒険」。まるで名実況のようにもてはやされましたが、単に失礼ですよね。

西村 「はじめてのお使い」の延長線上、みたいな。

武田 手垢でべっとりした価値観で意味づけをしてしまう。競技の成績に年齢なんて関係ないと思うんですけどね。

西村 ああいった競技の選手たちを見ていると、世界一決定戦に参加したい、そこで勝ちたい、観戦する側もそれを見たい、という気持ちはそれぞれすごくわかるけど、それは別にオリンピックじゃなくても全然構わないわけでしょう。一方で、メガスポーツイベントとしてのオリンピックを見ると、破綻しつつあるビジネスモデルであることは明らかだし。

武田 オリンピックが頂点ではない競技もたくさんあるし、オリンピックを突出した価値のあるものだと考える度合いは薄まっていくのでしょう。運営する側は同じ仕組みでやりたがるのでしょうが、開催候補地として手を上げる都市もどんどん少なくなってきている。

西村 オリンピックの歴史と、その歴史に裏打ちされた名誉や価値はわかるけれども、それなら今までと違う破綻しないやり方も当然考えられるべきなのに、そこは全然変わろうとしない。今までと同じ仕組みでやることで、ある種の人たちはお金が儲かるのかもしれないけど。

武田 IOCのバッハ会長に「ぼったくり男爵」というあだ名がつきましたが、あれは組織の性質をわかりやすく表した、実にいいネーミングでした。

西村 東京オリンピックでも、大会組織委員会の贈収賄事件以外に検証されていないものがまだたくさんあると思うんですが、それこそ『スポーツウォッシング』で山口香さんが提案しているように、今後は複数都市開催も検討されて然るべきですよね。オリンピックの意義に照らし合わせれば、たとえばアフリカとヨーロッパの都市が共催することになれば、植民地にしてきた歴史的背景を考えると、ものすごく価値と意義の高い大会になるだろうし。

武田 あるいは、ずっとギリシャでやるとか、そういう考え方も必要だと思います。毎回わざわざ大都市でやり、開発という名で使われないスタジアムを作って、街を荒らして次に行く、この方法はもう限界です。このまま続けていったとしても、「オリンピックだから見よう」という人たちが果たしてどれくらい残り続けるのか。東京オリンピックや札幌オリンピック誘致の醜態を見ていると、世の興味はどんどん小さくなっていくんじゃないか、と感じています。

西村 メガスポーツイベントとしての関心は今後もある程度続いていくだろうと思うんですが、たとえばヨーロッパのジャーナリスト仲間と話していても、オリンピックという場で戦うアスリートたちへのリスペクトはあるけれども、大会そのものに対しては、あくまでも様々なスポーツイベントのひとつで、オリンピックが何よりも抽んでた世界一特別なスポーツイベント、とはもはや捉えなくなっているような印象もあります。

 オリンピックのあり方を問うことは、スポーツメディアのあり方を問うことでもあります。これはスポーツウォッシングという現代的な課題にも通底することなんですが、日本のスポーツメディアは、スポーツ報道を通じて自分たちのありようも可視化されていることを、果たして自覚しているのかどうか。東京オリンピックはまさにそれが露わになった大会だったので、2024年のパリオリンピックではその姿がどんなふうに変わるのか、あるいは変わらないままなのか、ということにむしろ注目をしたいと思っています。

撮影/五十嵐和博

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 第9回

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プロフィール

西村章

西村章(にしむら あきら)

1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。

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