宇都宮直子 スケートを語る 第14回

優しい先駆者

宇都宮直子

 タチアナ・タラソワは、思い出したように言った。

「はじめてロシアに来たとき、大輔はスピンが上手じゃなかったの。下手だったわ」

 彼女は、瀟洒な館にいる。好きなものに囲まれた自宅だ。

 前庭の木々は、空に向かって高く伸びている。葉の緑がひらひらと風に揺れている。花が鮮やかに、咲いている。その様子だけで、タラソワの成功を思わせる。きわめて容易に、だ。

 彼女はこれまで振り返りながら、話をしていた。話は、時間が経つほど熱を帯びた。タラソワは、長い指導経験を持つ。ロシアを代表するコーチのひとりだ。

 髙橋大輔の名前は、話の中に、ときおり「ふと」混ざった。

 はじめてロシアに来たとき。髙橋が高校生あたりだろうか。長光歌子コーチと共に、彼はロシアに滞在している。

 長光から、過去に聞いた話を思い出す。

「大輔は、ほんとうに優しいんですよ。十代の頃、ロシアに行ったとき、横断歩道で知らないおばあさんを助けてました。

 ロシア語もわからないのに、寄り添うようにゆっくり歩いていたんです」

 当時、髙橋はさまざまに「疲れていた」。「いろいろ嫌になっていた」。「ちょっと荒んでいた」とも、聞いた。

 そうであっても、優しさは損なわれていなかった。それが彼の本質なのだと思う。おそらく。

「スピンが上手ではない」話を、私は興味深く聞いた。

 髙橋はスピンの名手だ。現在と乖離するタラソワの言葉は、髙橋の「それから」をよく物語っている。

 彼は苦しいところから、昇ってきたのだ。

「負けん気は強い方」

と、髙橋は口にする。でも、あまり欲のない人だから、すごく難しかったと思う。

 その辺のことも、詳しく訊きたかったのだけど、

「直接、本人に訊いてみたらいいわ。覚えているはずだから」

 とタラソワは言った。去年の話だ。

 

 新型コロナウイルスの蔓延がなければ、私は、今年もロシアへ出かけるはずだった。タフな国だが、私はロシアが好きだ。

 コロナが収束したら、また訪れるつもりだ。ぜんぜん諦めていない。話の続きも、またできるだろう。

 さて、アイスダンスの話をする。

 タチアナ・タラソワは、こんなふうに言っていた。

「日本ではアイスダンスはメジャーではありません。だけど、国別対抗のチーム戦があるので必要です。

 日本スケート連盟は、きちんと力を注ぐべきだと思います。中国はもう始めていますよ。目立ち始めています。

 日本にも、それを根付かせる土壌は十分にあるはずです。

 ジャンプを跳ばない、スケーティングがきれいで、スピンを回れる、のっぽの男の子たちがいるのだから」

 このとき、彼女が髙橋大輔を念頭に話をしていたとは思わない。日本のこれからに必要な提言をした。それだけのことだったと思う。

 だが、その提言は叶えられるかも知れない。髙橋のアイスダンス転向は、日本にとって願ってもない幸いであろう。

 2020年11月、グランプリシリーズNHK杯で彼はデビューする。パートナーは、村元哉中である。

 アイスダンスが、長い時間を重ね仕上げてゆく競技なのを思えば、過剰な期待はできない。彼らは、挑戦者だ。

 それを承知で言う。髙橋大輔、村元哉中組は、日本のアイスダンスを変えるエネルギーを持つ。

 さらに、言う。髙橋の集める人気こそが、今の日本のアイスダンスに必要なのだ。大きな注目が新しい「土壌」を作る。

 この機を逃してはならないと思う。是が非でも、注力していかなければならない。日本は必ず、強くなれる。アイスダンスでも、ペアでもだ。

 

 髙橋大輔は30代半ばにさしかかろうとしている。ピークの短いフィギュアスケートにあって、その歩みは貴重だ。

 彼は「格好が悪い」のが嫌いだから、きっと素敵に魅せてくれるだろう。NHK杯は、もうすぐ始まる。

 

 

 

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宇都宮直子 スケートを語る

ノンフィクション作家、エッセイストの宇都宮直子が、フィギュアスケートにまつわる様々な問題を取材する。

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プロフィール

宇都宮直子
ノンフィクション作家、エッセイスト。医療、人物、教育、スポーツ、ペットと人間の関わりなど、幅広いジャンルで活動。フィギュアスケートの取材・執筆は20年以上におよび、スポーツ誌、文芸誌などでルポルタージュ、エッセイを発表している。著書に『人間らしい死を迎えるために』『ペットと日本人』『別れの何が悲しいのですかと、三國連太郎は言った』『羽生結弦が生まれるまで 日本男子フィギュアスケート挑戦の歴史』『スケートは人生だ!』『三國連太郎、彷徨う魂へ』ほか多数。2020年1月に『羽生結弦を生んだ男 都築章一郎の道程』を、また2022年12月には『アイスダンスを踊る』(ともに集英社新書)を刊行。
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