徳光和夫の昭和プロレス夜話 第4夜

馬場夫妻の知られざる恋愛感動秘話

徳光和夫

「それと、あの入場シーンにはもうひとつ、衝撃的なことがありましてね」

 どのような?

「今も言いましたように、馬場さんは軽やかにトップロープをまたいだんです。それは自分の体の大きさをアピールすることにも繋がるわけですよね」

 ええ。

「実際に対戦する外国人レスラーも、馬場さんがトップロープをまたいでリングインしたときに、驚いた様子のジェスチャーをしたんです。おいおい、ウソだろ、日本人レスラーに、こんな巨人のような男がいたのか、と。同時にお客さんも驚く。こいつ、デカイな、外国人よりガタイがいいじゃねえか、と。それまでの日本のプロレスを実況風に説明すると“五尺七寸五分の力道山が六尺四寸のマイク・シャープをハンマー投げで攻め立てております”ということになります。いわば日本のこじんまりとした男がアメリカの大男をなぎ倒すところに初期のプロレスの醍醐味、面白さがあった。しかし、馬場さんの入場シーンから日本のプロレスの風景が一気にガラッと変わったように思うんです。間違いなく馬場さんがこじ開けましたね、近代日本のプロレスの扉を」

 日本プロレス界の一大転換ポイントだったわけですね、馬場さんの帰国第1戦の入場シーンは。

「そういうことになりますね。なにせ東洋が誇る世界の大巨人ですから。そうだ、おかしかったのは当時ね、馬場さんに注意されたんですよ」

 何を?

「身長のこと(笑)。私もキャリアを積み、自然と馬場さんの試合の実況を担当するようになったのですが、その際に“さあ、2メートル9センチ、140キロ、世界のジャイアント馬場、入場であります”と言ったら、試合後に馬場さんから“徳さん、俺、2メートル6センチだよ”と訂正されて。それも照れ臭そうに言うんです」

 あはははは。

「笑っちゃうでしょ。何もかもスケールの大きかった世界の馬場さんが、たった3センチにこだわっていたという(笑)」

 馬場さんの体の大きさで思い出したのですが。

「ええ」

 1997年に馬場さんにインタビューした際、“あんたに聞くが、レスラーがリング上で注意を払わなければいけないことは何だと思う?”と逆質問されまして。

「ほぉ」

 僕はレスラーじゃないので、わかりませんって素直に言ったんです。

「答えは何だったの?」

 聞けば、納得できる答えだったんですけど、要するに“試合開始のゴングが鳴ったら、すぐにリング中央のポジションを取り、そこから動いてはダメだ。その周りを対戦相手がグルグル回るような試合展開にしなければ自分の強さが観客に伝わらない。鶴田や天龍や若手にも口酸っぱく教えているんだが、なかなかうまくできとらん。まだまだガチャガチャ動いとる”って、ご立腹でした。

身長の数字は3cm小さく言うように求めたが、リング上では“格”を大きく見せることを意識していたジャイアント馬場。写真は1969年3月5日、インターナショナル選手権でのデストロイヤー戦。写真/宮本厚二

 

「それはつまり――」

 自分が中心にいて、相手がその周りをグルグル回る。この構図は観客からすると俺のほうが格上に見える、強そうに見える。プロレスにおいては、この格上だってことを見る側に植え付ける作業が大事なんだと力説されていました。なぜなら“観客の中には初めてプロレスを観戦する人もいる。そういう人たちにも、一目でどっちが強そうかわからせるのもレスラーとして必要な作業なんだ”って教えてくれたんです。“結局、自分は動かず、相手が勝手に周りをクルクル回り出すと、俺が相手をリング上でコントロールしているようにも見える。それも大切なプロレスの“格”なんだよ”と。

「はいはい、そうでしたね、相手より格上に見せなきゃいけないってことを、馬場さんはよくおっしゃっていましたよね」

 たぶん、そのスタイルが全日本プロレスの掲げていた『王道プロレス』の正体なのではないでしょうか。

「そうだと思います。逆に、猪木さんの新日本プロレスは“格”を意識せず、自ら動き回るプロレスを確立させましたもんね」

 長州力さんに代表される、いわゆるハイスパート・レスリングですね。

「ええ、ええ」

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プロフィール

徳光和夫

1941年、東京都生まれ。立教大学卒業後、1963年に日本テレビ入社。熱狂的な長嶋茂雄ファンのためプロ野球中継を希望するも叶わず、プロレス担当に。この時に、当時、日本プロレスのエースだった馬場・猪木と親交を持つ。

 

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