韓国カルチャー 隣人の素顔と現在 第3回

実は大人たちの成長物語 ?ドラマ『マイ・ディア・ミスター~私のおじさん~』

私の大好きな韓国人、後渓洞の人たち
伊東順子

5,月の街

 

 映画『パラサイト』がアカデミー賞を受賞したときに、多くの人たちは映画に登場する「階段」や「上下移動」について語っていた。ポン・ジュノ監督の演出が称賛されることに異論はないが、そもそもソウルとは坂や階段の多い街なのである。ドラマ『私のおじさん』でも階段は何度も登場する。そして漢江を渡るシーンが南北問題を象徴するなら、やはり階段は階層の上下問題をストレートに表している。同じ町内にありながら「高いところ」、サントンネに住む人たちがいる。

 サントンネの起源は朝鮮戦争と南北分断による避難民の発生が大きく関係している。北朝鮮軍の侵攻によって多くの避難民が押し寄せた釜山はもちろんのこと、戦場となったソウルでも戦後の住宅不足は深刻であり、人々は山の上にまでもバラックを建てたのである。

 サントンネはタルトンネとも呼ばれる。月は韓国語でタル。月にもっとも近い街だからだ。

 

 第1話にとても印象的なシーンがある。入居費滞納を責め立てられたジアンは、寝たきりの祖母を老人施設からベッドのまま連れ出す。家に向かう途中でジアンと祖母は、大きな月を見る。

 あのシーンはどこで撮影したのだろう? 

 月の街だろうか?

 龍山区にある踏切と麻浦区にあるドンフンの実家は、ソウルの都心にある貴重なロケ地だが、かつて麻浦区にも広大なタルトンネがあった。孔徳洞ロータリーの東南側からガーデンホテルの裏に続く丘、今はサムスンの高層マンションが立ち並ぶ、ソウル市の中心部でもっとも不動産価格の高いエリアの一つである。

 ソウル市中心部から汝矣島に行くとき、左手に見えたあの広大なタルトンネの風景を覚えている人は40代以上だろうか。90年代半ばまで、タルトンネはソウル市内のあちこちにあった。そのせいか、今ほど貧困エリアという印象はなかった。人間味のある街だと、旅の途中でそこを訪れる外国人も多かった。

 

 月のシーンの撮影場所は、調べてみたら「駱山公園」だということがわかった。駱山は小劇場の街として知られる大学路の東にある小高い山だ。駱駝の形をしていることから駱山。稜線は李朝時代から城壁として利用されており、また2000年代になってから一帯が公園として整備された。4号線の恵化駅から簡単にアクセスできる。

 その城壁の下にも広大なタルトンネが広がっていた。一部は現在も残っているが、韓国政府とソウル市による環境美化アート事業で、一時期は観光名所のようにもなっていた「梨花洞壁画の街」がそれだ。韓国ガイドブックなどでも紹介されおり、日本から来た観光客もひんぱんに訪れていた。

 実は、ドラマで二人が月を見た場所から左手方向に少し行くと、東大門近くには今も貧困エリアが残っている。そこが撮影場所にならなかったのは、本当によかったと思う。環境美化アートの時にも問題になっていたが、そうした地域に社会的関心が注がれることは重要だとしても、観光名所のようになってしまっては意味がないからだ。

 

 この月のシーンを寓話的なものにしているのは、祖母をショッピングカートに乗せてしまうという奇抜なアイディアもさることながら、祖母役のソン・スクの力だろう。カートの中で赤ん坊のようにおくるみに包まれた老女は静かに微笑む。大女優の美しい笑顔は、無音の語り部だ。その笑顔を何度も見たくなる。そして希望は叶えられる。第5話はこの月の光の中で、祖母は魔法使いになるのだ。そこからドラマの色合いが一気に変わる。

 東アジアで月はとても重要な意味をもつ。なかでも韓国は今も陰暦カレンダーが生きている国で、たとえば陰暦8月15日の秋夕(中秋)と1月1日の旧正月には、家族が集まって先祖を祀る行事や食事などをする。日本の盆や正月と同じく帰省ラッシュとなる。

 ドラマの中でジョンヒがジアンに「1年に2回会いましょう」と言うのは、この日のことだ。帰る家や故郷をもたないジアンへの思いやり、もちろんジョンヒ自身にとっても、それはとても大きな楽しみになるだろう。人々は互いを必要とする時がある。

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プロフィール

伊東順子

ライター、編集・翻訳業。愛知県生まれ。1990年に渡韓。ソウルで企画・翻訳オフィスを運営。2017年に同人雑誌『中くらいの友だち――韓くに手帖』」(皓星社)を創刊。著書に『ピビンバの国の女性たち』(講談社文庫)、『もう日本を気にしなくなった韓国人』(洋泉社新書y)、『韓国 現地からの報告――セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書)等。『韓国カルチャー 隣人の素顔と現在』(集英社新書)好評発売中。

 

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