「被ばく者」は本当に救われたのか 続・「黒い雨」訴訟 第3回

長崎「被爆体験者」の何重もの苦しみ 広島との分断を読み解く

小山 美砂(こやま みさ)

 被ばくを強いられた原爆被害者は、本当に救われたのか。

 この問題意識から広島・長崎の現状を報告する本連載では、広島の「黒い雨被爆者」による新たな闘いを取り上げてきた。原爆投下後に降った「黒い雨」を巡る新しい被爆者認定制度が2022年4月に始まったが、その下でも切り捨てられる人がいたのだ。

 第3回は、現場を長崎に移したい。救済対象が拡大した広島と切り離され、援護の外に置かれている人がいるからだ。その「切り捨て」の論理は、広島と長崎で共通する。被爆地を「分断」するものは、一体何なのか。

「差別そのもの。分断そのもの」

「なぜ広島と一緒にできないのか。差別じゃないのか。

 人間は、正義と真実を求めて生きている。この不合理を、ぜひ解明して頂きたい。私は、真実を頂きたいんです」

 裁判所の証言台で椅子に腰かけたその女性は、背が大きく曲がっていてより小柄に見えた。それでも、彼女の声は法廷にはっきりと響き渡り、傍聴席からの拍手を誘った。女性は、長崎市に住む「被爆体験者」の岩永千代子さん(87)だ。

 2023年1月、長崎地裁。被爆体験者を「被爆者」と認めるよう国などを訴えた裁判の、原告本人尋問が開かれていた。証言に立った岩永さんら4人は、「私たちも内部被ばくをした」「どうして広島と長崎を差別するのか」などと、次々に語った。

 広島との差別――それは、広島の「黒い雨」訴訟の勝訴が確定し、救済対象を拡大する新しい制度が始まったものの、長崎はその対象とならなかった事実を指していた。

 2021年7月に確定した広島高裁判決は、爆心地から約30km離れた場所にいた人にも被爆者健康手帳を交付するよう、国に命じた。雨に遭ったことによる内部被ばくの影響を考慮したためで、新制度もこの判断に沿った内容だ。

 しかし、長崎には適用されなかった。岩永さんたち被爆体験者は、今も「被爆者」に認められていない。爆心地からの距離はたったの半径12km圏内にも関わらず、だ。長崎は広島と切り離され、大きな格差が生まれている。

 岩永さんが続ける。

「差別そのもの。分断そのもの。悲しいことで、あってはならないと思います」

「サツマイモの葉に灰がついていた」

広島との「分断」について批判する、被爆体験者の岩永千代子さん=2022年12月15日、長崎市内で筆者撮影

 1945年8月9日、当時9歳だった岩永さんは、爆心地から南に約10.5km離れた西彼杵郡(にしそのぎぐん)深堀村(当時)にいた。

 その日朝から、岩永さんは自宅近くの畑に出ていた。姉と一緒に、母の農作業を手伝うためだった。空は、真っ青に晴れていた。午前11時前、自宅へ戻る道中に、2人の兵士に出くわした。そのうちの1人が頭上を指さし、「あれは日本のじゃないな」と言った。飛び去る飛行機を見ようと上を向いた瞬間、正面から光と爆風が襲ってきた。「やられた!」。瞬間的に、「死んだ」と錯覚するくらいの衝撃だった。近くの暗きょへ逃げ込んでやり過ごしたが、夜には長崎市中心部がもうもうと燃え、真っ黒い煙が上がる様を見たという。

 岩永さん自身は、「黒い雨」や灰を浴びた記憶はない。しかし、近所には「雨が降った」という人や、「サツマイモの葉に灰がついていた」と話す人がいたそうだ。さらに、当時その集落に水道設備はなく、フタがない井戸の水を汲んで飲み、岩場や川の水を生活用水にしていた。

 岩永さんは原爆投下から1週間後くらいに髪が抜け、歯ぐきから血が出るようになった。また、これまでに狭心症や腹膜炎、白内障などを患い、今は10種類の薬を飲んでいる。近頃は手の痛みとしびれがひどく、夜は2時間続けて眠れると良い方だ。

 本人尋問で岩永さんは、「原爆の影響がないとは言えないと思う。それが怖い」と、手をさすりながら話していた。

許せない「地図の不合理」

 だが、岩永さんがいた地点は、「被爆者」としての援護を否定され続けている。長崎の援護対象区域を記した下図を参照してほしい。

長崎市の「被爆地域図」(https://www.city.nagasaki.lg.jp/heiwa/3010000/3010100/p002221.html)及び厚生労働省健康局総務課原子爆弾被爆者援護対策室の資料(https://www.mhlw.go.jp/content/10901000/02_shiryou2.pdf)をもとに作成。図版作成/MOTHER

 桃色(被爆地域)と青色(第一種健康診断特例区域)のエリアが、原爆投下当時その場にいたことが証明できれば「被爆者」に認められる地域だ。爆心地から南北に最大約12㎞、東西には約7kmに広がっている。両エリアは制度に違いはあるものの、基準を満たせば手帳が交付されて医療費の自己負担分が無料になり、各種手当を受けることができる。原爆放射線の健康影響がいつ現れるかわからないからこそ、国の責任で講じられている援護措置だ。

 他方、黄色のエリア(第二種健康診断特例区域)にいた人たちは、被爆者と区別して「被爆体験者」と呼ばれている。ここは桃・青色のエリアと比べて、決定的な違いがある。国が「放射能の影響なし」と断じ、精神上の健康悪化しか認めていないのだ。住民が訴える健康被害は原爆によるトラウマによるものだとして、医療費の助成を精神疾患とそれに伴う合併症に限定してきた。対象も県内在住者だけだった。

 この4月からは、胃がんなど7種のがんに対して医療費が助成されるようになったが、精神疾患に伴う合併症とがんとの関連を調べるための「調査研究」との位置づけだ。助成もその対価として支払われるもので、「被爆者」認定を求める被爆体験者の願いからは程遠い。

 この地域にいた住民たちは2007年、被爆体験者訴訟を起こし、国と長崎県・市に手帳を交付するよう求めている。17年に最高裁で敗訴したものの、一部の原告が再度提訴し、この新たな裁判が長崎地裁で係争中だ。

 16年にわたって裁判を続ける岩永さんがいた深堀村も、この黄色のエリア内にある。許せないのは、「地図の不合理」だ。

 前述の通り、被爆者に認定される爆心地からの距離は、南北に最大で約12㎞だ。この理由は、衆議院予算委(1978年2月)の答弁で、「大体行政区画で指定をしたために上下に長くえらい指定をしまして」と説明されている。東西は、12㎞より爆心地に近い地域であっても被爆者に認められないという「不合理」が生じている。

 係争中の訴訟で原告側は、地域を限定したことに根拠はなく、「著しい不平等を招いている」と主張。その上で、「外部被曝あるいは内部被曝による危険性の大きさを考えると、爆心地から12㎞は当然に指定すべき」と指摘している。

 南北は、広い範囲が援護対象に指定されている。ならば、あえて12㎞圏内全域を認めず縦長に絞った合理的な根拠を、国には示してもらいたいところだ。これについて国側は、「住民の健康調査結果等」を根拠に挙げるが、原告側は「調査方法が不明で」「有効な統計資料とは言い難い」と反論しており、重要な争点の1つとなっている。

「長崎に降ったものと成分が違うの?」

原告本人尋問に先立ち、長崎地裁前で集会をする被爆体験者訴訟の原告ら。中央は岩永さん=2023年1月16日、長崎市内で筆者撮影

 精神疾患に限定された援護措置と、地図の不合理に抗う被爆体験者たち。彼らにとっても、広島の「黒い雨」訴訟は転機になると思われた。岩永さんは、広島高裁で原告側が全面勝訴した時のことを振り返る。

「内部被ばくを明らかにしてくれたと思いましたよ。雨に打たれようが打たれまいが、被爆者だと判断してくれた。だから、私たちも当然認められると思ったんです」

 改めて説明しておくと、この訴訟では従来の援護対象区域の外側で雨に遭ったと訴える原告全員を「被爆者」に認める判決が、一審、二審とも下された。原告がいた範囲は爆心地から8.5~29.5kmと、被爆体験者よりもさらに遠い。それでも、「空気中に滞留する放射性微粒子を吸引したり、地上に到達した放射性微粒子が付着した野菜を摂取したりして」、内部被ばくした可能性があると判断されたのだ。岩永さんのように直接雨は浴びていなくても、被爆者だと認められた原告もいた。

 この判決確定を受け、広島では救済対象が拡大。約30㎞離れた場所でも雨に遭ったことが確認できれば被爆者として認めるという、新制度が策定されたのだった。

 しかし、新制度の適用は広島に限定された。長崎は最高裁で敗訴していることに加えて、「黒い雨が降ったことを示す客観的資料がない」とされ、協議継続となった。

 岩永さんが証人尋問で述べた通り、長崎にも雨や灰の証言がある。証人尋問では他の3人が、「灰や燃えかすが降り、雪のように積もっていた」「雨がパラパラと降り、畑の作物にも灰が積もった」などと当時の状況を述べた。

 さらに、長崎県も専門家会議を設置し、2022年7月に報告書をまとめた。被爆地域の外側でも雨が降ったと指摘したが、これも国は突っぱねている。

 筆者が「広島の『黒い雨』訴訟を取材してきました」と自己紹介した時、岩永さんは身を乗り出してこう言った。

「私ね、広島の黒い雨のことが知りたいの。長崎に降ったものと成分が違うの? そうじゃないでしょう。雨も灰も空中にも、全部に放射能があったんじゃないか、って言いたい」

「黒い雨被爆者」を切り捨てるための論理

被爆体験者が描いた絵。灰が浮いた水槽の水を汲み、生活に使っていた様子を伝えている=2022年12月15日、長崎市内で筆者撮影

 なぜ長崎の被爆体験者たちは、なおも援護を否定され続けるのか。

 原告側弁護団の三宅敬英弁護士は、こう考えている。

「国は広島で負けてもなお、『内部被ばくの影響を認めたわけじゃない』との立場を崩していません」

 被爆体験者訴訟における国側の主張を見ていると、広島の「黒い雨」訴訟で展開された内容と同質のものが多く登場する。

「広島・長崎の原爆は空中核爆発であり、(中略)降り注いだ放射性降下物は極めて少なかった」

「内部被曝による健康影響は、同じ線量(シーベルト)で比較した場合に外部被曝による健康影響と同等ないしそれ以下」

「100ミリシーベルトを下回るような放射線に被曝した場合については、それによって健康被害が発症し得るか否かも定かでなく、そもそも人体に何ら健康影響を与えない可能性も十分あり得ると考えられている」

 広島の「黒い雨被爆者」を切り捨てるために使われた論理が、長崎の被爆体験者に向けても用いられていた。

 国の立場は、確かに一貫している。広島高裁判決の上告を見送る際に閣議決定した菅義偉首相(当時)による談話でも、判決は「本来であれば受け入れ難い」とした上で、「『黒い雨』や飲食物の摂取による内部被曝の健康影響を、科学的な線量推計によらず、広く認めるべきとした点については、これまでの被爆者援護制度の考え方と相容れないものであり、政府としては容認できるものではありません」と、表明していた。

 2023年2月の国会答弁においても、改めてこの立場を強調している。「長崎の被爆体験者も救済すべきではないか」との問いかけに対して加藤勝信厚生労働大臣は、「空気中や飲食物に含まれる放射性微粒子を体内に取り込んだ、こうしたことは(援護する対象として)容認できるものではない」と答えていた。

2つの被爆地で続く闘い

 本連載の第1回第2回で紹介してきたように、今なお切り捨てられている人が広島にもいる。黒い雨被爆者たちの闘いは、内部被ばくによる健康影響を国に認めさせるという目的があった。その先に、自分たちだけではなく長崎や福島、そして世界中の核による被害者の救済につなげたいという思いがあったからだ。

 その願いは、本当に果たされたのか? 現状を見ると、疑問を抱かざるを得ない。

 国自らが上告を見送って確定させた広島高裁判決に沿うならば、長崎と広島で同じ結論が導かれなければならないはずだ。被爆体験者訴訟では、6月に専門家による証人尋問が予定されており、重要局面を迎えている。

 三宅弁護士は言う。

「広島と同じく、長崎の被爆体験者も被ばくする可能性があった。その状況に変わりはない。広島に続いて長崎を救済し、福島につなげたいと思っているんです」

 歪な地図、被ばくを否定する援護措置、そして広島との差別。何重もの苦しみが、長崎の被爆体験者にのしかかる。国は、従来の被爆者援護の考え方を見直した訳ではない。首相談話、国会答弁、そして訴訟における国側の主張からも明らかなように、被ばくを切り捨てる論理は今なお維持されているのだ。2つの被爆地で続く闘いを、見捨ててはならない理由がここにある。

 次回も、長崎に降った「黒い雨」に焦点を当てる。広島での勝訴確定に背中を押されて、ある調査を始めた男性の思いをお伝えする。

(次回は5月17日公開予定)

 第2回
第4回  
「被ばく者」は本当に救われたのか 続・「黒い雨」訴訟

広島への原爆投下後に降った「黒い雨」を巡る新しい被爆者認定制度の開始から、この4月で1年が過ぎた。被害を訴え続けてきた「黒い雨被爆者」たちは終戦から75年以上を経て、ようやく救済されたのだった。 しかし、闘いに終止符は打たれなかった。 新しい制度の下でも、切り捨てられた人がいたのだ。今、「新たな分断」が現実のものとなっている。 「『黒い雨』訴訟」は、被ばくを強いられた原爆被害者を本当に救ったのか。ジャーナリストの小山美砂が、広島・長崎の現場を報告する。

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「黒い雨」訴訟

プロフィール

小山 美砂(こやま みさ)

ジャーナリスト

1994年生まれ。2017年、毎日新聞に入社し、希望した広島支局へ配属。被爆者や原発関連訴訟の他、2019年以降は原爆投下後に降った「黒い雨」に関する取材に注力した。2022年7月、「黒い雨被爆者」が切り捨てられてきた戦後を記録したノンフィクション『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を刊行し、優れたジャーナリズム作品を顕彰する第66回JCJ賞を受賞した。大阪社会部を経て、2023年からフリー。広島を拠点に、原爆被害の取材を続けている。

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