被爆地・広島でまもなく始まるG7サミットでは、核軍縮が主要な議題の1つになる見通しだ。78年前に投下された原爆は、どんな被害をもたらしたのだろうか。改めて問う機会にしたい。
本連載では、広島・長崎で今なお援護を否定されている原爆被害者について報告している。第4回は、前回に引き続いて長崎が舞台だ。広島の「黒い雨」訴訟を受けて、新たな取り組みを始めた男性の話から始めたい。まだ「隠された原爆被害」があると言うのだ。
「俺もね、灰をかぶったんだ」
海の先にうっすらと山の影が見える。長崎市中心部から東南へ、車を約20分走らせて着く茂木港にいた。東方を望むと、橘湾の向こうに島原半島がある。
はるか対岸を眺めながら、山本誠一さん(87)が言った。
「いまさら、という風に思われるかも知れません。でも、まだまだ原爆当時のことがわからないんですね。放射線はこの海の向こうにも流れていった。広島では30㎞先の被ばくが認められた今、長崎もちゃんと実相を調べないといけないんです」
島原半島は、爆心地から約30㎞離れている。中央部には雲仙岳と呼ばれる火山群があり、江戸時代にはキリシタンが「島原の乱」を蜂起した場所だ。
そこにも、「黒い雨」が降ったらしい。
後述するが、終戦後の調査において島原半島を含む広域で残留放射線が検出されていた。だが、雨や灰といった降下物に着目した証言の掘り起こしは、これまで実施されてこなかった。
山本さんは2021年7月以降、証言を集め始めた。きっかけはその夏に勝訴、確定した広島の「黒い雨」訴訟だ。この裁判では当事者の証言が重要な根拠の1つとなり、爆心地から約30㎞離れた地点で雨を浴びた人も「被爆者」として認められたからだった。
前回お伝えしたように、長崎の「被爆体験者」たちは「広島との差別」に憤り、是正を求めている。爆心地の半径12㎞圏内にいたにも関わらず、「被爆者」としての援護を否定されているのだ。
山本さんも被爆体験者の1人として、援護対象の拡大を求めてきた。だが、自分たちの視野は狭すぎたのではないか――真相を明らかにし全ての被害者を救済するためにも、新たな調査に踏み出したのだった。
「山本くん。俺もね、灰をかぶったんだ」
老人ホームで暮らす旧友から山本さんに電話があったのは、広島高裁判決の後だった。原爆投下当時、島原半島に疎開していた五島久嗣さんだ。
広島高裁判決とは前述した通り、「黒い雨」訴訟の二審判決(2021年7月確定)を指す。広島への原爆投下後に降った「黒い雨」を浴びた住民たちが、被爆者健康手帳の交付を求めて国などを訴えたものだ。住民たちが雨を浴びた場所は国の援護対象区域外で、爆心地からの距離は約8.5~29.5㎞と相当な遠距離にいた。だが判決は、水や畑の作物を通して内部被ばくした可能性を指摘し、「被爆者」として認めたのだった。
ニュースを見た五島さんの脳裏にあの日の記憶がよみがえり、思わず電話を取った。山本さんとは50年来の友人であるにも関わらず、体験を打ち明けるのは初めてだった。
1945年8月9日、当時9歳だった五島さんは、爆心地から東に約35㎞離れた旧北有馬村(南島原市)にいた。「パーン」と裏山に爆弾が落ちたような音が聞こえ、驚いて外に飛び出したものの何も起こらない。だがしばらくすると、白と黒のススが混じった燃えかすが空からどんどん降ってきた。不思議に思い、兄と一緒に1時間近くかぶっていた覚えがある。
兄は、29歳の時に腸閉塞で亡くなった。五島さんも脳梗塞や心筋梗塞、さらに胃がんを患っていた。しかし、兄とともにかぶった灰が放射線に汚染されていようとは、考えたこともなかった。75年以上も経ってから、「死の灰」だったのではと思うのだった。
「もう、半世紀も付き合ってるんですよ。なのに、そんな体験は聞いたことがなかったんです。友人でも原爆のことは語らない。人には語れないんですよ。でも、その口を開かせたのが『黒い雨』訴訟だった」
友の告白に、山本さんは衝撃を受けた。そして、まだ語られていない記憶があるのではと気がせいた。
俺もね、灰をかぶったんだ――その証言を遺して、五島さんは2022年8月末に亡くなった。
爆心地からの同心円が持つ罪
「12㎞の円にとらわれてきたんです。その外側の被害に、考えが及んでいなかった」
そう自戒を込めて言う山本さんは原爆投下当時、爆心地の南東に約8.5㎞離れた旧茂木町(長崎市)にいた。当時10歳で、米軍機に投げつけるための石を友人のタカノ君とともに拾っていたところだった。ブーン、と飛行機が飛び去る音が聞こえた直後、閃光に包まれ、大地がグラグラと揺れた。気が付くと、うつ伏せで倒れていたという。
目が覚めても、タカノ君の姿は見当たらなかった。後に聞いたことだが、姉に抱きかかえられて家の押し入れへ逃げ込んだらしい。だが、その後もタカノ君と再会することはできなかった。たった9歳だった少年は、下痢に苦しんだ末、60日後に旅立ったのだ。「次は俺の番じゃないか」。山本さんは、恐怖に襲われた。下痢が放射線による急性障害の一種だと知るのは、ずっと後だ。
しかし、山本さんがいた地域は被爆者としての援護が否定されている。詳細は前回記事を参照してもらいたいが、長崎で被爆者に認定される地域は、爆心地から南北に最大約12㎞、東西には約7kmの範囲(下図の桃色と青色のエリア)だ。外側にある黄色のエリアが山本さんをはじめとする「被爆体験者」がいた地域とされているが、「放射能の影響なし」とされ、限定的な施策しか講じられていない。
同じ半径12㎞圏内で、援護に格差が生まれていた。山本さんは2001年、各地で運動を続けてきた16人を集めて長崎市に要請活動を行い、その後「長崎被爆地域拡大協議会」を結成。正円の中にいた全ての人を「被爆者」として救済せよ、との運動を広げていった。
だが、山本さんは悔しそうに話す。
「格差をただすために、調査も運動もこの中に狭められてきた。この同心円が持つ罪も大きいんです」
長崎総合科学大学名誉教授の大矢正人さんによると、半径12㎞圏外で、黒い雨や灰に着目した証言調査は実施されていない。被爆者団体がまとめた体験集はあるが、遠距離での被ばくに焦点を当てたものは確認できていないという。長崎市などが1999年度に実施した証言調査も、半径12㎞以内に居住していた住民が対象だった。
大矢さんは言う。
「半径12㎞圏内の格差是正が主眼にあったことに加え、長崎には残留放射線のデータがあった。証言を取ることがかえっておろそかになったのではないでしょうか」
長崎には、広範囲に放射線が及んでいたことを示唆するデータが残っている。米軍のマンハッタン管区原爆調査団(1945年9~10月)と、理化学研究所(同年12月~1946年1月)がそれぞれ実施した調査では、島原半島を含む広域で残留放射線が検出されていた。理研の調査では、長崎市付近の一部よりも高い値が島原半島東端で確認されており、報告書は「原子爆弾による影響は有明海を越えて遠く熊本までも伸びていると想像される」と指摘している。
「原爆の影響がどこまで及んだのか。その範囲を証言によって確定していきたい」と、大矢さんは話す。山本さんと共に半径12㎞の外側へ足を運び、島原半島や諫早市で「灰を拾った」などの証言を聞いた。
後にノーベル化学賞を受賞した下村脩さんの著書『クラゲに学ぶ ノーベル賞への道』(長崎文献社)の中にも、当時の雨に関する詳しい記述を見つけた。下村さんは爆心地から東に約20㎞離れた諌早市にあった母の実家に疎開しており、「晴れていた空はたちまち暗雲に覆われはじめ、私が午後5時に帰宅する時にはしとしとと雨が降り出した。それは黒い雨であって、私が1時間後に家に着いた時には白いシャツが黒く染まっていた」と書き記していた。
終戦直後のデータと、生の証言。県の郊外にも被ばくがもたらされた可能性が、浮かび上がってこないだろうか。
「水平原子雲」が流れたゆくえ
雨や灰以外に、山本さんたちが聞き取った証言で注目したいものがある。それは、雲に関するものだ。
「西の方から原子雲が流れてきました。雲の見え方はきのこ雲の形ではなく、ちりやほこりをまとった雲が風に乗って次つぎ流れてきました」
「正午以降、西の方角から真っ黒な雲が一斉に広がってきました」
「田んぼにいた人は『きのこ雲がおりてきて恐ろしく、家に戻ってきた』と話していました」
原爆さく裂後、島原半島がある東方に原子雲が流れたことがわかる内容だ。
雲は、広島の「黒い雨」訴訟においても重要なカギを握っていた。
広島高裁判決(2021年7月)に、こう書かれてある。
「黒い雨は、毎時約10ないし11㎞の速度で北北西に移動する半径約18㎞の水平原子雲によって、広島原爆投下後1ないし2時間後に盛んに降ったものである」
被ばくが及んだ範囲を推定する材料の1つとして、「水平原子雲」が挙げられていた。
聞きなれない言葉だが、「水平原子雲」とは何だろうか? 提唱しているのは、琉球大学名誉教授の矢ヶ﨑克馬さんだ。
下の写真を参照してほしい。
原爆さく裂後、爆心地の北方面を飛行するB-29から撮影された写真だ。
立ち上がる「キノコ雲」の「軸」を取り囲むように、ドーナツ状に広がる雲がある。これが、「水平原子雲」だという。
矢ヶ﨑さんが「黒い雨」訴訟で提出した意見書などによると、爆発後にできた超高温の空気のかたまりが上昇し、「キノコ雲」ができた。その頭部は、温度が高く浮力が大きいため上昇を続ける。一方、キノコの「軸」の外縁は、地表に吹く風から高層風に切り替わる高度で浮力を失ってしまう。当時、高層には地表風よりもあたたかい西風が吹いており、「軸」と大気との温度差が小さくなるからだ。
「軸」の外周部分にある雲は天井に頭を打ったように水平に押し出され、同心円状に広がっていく。米軍が撮影した写真や動画から、広島でできた水平原子雲の半径は約18㎞だと推定。風に流されて、北北西に11㎞ほど移動したと予測した。
「水平原子雲には、大量の放射性微粒子が含まれていました。微粒子は雨となって降下した他、単体でも地上に降下しました。雲の下は、放射線に汚染された環境になっていたと考えられます」と矢ヶ崎さんは言う。
高裁判決は、矢ヶ﨑さんの意見書を「相応の科学的根拠に基づく有力な仮説の一つ」だと認定。その上で、原告らは「たとえ黒い雨に打たれていなくても、空気中に滞留する放射性微粒子を吸引」するなどして内部被ばくした可能性があったと判断したのだった。
水平原子雲ができるメカニズムは、長崎でも同じだ。だが、矢ヶ﨑さんは「広島よりも大きな水平原子雲ができた可能性がある」と指摘する。島原半島の温泉岳測候所が作成したスケッチをもとに、半径19㎞程度に広がっていたと推計している。
「水平原子雲自体が島原半島へ流れている。被ばくがあり得た範囲は、半径12㎞圏内に限定できないと思います」
「黒い雨」訴訟を機に、長崎でもより広範に原爆被害が捉えられるようになってきた。
被ばくはどこまで及んだのか? 真相を明らかにする試みは、核被害に「終わり」がないことを示しているだろう。
被爆体験者として訴え続ける、山本さんの言葉が耳に残る。
「原爆のことは、調べ尽くされていると思うでしょう。そうではない。原爆被害は、まだ隠されているんです」
これは長崎に限られた、ローカルな問題だろうか。山本さんは、人類として向き合った先に《核なき世界》があると信じている。
最終回となる次回は、長崎と広島、両方の原爆被害者救済に携わる弁護士に、本質的な課題と解決への手立てを聞く。
(※5/18 AM10:50 修正更新)
(次回は5月31日公開予定)
広島への原爆投下後に降った「黒い雨」を巡る新しい被爆者認定制度の開始から、この4月で1年が過ぎた。被害を訴え続けてきた「黒い雨被爆者」たちは終戦から75年以上を経て、ようやく救済されたのだった。 しかし、闘いに終止符は打たれなかった。 新しい制度の下でも、切り捨てられた人がいたのだ。今、「新たな分断」が現実のものとなっている。 「『黒い雨』訴訟」は、被ばくを強いられた原爆被害者を本当に救ったのか。ジャーナリストの小山美砂が、広島・長崎の現場を報告する。
プロフィール
ジャーナリスト
1994年生まれ。2017年、毎日新聞に入社し、希望した広島支局へ配属。被爆者や原発関連訴訟の他、2019年以降は原爆投下後に降った「黒い雨」に関する取材に注力した。2022年7月、「黒い雨被爆者」が切り捨てられてきた戦後を記録したノンフィクション『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を刊行し、優れたジャーナリズム作品を顕彰する第66回JCJ賞を受賞した。大阪社会部を経て、2023年からフリー。広島を拠点に、原爆被害の取材を続けている。