ぼくらが話さなかったこと 坂本龍一への旅 vol.1

こうしてぼくらは出会った

平井 玄(ひらい・げん)

2023年3月28日、一人の音楽家が世を去った。
坂本龍一、71歳。
彼は誰なのだろう?
世界のサカモト。リベラル左派の聖人。テクノ音楽機械。それとも高学歴コメディアンのはしり? 
つまるところ「教授」なのか。
 
1968年の夏、新宿通りに面したピットイン・ティールームのいちばん奥の席。
16歳の私が17歳の坂本に初めて会ったとき、ダウンライトの下で黒い塊に見えた。
眉も眼も、鼻や唇もみんな太く大きい。無造作な長髪、ほどよく着くずした制服。低い鼻声で好奇心に満ちた目の動き。

じきに互いの本をやりとりするようになった。
たぎるものを秘めた先輩と後輩。それぞれに「牙」を感じていたと思う。騒乱の街はすぐ窓の下だ。
彼はすでに伝説だったのである。
前衛ジャズの轟音の中で、けれど言葉はいつも途切れてしまう。

8年ほど前から2人とも悪性新生物と親しくなって、深夜にメールが来るようになった。
ポツリ、ポツリと。ニューヨークか東京か。フットライトが灯る病棟なのか、それとも自室だったのか。北半球の夜空から言葉の欠片が降りてくる。
 
「それでも」と彼には言おう。
僕らがついに話さなかったことがある。
そういう坂本龍一を探して旅に出ようと思う。
それがこの時代の小さな精神史になる。

頬杖をついて

 坂本龍一って誰なんだろう?
 未来の子どもたちから、そんな声が聞こえる。
 そういう問いかけから始めてみたいと思う。

 じっさい、ぼくたちは子どもだった。
 1968年には16歳同士。高校2年生と1年生である。それから半世紀以上、細くて長い付き合いが続いた。ぼくらが交わした言葉はそれほど多くない。1968年から10年は学園と街がひっくり返る騒乱とそのアフターアワーズだ。連日のバリケード通いと投石の合間にジャズ喫茶で短くて濃い会話を交わした。そして互いに60歳を越えた2013年から10年はガン友だちになって病気をめぐる往復書簡が続く。この最初と最期の10年間は濃い会話とメールの時間である。
 その間の30年はまるで「現代音楽」。長い休止符が打たれて、忘れたころポツンとピアノが鳴る。4分33秒間どんな音も出さず音楽を宙づりにしたジョン・ケージさながらの、張りつめた無音の時間だった。いつか伝えようと思いながら、ついに口に出せなかったことのほうがずっと多いのである。
 それは結局のところ何だったのか?
 机に頬杖をついて思いめぐらす。

 もちろん友人が逝っても自分の生活は続く。
 誰でもそうだ。
 そして、それを揺るがす惑星の地響きも近づいてくる。戦乱襲来、原発崩落、気候動乱、階級決壊。小さな身の回りと大きな歴史。その両方に彼はいつも耳をそばだてていた。音源、映像、そして本。龍一氏の気配が部屋の中でかすかに漂っている。じつは会ったときから2人とも鼻声である。いまひとつ聞きとりにくい。デモの街角でも喫茶店でも。だから話し足りない。そんな気持ちが残ってしかたがないのである。
 これから、そういう「ぼくらが話さなかったこと」を探す旅に出かけてみたいと思うのである。

1952年と1968年

 これを書いている人は誰なんだ?
 そうでした。
 坂本龍一は1952年1月27日に東京中野に文藝編集者と帽子デザイナーの間の一人っ子として生まれた。私こと平井玄は同じ年の5月5日に新宿2丁目の洗濯屋一家に生まれている。ようするに旧赤線地帯。この場所と生業の違いが大切だ。こういう落差が肝心な時に道を分ける。私にとっては自分の判断に活を入れる芳醇なスパイスになったと思う。
 彼にはどうなのか。もはや聞くことができない。せめてイエスが言った「地の塩」、その一粒くらいには思っていたのかな。人に踏みつけられる大地の苦味。そういう使命を坂本龍一が知らないわけはない。

 ぼくらが生を享けた1952年は、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約が発効された年だ。つまりこの国の「戦後」という時間がぼくらとともにそこに生まれた。これも押さえておこう。戦争体制が吹き飛んだ焼け跡の青空は「抜けるように自由だった!」と、野坂昭如は何度も書いている。空腹を抱えた作家の出発点は「屍の上の自由」である。
 このフリーダム、島々の歴史上もっとも闊達な時が1970年代いっぱいは続く。そこはひとつの「回転舞台」になり、すったもんだの大事件が次から次へと起きたのである。工場や炭坑に国会、駅や大学にも、防衛庁や空港にまで突入しては占拠、そして大量逮捕。灼熱は美術館やコンサートや映画館にまで及ぶ。騒動のほとんどの主役脇役は当時の若造どもである。
 舞台がくるりと回れば別の世界。こちらの主役は非日本人たちである。1948年には朝鮮人学校を廃止しようとする国に抵抗する阪神教育事件。1958年には、不幸にして李珍宇が日本人女性を殺してしまったとされる小松川事件。1968年には警察とヤクザの横暴に怒る金嬉老が清水で起こした旅館立てこもり事件。そして沖縄「復帰」闘争やコザ暴動。在日コリアンや沖縄だけじゃない。南島人やアイヌたちもステージにせり上がる。回る舞台は速度を上げて、数えきれない人間たちが盛大にジャンプしたのである。

 そういう裏も表も含めて、この時代の膨張した高熱を吸い込んでぼくらは育った。
 3歳のときに坂本龍一は、リベラルな教育機関として名高い自由学園系の「世田谷幼児生活団」に入る。そして白金の仮住まいから千歳烏山に移る。6歳でピアノと作曲を習い、叔父さんたちからクラシックのレコードを借りて聴く。そしてドビュッシーの音楽に触れた。このフランスの作曲家が描く音の色彩に魅了されたことを生涯で何度も語っている。
 私のほうは、法律上では4歳の1957年4月に2丁目赤線がなくなっている。それでもまだ非合法に女を買う街である。2丁目のモダン赤線街には米兵向けにジャズが鳴り、四谷に近い隣町には日舞花柳流の家元と三味線の師匠がいた。
 山の手の洋楽的教養と江戸色町の風情。1964年、ぼくらが住む都心西部に最初の東京オリンピックが来る。坂本龍一も私も12歳である。

 こうして1968年の都立新宿高校で1年先輩の坂本と会う。
 なんだ高校の後輩じゃん?

 たしかに。ところがです。
 初対面は学校じゃない。新宿中央通りのクラシック喫茶、風月堂かウィーンのどちらか。フーテンや新左翼活動家たちが道にあふれるカフェでした。そんなところに出入りする者は全校生徒約1000人のうち10人ぐらいのもの。そこでお互いの本を交換した。
 西口広場のフォーク集会にも一緒に行く。とうとう1969年9月には徒党を組んで校長室を占拠した。それから全学ストライキ、授業停止1か月以上。毎朝、登校すると校舎の2階から大きな赤旗が翻る。これが高校生の全共闘運動です。反抗熱が噴きあがる新宿の街全体が学校だった。

(vol.2「彼の音が聴かれるふたつの室内」は9月8日更新予定です)

vol.2  
ぼくらが話さなかったこと 坂本龍一への旅

2023年3月28日、1人の音楽家が世を去った。坂本龍一、71歳。 著者の平井玄は、都立新宿高校で坂本の1年後輩。1968年の夏、2人は出会って意気投合し、高校生全共闘運動を共にするようになる。 約半世紀、長い沈黙も含めて「異論ある友情」を続けた坂本と平井。 平井は「僕らがついに話さなかったことがたくさんある」と言う。 だから、坂本龍一を探して旅に出ようと決めた。未知の存在も含めて、坂本を知る人びとに会ってみよう、と。 それはこの国の戦後文化史であり、この時代の精神史にもなるだろう。

プロフィール

平井 玄(ひらい・げん)

文筆家

1952年、東京・新宿二丁目生まれ。1968年、都立新宿高校に入学。1974年、早稲田大学文学部抹籍。

家族自営業をへて校正フリーターに。早稲田大学や東京藝術大学、立教大学の非常勤講師を務めた。映画『山谷 やられたらやりかえせ』の制作上映に関わり、非正規労働者運動にも参加する。

著作に『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』(太田出版)、『千のムジカ』(青土社)、『暴力と音』(人文書院)、『ぐにゃり東京』(現代書館)など。最新刊は『鉛の魂』(現代書館)。

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