京都出町柳の店
さて。
4年前の2019年1月末に小さな京都旅をした。
遠く北山から流れでた賀茂川と高野川が合流して一筋の鴨川になる辺り。京阪電鉄鴨東線出町柳駅から橋を渡って河原町今出川の交差点を下る。と、すぐに左の路地奥に「李青」というカフェが見える。
そこに初めて行った時のことだ。
店の前で迎える古びた石像。衣冠を着けた士太夫さまかな。草木に囲まれた木戸を開けると、朝鮮李朝時代の調度や骨董が佇む空間が現れる。仄暗い。まるで森の祠だ。
坂本龍一が中咽頭がんを公表したのは2014年7月。立ち直って2017年に『async』を出し、ドキュメンタリー映画も公開される。2021年に直腸に転移が見つかる前のまだ凪のころだ。
こちらは2017年に直径5センチの肝がん、2018年9月には再発、2度目の開腹手術をした。このとき私は余命21か月といわれている。それから4か月目の旅である。
小さな家族自営育ちとは悲しいもの。早く仕事に復帰しなきゃと体がうるさい。フリーターに有給休暇なんてないしね。それでも妻をねぎらって「遠出」した2泊3日。遠出が京都って? パリじゃないの。これじゃ江戸長屋民の貧乏旅だ。洛中洛外を流れる鴨川沿いの光景は異国のサナトリウムなのである。
というわけで、叡山電鉄鞍馬線で京都を北に登って貴船神社を観る。その帰りに一条寺の書店に寄った。ここは地元の小さな書肆が手がけた鶴見俊輔の本が並ぶ本屋さん。鶴見さんは京大人文科学研究所、同志社大学とこの一帯には縁が深い。編集したのは京都ベ平連の流れをくむグループである。べ平連とは、アメリカ軍のベトナム侵攻に反対する鶴見俊輔や小田実に開高健といった作家や知識人たちが集まったグループだ。サルトルやチョムスキーを呼んで反戦シンポジウムを開く。このしばりの緩いスタイルが1960年代には全国に広がった。一条寺の本屋カフェにも似た匂いを感じたのである。
京都盆地は今出川通で気流が変わると町の人はいう。夕暮れは足元から来た。その寒気を避けて入ったのが出町柳の「李青」である。
小庭が覗く窓際の席。
臓腑を切ってカフェオレしか飲めない。妻はなつめ茶を頼んだ。
と、ピアノが鳴っている。
掌を古風な茶器で温めながら、思慮深い指先を感じる。萎(しお)れた体に語りかけてくるのである。
誰ですか、このピアノ? と店の人に聞く。
「坂本龍一さんです」とカウンターの奥から女性の声が応える。
喉が和やか。聞かれたことがなぜか誇らしい、そんな声音である。
そうだったか。
ソロの打弦が続く。2年前の『async』は生ピアノではない。鍵盤がメインの『12』は4年先。すると2011年の韓国公演かな――とは後知恵。そこまでは思い至らなかった。
いいじゃないか。
ピアノの弦は230本ほど。それは波打つ白砂の枯山水だ。すると落ちる雨だれは「ししおどし」ってか。
と思う刹那、次の一滴がそういう和のクリシェ(常套句)から逸れる。和音階から半音斜めにずれて、なにかもっと深い森の奥に誘うのである。
新鮮だった。これが坂本龍一の音との、過激な時代からたぶん二度目の出会いである。
韓モダン
ここの韓国餅は旨い。
軽いレストランでもある。夕餉を愉しむ女性たちの声を聞いて、室内に眼をやる。
正面の壁には大ぶりの李朝箪笥。そこに白磁の大壺が置かれている。左右に朝鮮の山水画。まるで祭壇である。さらに歳を重ねた家具や器、古物を細工した装飾品や籠もの、額絵や古書誌が配されている。深い漆黒の地に紅色が一筋吹き流れる趣きだ。朝鮮美術に通暁したオーナーの在日コリアン女性が選んだものという。
そして。
この全体が「韓モダン」の立体作品に見えるのである。
これは子どもには楽しくないですね。
でもね、と思う。
子どもたちは抜け穴が大好きだ。壁の穴。塀の穴。路地の抜け道。ビルとビルのすき間。そこからなにか別の時間に潜り込む。ぼくらにとっちゃジャズ喫茶もそんな場所。テント芝居やミニシアターもそうだった。21世紀に入ってこのかた、そういう場所が息も絶え絶えなのである。
だから。と餅をほおばって思う。この李朝カフェは人を惹きよせる街の祠だ。森に抜ける小径に見える。
そういうところで坂本龍一が鳴っている。
おそらくこの音は、この店によって選びとられたのである。
じつは前に、同じ人が営むもう一軒「寺町李青」にも足を運んでいる。
つい2年前まで、寺町丸太町の交差点に蔵を改造したカフェがあった(惜しむらくは閉店)。こちらはむしろギャラリーである。出町柳と寺町丸太町、二つの李青は京都御苑の東側に沿った寺町通の南北の端にあった。御苑正面玄関の顔は南沿いの丸太町通と西の烏丸通。ひっそりとした寺町通は公家たちの白く長い背中なのである。
この寺町にあった李青の窓から庭園の緑が覗く。つまりその先はヤマトの王族1000年の旧居、京都御所跡だ。大内裏と呼ばれたその邸宅は、応仁の乱や幕末内戦だけじゃない。少なくとも14回は焼かれて数しれぬ怨霊を封じ込めてきた魔宮である。
韓のモダンに一撃されたのはその傍らだ。
蔵カフェで茶に親しむ。そのひとときが腫瘍に苛まれた身を鎮め、身をほぐす。だから出町柳の李青にも寄りたくなったという次第である。
西陣と御所
旭日旗を掲げた軍艦がソウルの入口にある江華島を砲撃し、朝鮮半島を占領してから150年近い。銃剣を振り下ろす強圧と略奪の時間である。二つの店のどこにも、そこで起きたことを仄めかすものはない。
この無言が眼に痛い。李青のモダンはその空白を透かし彫りにするのである。店から賀茂川に出て、出町橋を渡れば中州が見える。映画『パッチギ!』(井筒和幸監督)で演じられた乱闘シーンの舞台だ。悪童たちが走り回る商店街もすぐそば。あの韓日青春映画は1968年の甘酸っぱさそのものだ。ザ・フォーク・クルセダーズの『イムジン河』は16歳の胸にも届いた。だから映画が描く崖下の荒れた在日コリアンたちのスラムに、観る者の心臓がどくどくと脈打つのである。
出町柳から西に行けば御所の北辺、その今出川通を数分歩くと同志社大学。その奥には戦時に治安維持法で獄死した朝鮮の詩人尹東柱(ユン・ドンジュ)のハングル詩碑が立つ(*1)。
李青の祠はそんなことは何も語らない。白磁の光沢に眼差しが吸い込まれるだけだ。パレスチナ人の文学者エドワード・サイードは、ユダヤ系の作家や思想家たちの言葉を裏返して読む。彼はユダヤ人たちが自らの苦難を語る明晰を愛するからこそ、その叡智をそのままパレスチナ人の存在を遮る暗愚の壁として読み返すのである。これはサイードの頭脳に激痛をもたらした。
モダンはこの痛痒にある。
この感覚を「韓モダン」と呼びたい。
誰の口が言う――と罵倒されるだろう。
私も踏みにじった側の子孫である。
それでも呼ばせてください。そんな言葉はまだどこにもないからだ。
僭越ながら半島のモダニティとも辛みが違う気がする。これは上賀茂の高麗美術館を見て、こちらに伝わってきた感触でもある。そこに展示された金達寿「日本の中の朝鮮文化」の足跡は、半島大陸と混じりあいクレオール化した列島文化を古代にさかのぼる旅である。古代だけではない。じつは西陣織や京友禅の職人にも朝鮮から来た男女が流れこんでいる(*2)。もちろん喰えないからだ。1960年代になると友禅染の蒸水洗職人にいたっては9割を占めたという。
彼女彼らは自分が織った西陣の着物を買えない。月の稼ぎの何倍もするからだ。チョゴリの美しさとも違う。それでも掌は別の生き物。賃金への執着と手業の誇りがせめぎあう。そのとき指先はどう動いたのか?
和は倭じゃない。「和の伝統美」は日本人だけのものじゃないのである。麗しい古都のあちこちには半島系京都人たちが棲むもうひとつの世界がある。何も言わない李朝の壺はそう告げる――ような気がするんだな。
寺町と出町柳。このふたつの室内。民藝調度の緻密な配置の仕方。これは流行のインテリア・テクニックなのか。新生物に喰われた内臓はそこに敏感だ。オーナー自身の「生きる配慮」のように感じる。ここは彼女が生き延びるための魂の棲み家なのである。
坂本龍一の指遣いがこの室内を慈しんでいる。
ああ、こういうところで、彼はこんな風に聴かれているんだ。
そう感じた瞬間である。
(*1:古都の人文地理については『京都の歴史を歩く』岩波新書を参照した)
(*2:安田昌史「西陣織産業における在日朝鮮人」同志社大学)
(vol.3「忘れられたデビュー作」は9月8日公開予定です)
2023年3月28日、1人の音楽家が世を去った。坂本龍一、71歳。 著者の平井玄は、都立新宿高校で坂本の1年後輩。1968年の夏、2人は出会って意気投合し、高校生全共闘運動を共にするようになる。 約半世紀、長い沈黙も含めて「異論ある友情」を続けた坂本と平井。 平井は「僕らがついに話さなかったことがたくさんある」と言う。 だから、坂本龍一を探して旅に出ようと決めた。未知の存在も含めて、坂本を知る人びとに会ってみよう、と。 それはこの国の戦後文化史であり、この時代の精神史にもなるだろう。
プロフィール
文筆家
1952年、東京・新宿二丁目生まれ。1968年、都立新宿高校に入学。1974年、早稲田大学文学部抹籍。
家族自営業をへて校正フリーターに。早稲田大学や東京藝術大学、立教大学の非常勤講師を務めた。映画『山谷 やられたらやりかえせ』の制作上映に関わり、非正規労働者運動にも参加する。
著作に『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』(太田出版)、『千のムジカ』(青土社)、『暴力と音』(人文書院)、『ぐにゃり東京』(現代書館)など。最新刊は『鉛の魂』(現代書館)。