忘れられた非日本人
さらに遠くまで行っちまおう。
坂本龍一は一人の「忘れられた非日本人」である――。
え、なに言ってるの。
忘れられた? 非日本人?
20年のニューヨーク生活でも、中野、白金から世田谷千歳烏山育ち。帰ってきた東京のどこかで眠っているはず。それに彼のことはみんな忘れていない。これからもずっと覚えているでしょ。
それじゃ、こう言い換えてみよう。
あなたが本好きなら、『忘れられた日本人』(岩波文庫)を書いた宮本常一という人の名を聞いたことがあるかな。戦前戦中戦後と細長い列島の村から村へ、島から島へと訪ね歩き、小さな人の小さな声ばかり集めて回った民俗学徒である。「忘れられた日本人」とは山奥の獣道や浜の荒れた納屋で暮らして語る人たちだけじゃない。宮本さん自身でもある。
坂本龍一も電子音響の小舟を一人漕いだ。最初は真夜中のスタジオ、脳内の川で飛び跳ねる稚魚を捕まえる。ニューヨークに住んでからはグリーンランドやアイスランドに向かって大地の声に魅入られる。ブラジルの音楽やメキシコの映像に惹かれて、音楽観も変化した。最期には東北から沖縄まで深い森や海のざわめきを拾い集めたのである。彼は90歳まで生きようとした。さらに大きくアジアの音の砂に向かう途上で亡くなる。そういう列島を超えた東アジアの民である――。
ここでガツンと強調しておきたい。
坂本龍一による最初のレコーディング作品は1975年秋の『ディスアポイントメント・ハテルマ』である。大瀧詠一の『ナイアガラ・トライアングルvol.1』参加より早い。
音楽批評家で大正琴奏者の竹田賢一がプロデュースし、打楽器奏者の土取利行と共演した作品だ。これについてどんな追悼文も触れない。行きとどいた追悼記事を掲げた英紙ガーディアンさえひと言もない。まるでなかったように扱われているのである。
これはどうしたことか。
じつに不可解。ここがこの連載のキモになると思う。これから時を経るごとに、クラウド上で坂本龍一に関する仮想書棚は限りなく膨張していくでしょう。その中で、ここで書かれるものはアーティストの評伝や音楽書ではない。書くうちに自然に音楽を超えて、またいつの間にか音に帰っていくというおかしなもの。坂本龍一自身がそうだったからだ。そういう宇宙からの奇妙な落とし物として読んでいただければと思います。
慌てないようにしよう。
「忘れられた非日本人」のことでした。
この最初の作品は『ディスアポイントメント・ハテルマ』と名づけられる。ハテルマとは波照間島のことだ。沖縄本島の南に連なる八重山諸島の、さらにそのサウスエンドがハテルマ。ニホン最南端の有人島である。このタイトルがなにやらナゾめいている。
録音された1975年、もう波照間島では地の声で歌われる民謡は消えつつある。1960年代初めには日中韓台香港でテレビ放送が始まっている。沖縄本島でもほぼ同時。1967年になると本島から離れた八重山にも到達した(*1)。テレビによる身ぶりや話し方の浸透力はラジオとは比べものにならない。まず子どもたちから、口ぶり、抑揚、発声する口腔の形が変わる。しまいには喉の清濁そのものがテレビ声に慣らされていくのである。この声変わりが10年たたずに大人に及んだ。島人が謡う声の凸凹はアスファルトで舗装されてしまうのである。ディスアポイントメント、失望とはこのことでしょう(このネーミングについては、2005年の再発盤・解説で竹田賢一自身がナゾ解きをする。これはいずれまた)。
それでもね。
はたしてこれは失望なのか、それとも逆に希望なのか。
繰り返そう。1975年である。東京にいる竹田、坂本、土取も自分たちの地声は遠く薄れている。そういう彼らが「想像された辺境音楽」を都心のスタジオで即興した作品なのである。新たな地声、高次の世界都市民謡を自分の体から掘り出す。そんな方向が込められていたと、その脇にいた私は感じとる。この一作が坂本龍一の始まりにあったことを忘れないようにしよう。
坂本龍一と竹田賢一が濃密に接触し、語り合ったのは1974年からYMOが散開した1983年までの日々である。10年ほどだ。そしてその唯一のフルーツが『ディスアポイントメント・ハテルマ』である。迷いながらも末期サカモトまで、この音が秘かな持続低音として長く響いていたと私は確信している。
消された時代
ところで、さっきからずっと言っている竹田賢一って誰ですか?
そりゃそうですね。
竹田さんはアナキズムとコミュニズムを濃厚にブレンドした「レボルト社」という少数精鋭結社の一員でした。1960年代に無数に誕生した左派グループのひとつ。その中でも、世界中の尖端行動思想をいち早く翻訳紹介する、国境を超えた情報ゲリラでした。ネットなんてない時代に、各地で暴動し蜂起する者たち、都市ゲリラの声をほんの2~3カ月で活字にした。物騒な現場で生まれるフレッシュな思想をハイスピードで伝えたのである。
と言っちゃあ、なんだかおどろおどろしい。だいたいレボルト社が出した雑誌のタイトルが『世界革命運動情報』です。神保町の書店で手にとるのもヤバい雰囲気である。どこかで公安警察のおじさんが本屋を監視してるかも? だからこれを読んだらもう地下に潜るしかない。高校生は妄想する。誌面からそんなオーラが立ち昇るのである。
それでも。それだからこそ、ぼくらは読んだ。
末尾に付された短い翻訳解題なんて暗記するほど。この国では翻訳する学者が、殺された革命家の言葉から肝心の毒を消す。つまり「二度殺す」。その漂白作用、アカデミック・クレンジングをひと筆で突くのである。生成AIには絶対に書けない。そういう深みがあるからだ。
知と血の気の多い若い衆たちはゲバラ、ファノン、マルコムXをここで知る。チェ・ゲバラはアルゼンチンに生まれたバイク好きの医者。キューバの蜂起に加わり、アフリカの解放に飛び、ボリビアの山地でCIAに殺される。カリブ海のフランス植民地マルティニークに生まれたフランツ・ファノンは、混血の兵隊として第二次大戦を戦い、リヨンの大学で精神分析を学んだ。アルジェリアで臨床医となり、民族解放戦線の機関紙を編集しながら、ニューヨークで病死。その死に方はいまも謎。マルコムXについては黒人音楽を取り上げる際に語るとしましょう。
ともかくだ。3人とも身も心も諸民族・諸世界の交差点である。NHKの『100分de名著』でフランツ・ファノンが取り上げられる半世紀も前である。
じつは竹田さんも日米のクレオールである。人の営みはいつだって国境を超える。彼の政治や音楽への細やかな感度はこの境界を生きる感覚に根ざしていた。なんて思うのは、わたしが小さいころ新宿二丁目の買売春地帯では、夜ごと台湾系や韓国系、奄美や沖縄系の極道たちに加えて、米軍の多民族兵隊たちがとぐろを巻いていたからだ。
20世紀は革命と戦争に、さらに芸術が絡み合った時代である。『世界革命運動情報』誌のテーマは狭い意味での政治に限らない。竹田賢一がこのすべての接点にいたのは天命というしかない。
音に憑かれた竹田賢一が、このヤバすぎる時代のさなかで大正琴を手にしたのも天命でした。ハンディな大正琴はタイプライターのキーで金属弦を弾く。和なのか欧なのか亜なのか。奇怪なクレオール楽器である。その響きで革命歌や抵抗歌をレパートリーにする前衛ロックバンドを始める。「じゃがたら」の篠田昌已や「ダウンタウン・ブギウギバンド」の千野秀一、大熊ワタルや坂本龍一までが参加したA-Musikを率いた。これはもう世界で類のないジャンルのバンド。なんだか聴いてみたいでしょ。
その竹田さんに話を聞いた。繰り返せば、彼はアーリー坂本龍一の音楽観や「革命観」に大きな示唆を与えている。
ちょっとちょっと待って。またまたまた。その「革命」ってなに??
サカモトさんの学生運動は若いやんちゃ時代でしょ。68年ってもう小さな明治維新みたいな昔話では。それから六ヶ所村核燃、福島原発事故、more treesから安保法制反対、神宮外苑伐採、最期には新宿御苑放射能汚染土と歩んだはず。坂本龍一はリベラルな環境アクティヴィストとして人生をまっとうしたのでは。すべてをひっくり返す「革命」なんてとっくに20世紀の骨董品じゃないですか?
さてどうなんだろう――というあたりも、この連載でウーファーから轟くベースラインになるでしょう。
また先回りしすぎた。
そういうアブナイ竹田さんは、坂本龍一の2作目『千のナイフ』についてこんなことを言うのである。
これにはもう、大正琴を真似して作った音とか、胡弓の音を真似して作った音とかが入っている。そういうことも含めて「エンド・オブ・エイジア」という曲もあるけれど、アジアへの視線みたいなものが濃厚に聞けるんです。
(2023年5月29日収録インタビューより、以下同)
アジア電脳前衛ポップ
坂本龍一はずっとアジアの音響を意識してきた――と私も思う。
『千のナイフ』の冒頭「サウザンド オブ ナイブズ」で毛沢東の詩をヴォコーダー声で謡ってるだけじゃない。毛沢東ことマオさんは大陸を縦断する傍ら詩を詠む人でした。そのロボット・マオの声が音頭のうねりに乗って笙や三味線に似た響きへと続く。ピンポンパンと跳ねている。妙に軽いのである。アナログシンセがまるで江戸の和楽器に聞こえてしかたがない。
この天真爛漫がクレージーキャッツを思わせる。桑田佳祐の初期クロスオーバー歌謡曲もこのラインでしょう。2曲目「アイランド・オブ・ウッズ」なんて怪獣モスラが隠れる南の島の密林だ。そのうえラストの曲は「君が代」のアナグラム、つまり音列を並び替えて本意を隠し現すレトリック遊戯に聞こえてしまうのである。これって君が代音頭⁉ 最後に現れるしめやかなシンセ独吟を聴けばそれは明らかだ。
『千のナイフ』は1978年。ガンガンギンギンギュイーンのハードロックが全盛のころだ。彼は深夜のコロンビア・スタジオで、開発されたばかりのアナログ・シンセサイザーをオモチャにして、音遊びに耽るのである。
なにやってんの、サカモト?
聴く者はそう感じた。
大学から追われた若い連中が束になって新宿の酒場で呑み狂っていた時代だ。表通りで機動隊に鎮圧された鬱屈が路地裏のケンカで爆発していた。終電が行って、路地を挟んだ酒場の2階同士でビール瓶が飛び交うのである。新宿ゴールデン街のカウンターは、映画屋に芝居屋、物書き屋に編集屋、音楽屋や舞踏屋たちでぎゅうぎゅう詰めになる。彼らは一人残らず尖った眼をしている。狭いバーでカウンターの空気はやたらと張りつめていた。坂本龍一も夜ごとその中にいた。
だからこの醒めた明るさに誰も反応できない。『千のナイフ』の初回プレスは200枚しか売れなかったという。そのうち2枚は竹田さんと私です。ところがターンテーブルに載せても、フリージャズ脳に浸された私にはまるでわからないのである。
いま聴くと、26歳が奏でる青春電脳歌謡が愛おしくてたまらない。そして45年後にスーッと腑に落ちた。幼い坂本が「なりかわり」とまで感じたドビュッシーは、ガムランはじめアジアの音色に憑かれた人。出発点から坂本龍一は、平安雅楽や文部省唱歌の底を抜いて「日本」より深い「アジア」の音を求めていたと、あらためて感じる。新左翼崩壊という「敗戦」を経験した坂本にはこの明るさが必要だった。と彼がいなくなってから思うのである。
2010年代に、1980年代ジャパンの「シティポップ・リヴァイバル」に火をつけたのは韓国やインドネシアのDJやYouTuberたちである。そのきっかけとなったのが、1979年の松原みき「真夜中のドア~Stay With Me 」だ。私は発売直後にシングル盤を手に入れている。ジャジーな声のみずみずしい綾に、ガラにもなく吸い寄せられたんですね。歌舞伎町の裏通りはいまよりずっと暗かった。そこを自転車で配達にうろつく私だって「ぼくたちの全共闘」が敗戦した暗がりから抜け出したかったのだ。
もうすぐGDPで日本を抜くアジア諸国は、すべてが自己責任のネオリベラル時代真っただ中である。同時に曲がり角もすぐだ。だから、若いアジアンたちが抱く虚ろが、バブルなシティポップを吸い寄せる。その波は中国香港台湾を超えてインド亜大陸や中南米まで到達するだろう。快楽が伝わるのは一瀉千里。こういう体感のいちばん深いところで、グローバルサウスの人びとは「アジアの坂本龍一」を発見することになるでしょう。
というわけで。
どういうわけで?
つまりこういうアジア音響の回路をたどりつつだ。
坂本龍一は「日本を代表する音楽家」と呼ばれることを拒んできた。人が言う「世界のサカモト」はそこから生まれたジョークのように聞こえるのである。それじゃあ、遺された膨大な発言の中に「日本」および「日本人」という言葉はどういう形で出てくるのか?
デジタル・アーカイブが充分に蓄積されれば、その答えは瞬時に出る。インデックスには「日本の~」と呼ばれたとたん、「国を代表してるわけじゃないけど」と苦笑いして抗う言葉が並ぶに違いない。
この頑なさこそ「ぼくら」の間をつなぐ細くて長い琴線のひとつだったと思う。
(*1:沖縄県公文書館「あの日の沖縄」より)
(vol.4「『坂本龍一』の不在」は9月15日公開予定です)
2023年3月28日、1人の音楽家が世を去った。坂本龍一、71歳。 著者の平井玄は、都立新宿高校で坂本の1年後輩。1968年の夏、2人は出会って意気投合し、高校生全共闘運動を共にするようになる。 約半世紀、長い沈黙も含めて「異論ある友情」を続けた坂本と平井。 平井は「僕らがついに話さなかったことがたくさんある」と言う。 だから、坂本龍一を探して旅に出ようと決めた。未知の存在も含めて、坂本を知る人びとに会ってみよう、と。 それはこの国の戦後文化史であり、この時代の精神史にもなるだろう。
プロフィール
文筆家
1952年、東京・新宿二丁目生まれ。1968年、都立新宿高校に入学。1974年、早稲田大学文学部抹籍。
家族自営業をへて校正フリーターに。早稲田大学や東京藝術大学、立教大学の非常勤講師を務めた。映画『山谷 やられたらやりかえせ』の制作上映に関わり、非正規労働者運動にも参加する。
著作に『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』(太田出版)、『千のムジカ』(青土社)、『暴力と音』(人文書院)、『ぐにゃり東京』(現代書館)など。最新刊は『鉛の魂』(現代書館)。