アメリカ文学の新古典 第1回

自らの内なる力に気づく―チャック・パラニューク『ファイト・クラブ』

都甲幸治

分断と衝突を繰り返すアメリカ。今や国民の多くが「数年以内に内戦が起こる」との恐怖を抱いている。そうした時代の変化に伴い、民主主義と国民国家の在りかたに向き合ってきたアメリカ文学も、大きな分岐点を迎えている。
本連載ではアメリカ文学研究者・翻訳家の都甲幸治が、分断と衝突の時代において「アメリカ文学の新古典」になりうる作品と作家を紹介していく。
 
第1回目はチャック・パラニュークが1996年に発表した小説『ファイト・クラブ』(ハヤカワ文庫NV)。同作はデヴィッド・フィンチャー監督、エドワード・ノートンとブラッド・ピット主演で映画化され、カルト的人気を博した作品だ。日本でも2015年に早川書房から復刊されパラニューク作品の再評価が始まった。なぜ、30年の時を経て、この小説が再び広く読まれるようになったのだろうか。今年の3月に青山ブックセンターのイベントで、パラニュークと言葉を交わした著者が論じる。

パラニュークと対談のイベントをした。あの伝説の名作『ファイト・クラブ』の著者のチャック・パラニュークである。正直言って、どんな人が来るのかな、とドキドキだった。『ファイト・クラブ』の映画版を観た人なら僕の気持ちは分かるだろう。何しろ、ブラッド・ピットとエドワード・ノートンをはじめとする男たちが、ひたすら殴り合うのである。そしてまた、テロ組織を作り上げて街中の高層ビルを爆破するのだ。ああいう世界を妄想するなんて、どんな人なんだろう。むちゃくちゃイカつい人だったら怖いな。そもそも話を聞いてくれるんだろうか。

結論から言えば、そんな心配は無用だった。ズーム画面に映し出されたパラニュークは柔和で、賢く、謙虚で、ものすごく話しやすい人だったのだ。ちゃんとこっちの言うことを受け止めたうえ、きちんと考え、しっかりと自分の言葉で返してくれる。英語と日本語間の、通訳を介した会話とは思えない親密さだった。僕を含めた日本側のスタッフが全員「ファイト・クラブ」と大きく胸に書かれたTシャツを着ていたのも、少しは効果があったのかもしれない。

日本とアメリカをインターネットで繋ぎ、対面とオンライン両方のお客さんの前でしゃべる、という複雑な構成のイベントは初めてだったから心配だったけど、本当にうまくいった。最後に大盛り上がりの会場を画面に映すと、パラニュークは本気で喜んでくれた。この十年で一番いいことがあった、みたいな笑顔を浮かべて。それを見て、僕もなんだか嬉しくなった。国や言語文化の壁を越えて、みんなの心が繋がった気がした。

さて、そもそもパラニュークの代表作である『ファイト・クラブ』とはどんな作品なのか。何より互助グループの話である。互助グループっていうのは、同じ問題を抱えた人々が定期的に集い、過去に自分がやらかした過ちを正直に話して、そこに居る全員とシェアする。そうやって互いに支え合い、少なくとも今日一日は酒を飲まずにいよう、あるいは自殺せずにいようと決意し、問題を少しずつ乗り越えていくためのグループのことだ。アルコール依存症の人が集うアルコホリック・アノニマスなどが代表的で、この団体は現代アメリカ文学を代表する作家、レイモンド・カーヴァーの「僕が電話をかけている場所」にも登場する。

『ファイト・クラブ』に出てくるグループは様々である。睾丸を癌で失い、女性ホルモン過多になって、性が揺らいでしまった男のグループ。あるいは、さまざまな難病患者が集うグループ。主人公の青年はこうしたグループに毎日のように参加している。そして同じ苦しみを分かち合う一人として、参加者たちの前で自分の苦しみを語り、ときに号泣するのだ。けれども実際のところ、彼は何一つ問題を抱えてはいない。一つだけ、夜眠れない、ということを除いて。

彼は大手の自動車会社で事故の調査員として働いている。自社の車が事故を起こす。実は車の不良によるものが多いのだが、実際にリコールするのは、そのための費用が賠償金を下回るときだけだ。そしてリコール費用が賠償金を上回ればリコールはせず、遺族にこっそり賠償金が払われるだけで、車の問題はひた隠しにされる。そうして欠陥は延々と放置され、次々と人が死ぬ。それでも人命ではなく、利潤だけに関心のある会社は何もしない。

事実をバラされたら困るから、会社は主人公を解雇できない。そうやって稼いだ金で、彼は高級マンションに住み、せっせと北欧の家具を買いまくる。そしておしゃれな暮らしを実現するのだ。金も物も社会的地位もある。けれどもこの人生は自分の望んだものだ、という実感が湧かない。

そうしているうちに、彼は全く眠れなくなる。治療も効かない。唯一効果があったのが、互助グループのへの参加だった。偽のメンバーとして自分の問題を語り、人々の前で泣いたあとだけ、彼は深く眠れる。もちろん参加者を騙している自覚はある。けれども、夜に眠りたい彼は、どうしてもこの悪癖を止められない。

ある日、出張から帰って来た主人公は呆然とする。マンションの前に警備線が張り巡らされ、立ち入り禁止になっていたのだ。聞けば、自分の部屋が何者かに爆破されたらしい。いったい誰の犯行なのか。特に恨みを買った覚えもない。そして、おしゃれな家具や家電を買いためた部屋があった場所には、ただ黒い大きな穴があいていた。持ち物はもはや、旅行用のトランク一個しかない。どうしよう。とっさに彼は、飛行機で隣り合わせた謎の男、タイラーに電話する。自分でも理由はわからぬままに。そしてここから彼らの冒険が始まる。

バーで飲んでいた主人公はタイラーに言われる。「おれを力いっぱい殴ってくれ」(『ファイト・クラブ[新版]』p66)。なぜそんなことを言うのか理解できないまま殴ると、タイラーも殴り返してくる。こうやって始まった駐車場での殴り合いは、いつしかバーの地下で定期的に開かれるファイト・クラブへと発展するのだ。こうして集った男たちは、老いも若きも全員、世間の肩書きや名誉や地位など、すべてを脱ぎ捨て、地下室に集まる。さらに上半身のシャツも脱ぎ捨てて、裸で殴り合う。勝負はいつも一対一だ。そして激烈な痛みを感じながら、言葉に頼ることなく、今自分が生きている、という強烈な感覚を味わう。

それだけではない。徐々に全米、いや世界各地にファイト・クラブの支部が結成され、会員たちは暴走していく。アルバイト先のレストランでは食べ物に異物を入れる。街中でちょっとした破壊行為を行う。やがてそうしたいたずらはエスカレートし、どんどん深刻なものとなる。激増する会員はタイラーを中心とした闇の軍事組織となる。なぜこんなことになったのか。そもそもタイラーとは何者なのか。とうとう主人公とタイラーは、爆破される寸前のビルの中で対峙する。なぜタイラーはここまで現代の文明社会を憎むのか。果たして彼の暴走を主人公は止められるのか。

全体の流れからも分かるように、本作はまず、エンターテインメントとして面白い。思わぬ展開が広がっていき、話がぐんぐん大きくなる。おまけに描写も映画的だから、そもそも映像化しやすい。そのことは映画版を見た人なら納得だろう。しかもその中に盛られた感情、とりわけ焦燥感に、読者は容易に共感できる。一生懸命頑張っているが、自分がしている仕事が果たして世の中の役に立っているのかどうかわからない。いやむしろ、倫理的にはマイナスかもしれない。膨大な時間と引き換えに手に入れた金で優雅な暮らしをしてみても、そもそもおしゃれな家具やブランド品を自分は心底欲しているのかどうかわからない。

人の期待に応え続けているうちに、自分が何をしたいのか、自分に必要なものは何なのか、自分は何が欲しいのかが分からなくなってしまった。だからこそ、自分の身体をもう一度感じたい。そして社会的なものを抜きにした、剥き出しの自分として人と繋がりたい。そうやってもう一度、自分と出会いたいのだ。あるいは、自分をここまで追い込んだこの社会を破壊し尽くしたい。30年近くも前の作品なのに、この小説『ファイト・クラブ』に渦巻く感情や感覚は完全に現代的だ。パラニュークはいったいどうしてこうしたリアルで、痛くて、正直な作品を書けたのか。

チャック・パラニュークが生まれたのは1962年、ワシントン州のパスコという町である。パラニュークというのは珍しい苗字に見えるが、これはウクライナ系の名前らしい。彼はワシントン州バーバンクで15歳まで育った。そして両親の離婚を期に、母親の祖父母の暮らす、ワシントン州東部にある牛の牧場に移動した。その後オレゴン大学でジャーナリズムを専攻し、1986年に卒業するが、期待したほどのいい仕事には就けなかった。僕の人生はどう見ても失敗だった、と対談でも語っていたくらいだ。結局、フレイトライナーという会社でディーゼルトラックの整備工になった。そして、どうして学校で溶接を学んでおかなかったんだろう、溶接工の方が給料が高かったのに、なんてこぼしていた。

彼にとって重要だったのは、この頃ホスピスでボランティアをしたことだ。当時はHIVの全盛期で、たくさんの患者が死をひたすら待っていた。当時の様子は「付き添い」という短篇でしっかり描かれている。彼の仕事は、末期の患者を車で山の上まで連れて行き、広がる風景を見せたり、あるいは患者の住んでいた部屋まで行って、家族にバレたくない品物をこっそり処分したりすることだった。「付き添い」では、ミュージシャンの息子について、まだ彼が生きているにもかかわらず過去形で語る母親との会話が出てくる。この作品自体がものすごく感動的なので、いつか訳してみたいと思う。

33歳のとき、パラニュークはポートランドにある書き手のためのワークショップに参加した。作家のトム・スパンバウアーが指導するそこでは、「危険な作品」が奨励されていた。それはなんなのか。かつてレイモンド・カーヴァーの編集者でもあった作家のゴードン・リッシュや、エイミー・ヘンペル、トム・ジョーンズなど、ミニマリストの作家たちに強く影響を受けたシンプルな文章で、ごく個人的な、辛い経験を書く、というものだ。スパンバウアーは言う。

「卓越していることを私は求める。そして我々の誰もが、自分なりの卓越したものを持っている。そうしたものは、本当の自分を恐れないことからやってくる。はっきりとした声で正直に、自分なりの真実を語れるようになるためには、たくさんの練習が必要だ。」(スパンバウアーのウェブサイトより)

スパンバウアーの指導は、パラニュークにあることを思い出させた。ホスピスでのボランティアをしていたころ、彼は付き添いとして、患者たちを互助グループへ送り迎えしていた。会が進行しているあいだは他に居場所もないから、患者たちとともに部屋に入り、隅の方で終わり待っていた。健康体であるにもかかわらずこうした場所に来ることに、彼は罪悪感を覚えていた。けれども同時に、彼はある気づきを得た。互助グループとは、現代風な教会なのではないか。

彼は言う。「多くの面で、こうした場所――互助グループ、12ステップの回復グループ、この自動車ぶつけ合い競技――は、組織化された宗教がかつて担っていた役割を果たすようになっていた。かつて我々は教会に行き、自分たちの最悪な部分、犯した罪を打ち明けていた。自分たちの物語を語っていたのだ。そして認められ、許され、罪から救われ、共同体に再び受け入れてもらっていた。こうした儀式は我々が人々と繋がっていられるようにするための方法だった。そしてまた、不安を解消するための方法でもあった。そうした不安のせいで、我々が人間性からあまりに遠ざかってしまい、もはや手遅れになる前にだ。こうした場所でこそ、私はもっとも本当の話を聞いた。互助グループで。病院で。もはや失うものなども何も無い場所ではどこでも、みんないちばんの本心を明かしていた。」(“Stranger Than FictionTrue Stories”, xviii)

スパンバウアーによれば、文学とは本当の自分を見つめ、自分なりの真実を語ることだ。そして、自分なりの真実を語ることに最も卓越しているのは互助グループの参加者たちだ。ならばこの二つを結びつければいいではないか。この思いつきこそ、パラニューク作品の根源にあるアイディアだった。けれども一つ問題がある。どんな互助グループを選べばいいのか。ありきたりのものは書きたくない。だけど突飛すぎて誰のニーズにも合わないものもダメだ。

そこでパラニュークが目をつけたのが、当時流行っていた女性文学の流れだ。たとえばエイミー・タンの『ジョイ・ラック・クラブ』(角川文庫)では、中国系の女性たちが麻雀卓を囲んで大いに人生を語り合う。それではこうした自分をさらけ出せる場所の男性版を考えてみたらどうだろう。そもそも今、小説の読者の多くが女性たちだ。もう一度男性たちを文学に惹きつけるにはどうしたらいいのか。

そこで彼が思いついたのが、黙ったままひたすら男たちが殴り合うファイト・クラブだった。そこで彼らはただ傷つけ合っているのではない。言葉とは別の形で、つまりは拳や体の動きで、互いにコミュニケーションをとっているのだ。彼らは体の痛みを通して、今まで自分が身につけてきた理屈や知識を振り払う。そして、自分自身のなかに秘められた力を強烈に感じる。それと同時に、自分らの人生を支配してきた社会の決まりや、モノを購入すれば幸せになれる、という消費主義を振り払う。要するに、もっともらしい言葉の支配の外に出るのだ。

文学とは、言葉で作り上げられた閉域を突破し、人と人が繋がるさまを描くことだ。スパンバウアーの文学理論を起点としながらも、パラニュークは新たな小説の枠組みを『ファイト・クラブ』で発明した。だからこそ、彼の作品には新鮮な魅力があるのだ。

こうした構図は他の作品でも踏襲されている。名作『サバイバー』(ハヤカワ文庫NV)では、カルト宗教の共同体を後にした主人公が、自らの内部に書き込まれた宗教の教えの体系をどのように食い破り、自分自身の人生を紡ぎ出せるようになるかが描かれていた。現時点での最新作『インヴェンション・オブ・サウンド』(早川書房)では、実際に人を殺すことで断末魔の人間の叫びを記録する、という音声係の歴史のなかで生きてきた主人公の女性が、その伝統を破壊する。

パラニュークはインタビューでこう語っている。親や教師や上司から、我々はさまざまな価値観やルールを押し付けられてきた。そしてその枠組みの中で精一杯、頑張って生きている。けれども満足感は得られない。なぜならそれらは、自らの感覚に基づいて生み出された価値観やルールではないからだ。しかもそれが達成できているかどうかを決める権利は常に他人にある。だから我々は、いつまでたっても自分の人生をコントロールする力を得られない。

だったらルールを作る側に回ればいいじゃないか。君たちには内なる力などない、と教え込まれることで、我々は力を奪われている。でも本当は、秘められた力をひとりひとりが持ち合わせているのだ。その力の存在に気づくことができれば、今度はルールを作る側に回れるだろう。そうすれば、他の人から見てどんなに失敗の人生だろうが、自分なりの満足感は得られんじゃないか。

だからこそ、自分は形容詞の小説ではなく動詞の小説を書きたいんだ、とパラニュークは言う。形容詞の小説というのは、女性だ男性だ、ゲイだストレートだ、黒人だ白人だ、といったアイデンティティに基づく小説のことだ。けれども、もっと抽象化して考えれば、我々全員が、常に目の前の事態に反応しながら何かを選び、行動している。この行動に焦点を合わせることで、アイデンティティという枠組みを超えた文学作品が書けるんじゃないか。

ゲイであり、長いこと同じパートナーと暮らしていることを公表しているパラニュークが、なぜゲイ文学を書いていないのかについて、僕はずっと疑問を持っていた。だからこそ、なぜ作品においてアイデンティティを重視しないのかという質問を対談でもぶつけてみた。そして彼の答えは納得できるものだった。どんな属性を持つ主人公であれ、常に自分で選び、行動していることに変わりはない。彼の答えはまるで現代に甦ったサルトルだった。こうした実存主義的な彼の言葉には、大きな納得感があった。

アイデンティティに基づく小説には一定の効果があったと思う。けれども、マイノリティはこんなに苦しんでいる、という話ばかりになってしまえば、ついには読者も飽きてしまう。そして、自分とは属性が違うから関係ない、というニヒリズムにまで到達してしまうだろう。ならば、細かなアイデンティティによって分断されまくった現代社会において、もう一度広く人々に語りかける言葉が必要となってくる。そうでなければ、アイデンティティの枠を超えた共感や連帯はない。だからこそ、パラニュークの言う、動詞による小説、という議論にはその力がある。ならば30年の時を超えて現在、パラニューク・リバイバルが起こっているのも不思議ではない。

第2回  
アメリカ文学の新古典

分断と衝突を繰り返すアメリカ。今や国民の多くが「数年以内に内戦が起こる」との恐怖を抱いている。そうした時代の変化に伴い、民主主義と国民国家の在りかたに向き合ってきたアメリカ文学も、大きな分岐点を迎えている。 本連載ではアメリカ文学研究者・翻訳家の都甲幸治が、分断と衝突の時代において「アメリカ文学の新古典」になりうる作品と作家を紹介していく。

プロフィール

都甲幸治

とこう こうじ
1969年、福岡県生まれ。翻訳家・アメリカ文学研究者、早稲田大学文学学術院教授。東京大学大学院総合文化研究科表象文化論専攻修士課程修了。翻訳家を経て、同大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻(北米)博士課程修了。著書に『教養としてのアメリカ短篇小説』(NHK出版)、『生き延びるための世界文学――21世紀の24冊』(新潮社)、『狂喜の読み屋』(共和国)、『「街小説」読みくらべ』(立東舎)、『世界文学の21世紀』(Pヴァイン)、『偽アメリカ文学の誕生』(水声社)など、訳書にチャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』(河出文庫)、『郵便局』(光文社古典新訳文庫)、ドン・デリーロ『ホワイト・ノイズ』(水声社、共訳)ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(新潮社、共訳)など、共著に『ノーベル文学賞のすべて』(立東舎)、『引き裂かれた世界の文学案内――境界から響く声たち』(大修館書店)など。

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