アメリカ文学の新古典 第5回

イラク戦争を描く―フィル・クレイ『一時帰還』

都甲幸治

分断と衝突を繰り返すアメリカ。今や国民の多くが「数年以内に内戦が起こる」との恐怖を抱いている。そうした時代の変化に伴い、民主主義と国民国家の在りかたに向き合ってきたアメリカ文学も、大きな分岐点を迎えている。
本連載ではアメリカ文学研究者・翻訳家で早稲田大学文学学術院教授の都甲幸治が、分断と衝突の時代において「アメリカ文学の新古典」になりうる作品と作家を紹介していく。第5回はフィル・クレイの『一時帰還』(岩波書店)。イラク戦争に従軍した経験を持つ著者が描く、戦争と日常の距離を読む。

  アメリカに居ると、日本とあまりに違いすぎて驚くことが多い。日常生活と軍隊との距離の近さもそのひとつだ。たとえばテレビをつけてみると、普通のCMに混じって軍のものが流れてくる。筋肉でムキムキの青年たちが、砂漠の岩山の切り立った崖をひたすら登って行く。彼らが卓越した腕力で頂上までたどり着くと同時に、「陸軍に行こう」という文字があらわれる。日本のテレビで自衛隊のコマーシャルが流れているところなど見たことがないから、はじめはどうしてこんなに軍の存在があからさまなのだと驚き呆れた。おそらく日本も第二次世界大戦の前はこうだったのだろうが、その時代に生きていたことがないから分からない。

 あるいはこんなこともあった。アメリカの大学には芝生が多く、そこら中をリスが走り回っている。カリフォルニア大学ロサンゼルス校の芝生に座ってゆったり時を過ごしたら、急に軍服を着た数十人の軍人が列を作って走ってきた。なぜ大学のキャンパスを、軍人が我が物顔で走り回っているのか。国立大学でも私立大学でも、日本でこんな人たちがいたら大問題だろう。けれどもアメリカの大学では、実はこんな光景は全く日常的だ。

 アメリカにはROTCという制度がある。日本語訳すると、予備役将校訓練課程だ。志願した学生は犯罪歴などを調べられ、合格するとROTCに参加できる。そして学費が免除され、あるいはさらに奨学金をもらいながら学業を続けることができるのだ。この参加者から将来、兵士や士官になっていく者も多い。ものすごくリベラルなことで知られるカリフォルニアの州立大学のキャンパスに常に軍人志望の人々がいて、彼らが訓練しまくっている、という状況は、日本人である僕の目にはとても奇妙なものに映った。

 文学作品にもこの、ROTCという制度が登場する。たとえばチャールズ・ブコウスキーの『くそったれ!少年時代』だ。高校時代、顔の醜さと体に大量にできたおできにより、モテる希望を全て失った主人公のチナスキーはROTCに入る。そして極端に真面目に軍事訓練を受けるのだ。後年彼は飲んだくれのダメ人間としての姿を晒すことになるのだが、そのイメージに反して、高校時代のチナスキーは、青春を謳歌するクラスメイトたちを横目にROTCの課程にのめり込み、そしてここでだけは優秀な学生となりおおせる。その後、第二次世界大戦が起こると、彼は軍には入らず、全米を旅しながら、あまり賃金の高くない仕事を転々とし、軍人たちを敵視するようになる。彼のこうした矛盾した姿勢も、時代時代の主流に反発し続ける彼一流のやり方だと考えれば、一貫したものとして納得もできるだろう。

 日常生活における軍の存在感は、こうしたやる気満々なものばかりではない。ロサンゼルスの街には退役軍人用の病院があって、そこにはいつも、おそらくベトナム帰りであろう男たちが大量に乗ったバスが常に出入りしていた。アメリカに住んでいたころは、彼らのことなどあまり考えていなかったけれども、後から思えば、おそらく彼らは戦場から戻って何年経っても、PTSDによるフラッシュバックなどに苦しみ、大して成果の出ない治療を延々と続けていたのではないか。

 あるいは、そうやってかろうじて日常を取り戻した上で治療を受けられている者たちは、まだいいのかもしれない。高速道路の出口にはいつもホームレスの男たちが座り込んでいて、手にはダンボールの切れ端を持ち、そこには「ベトナム帰りだ。金を恵んでくれ」と書いてあった。こうした光景を見て、僕は最初ものすごく驚いてしまった。こういう人たちがアメリカにかなりの人数いるということは、日本では誰も教えてくれなかったからだ。けれども、あまりにも毎日見るので、しまいには慣れてしまった。

 おそらく彼らは戦争が終わって軍から追い出され、かといって普通の生活には戻れず、様々な失敗を繰り返して家庭も崩壊し、仕事も続けられず、福祉の網の目からもこぼれてしまった人々なのだろう。何らかの精神疾患を持っている者も多いはずだ。国のために自分の命を危険に晒し、その後は何ら報いられることもなく、死者と生者のあいだのような扱いを受けながら日々を暮らしている。彼らの姿を見ていると、アメリカ社会のたまらない暗さを感じる。

 2003年に始まり、2011年のアメリカ軍撤退で終結したイラク戦争を扱ったフィル・クレイの『一時帰還』(岩波書店)という短篇集を読んでいても、普通の人たちの日常と軍の存在がとても近いことがよくわかる。「遺体処理」という作品で、主人公の青年はキャラウェイという田舎の小さな町に違和感を抱いて暮らしている。そんな彼にとって、この狭苦しい共同体はまるで牢獄としか思えない。彼と話が通じるのは、この町で唯一レイチェルという女性だけだ。やがて二人は付き合うようになる。

 だが、この関係がいつまでも続くとは思えない。確かに二人が一緒になると、いつもこの町を出て行く話をする。だが、レイチェルの方はそうした話をしているだけで、決して本当に出て行くことはないことを主人公はわかっている。彼女はずっと不満を口にしながらも、獣医のオフィスで働き続けるのだろう。けれども主人公は違う。海兵隊に入隊し、本当にこの町を去ってしまう。もちろん、飛び抜けて頭がいい人たちには違う選択肢もあるだろう。奨学金をもらって東部の一流大学に進学する道もあるのかもしれない。けれども普通の青年にとって、軍に入る、できれば選抜されたものしか行けない海兵隊に入る、というのが最上の選択肢なのだ。

 いざイラクに派遣されてみると、彼を待っていたのは、入隊前に期待したような英雄的な仕事ではなかった。代わりに彼が携わったのは遺体処理の業務だ。毎日、朝から晩まで、地面に転がる遺体を処理し続ける。やがて遺体の臭いは自分の体にも染みつき、だんだんと遺体の周辺に死者の魂を感じるようになる。「遺体処理業務に携わる海兵隊員たちの何人かは、死者の魂が遺体の周辺に漂っていると考えていた。魂は体から出て来る。それが感じられるんだ、と彼らは言った。特に顔を見るときに感じられる。しかし、それだけでは済まなくなる。派遣も中盤が過ぎると、兵士たちは魂を至るところに感じると言い始める」(61ページ)。

 その多くがキリスト教徒であるアメリカ人の兵士たちにとって、魂が抜け出て天国に行ってしまった遺体はただのモノでしかないはずだ。だが、実際に遺体処理の仕事をし続けると、だんだんと感覚が変わってくる。やがてはイラク全体が死者の国のように思えてくる。自分も死んでいるのではないかと思って、たまに自分の肉をつまみ、引っ張ってみることすらある。そうやって、自分が生きていることをわざわざ確認しなければ気がすまなくなるのだ。

 こうした経験は、主人公の精神に大きな打撃を与える。故郷の町に戻りレイチェルと再会しても、昔の関係が戻ることはない。彼女の部屋に入れてもらうが、自分が体から抜け出して二人を上から見下ろしているような感覚に陥る。もちろん、もう関係が終わったレイチェルを求めてしまわないように、そうやって自分の意識を遠ざけている、という部分もあるのだろう。だがむしろ、自分の心と体がもう二度と昔のようにしっくりといくことがないことを、こうした事実は暗に示しているのではないか。

 結局、主人公はレイチェルに今の自分の気持ちをわかってもらうことはできない。ましてや関係が修復されることなどない。やがてレイチェルは他の人と結婚し、幸せな家庭を築いて、かつてあれほど嫌ったこの町に溶け込んでいくだろう。だが、主人公は、アメリカ合衆国に二度と居場所を得ることはない。

 こうした作品を描いたフィル・クレイはどういう人物なのか。彼は1983年にニューヨーク州のホワイト・プレーンズという町で生まれた。ダートマス大学を2005年に卒業したあと海兵隊に入隊し、2007年から2008年まで実際にイラクのアンバール県で従軍している。帰国後ニューヨーク市立大学で創作の修士号を取り、初めて出した短篇集『一時帰還』で2014年に全米図書賞を受賞した。自分や仲間たちの実際の経験に基づいた彼の作品は、今時の青年たちがどのようにイラクという戦場で暴力に晒され、あるいは暴力を他人に行使しながら追い詰められていくかを淡々と、だが時に哀切に語っていく。

 このような彼の作品は、ベトナム戦争を描いたティム・オブライエンの系譜に連なっている。もちろん時代的な違いもある。ティム・オブライエンの作品でベトナムに行く兵士たちは徴兵された者が多い。だが、フィル・クレイの描くイラク戦争では志願兵ばかりが登場する。彼らの多くは貧しく、大学への進学や将来の就職のためには軍に行くしかなかったという背景もある。それでも、アメリカは正義の戦いをしているという信念を、多かれ少なかれ持ち合わせている者が多い。

 だからこそ、実際の戦場を前にしたとき、彼らは自分の信じてきた大義が本当に正しいのかどうかを突きつけられることになる。ティム・オブライエンの作品に比べて、フィル・クレイ作品の登場人物たちがはるかにユーモアに欠けるというのも、作家の資質だけでなく、こうした社会的背景があるからに違いない。現代において自らの意思で軍に入り、外国に行き、見知らぬ者を殺す、あるいは殺されるということがどういうことかという問いに、フィル・クレイは正面から向かい合っている。

 それでは、実際に戦場に行った兵士はどんなふうに日々を過ごしていたのか。「一時帰還」という短篇には、危険な任務に就いている兵士たちの心の中で起こっていることが綴られている。自分がヘマをしたらみんなが死ぬ。そしてみんながヘマをしたら自分も死ぬ。だからこそ今、目の前の瞬間に集中する。そうした極度に緊張した日々が、イラクにいるすべての期間続く。「次の瞬間に起こるすべてのことを吸収するため、脳内に空きスペースを作り出す。そうやっておまえは生き残る。そうしたらその瞬間のことを忘れ、次の瞬間に集中する。それから次の瞬間。次の瞬間。そうやって七か月を過ごす」(14ページ)。

 あるいは、「戦闘報告の後で」という作品では、兵士たちは任務、睡眠時間を削ってえんえんとPSPやニンテンドーDSで遊び続ける。こうやって気分を変えないと、日々の極度の緊張に耐えられないのだ。任務中も任務後も神経を高ぶらせ続け、ろくに眠らないでいる彼らはどんどん疲れ切っていく。しかし彼らはこうした日々の過ごし方を変えられない。なぜなら、この国の全員が自分たちを殺そうとしていると感じる以上、リラックスできる瞬間などそもそも存在しないからだ。

 彼らがアメリカ合衆国に戻ってくるとどうなるのか。「一時帰還」には彼らの様子が描写されている。それまでいつもライフルを持っていたから、いざ銃を手渡してしまうと、どこに手を置いていいのかすらわからない。どの通りにもビルにもアメリカ兵たちを狙うゲリラはいない。そのことは頭では分かっているのに、体がついて行かない。いつどこから襲われるかわからないという感覚が続き、全くリラックスすることができないのだ。「ウィルミントンでは、分隊はいないし、戦友もいない。武器も持っていない。銃を握ろうとして、そこにないのでビクッとするといったことを十回も繰り返す。おまえは安全で、だからお前の警戒レベルはホワイトであるべきなのに、そうではない」(13ページ)。

 戦地にいたときは、アメリカに戻ることだけ考えて、なんとか目の前の苦境を乗り切ってきた。だがいざ国に戻ると、日常の全てがくだらない無意味なものに思える。自分がいるべき場所はここではない。早く戦場に戻りたい。そして、せっかくイラクから戻ってきたのに、再び自ら志願してアフガニスタンに向かう者まで出てくる。こうした感覚は、彼らが半ば自ら引き寄せた死の瞬間まで続いてしまうのかもしれない。いったい何が悪かったのか。本人か、社会か、時代か。誰にもその答えは見えないまま、苦痛と不幸はとどまるところを知らない。

 さて、兵士たちの心情についてはよくわかった。それでは、彼らと戦っているイラク人たちはどうか。こういう戦争文学の場合、敵の描写は薄っぺらな場合が多い。確かに短篇においても、イラク人たちは窓辺に潜む人影や、走り去るゲリラなどの形でかろうじて描かれているにすぎない。イラク人たちの苦しみについて兵士が思いを馳せる場面はあるものの、それは一方的な思い込みだ、との誹りを逃れることはできないだろう。

 だが、『一時帰還』に出てくるアメリカ人たちは兵士だけではない。イラクの復興支援ということで、水処理場をきちんと機能するようにしようと四苦八苦する者も登場する。「兵器体系としての金」という作品で、主人公は現地の人々と協力しながらなんとか水処理場を動かし、衛生的な水を広い地域に供給しようと努力する。だが彼の前途は多難だ。

 そもそもシーア派の地域とスンニ派の地域が事実上、別々の統治機構、そして別々の軍隊を持ち合わせているために、彼らは互いに協力し合おうとしない。なぜこんなことになったのか。イラク占領に際して、アメリカがイラクの歴史や社会への理解もなしに、フセインの軍や官僚機構を解体し、それぞれの宗派ごとの政党に分配してしまったからである。彼らは自らの派閥のことしか考えない。だから、イラク人全体の利益を考える者がまるでいないのだ。ここにはアメリカのイラク統治に対する深い批判が顔を覗かせている。

 そして教授と呼ばれる通訳のイラク人男性によるアメリカ批判は鋭い。彼はなぜ教授と呼ばれているのか。イラク戦争まで本当に教授だったからだ。そして彼はこう述べる。「「あなた方はケーキを焼くようにイラクを焼きました」と彼は言った。「そしてイランに食べろと差し出したんです」」(96ページ)。

 アメリカがやっていることはめちゃくちゃだ。イラクを民主化するという名目でフセイン一派を追い払ったのはいいが、そのままシーア派に権力を渡してしまい、シーア派国家であるイランのイラク支配を強めてしまった。イランこそ、アメリカにとっての次なる敵国なのに。あるいは主人公がイスタルカールという言葉の意味を訊ねると、彼はこう答える。「イスタルカールは何も意味しません。アメリカ人はアラビア語ができないっていう意味です」(97ページ)。

 支配され、通訳として雇ってもらっている教授は、アメリカ軍やアメリカを正面から批判することはない。しかし比喩や皮肉によって、彼らの無知や誤りを指摘する。しかも常に冗談という形をとりながら、攻撃が直接、自分に向かうのを避ける。こうした教授のやり方に、僕は鋭い知性と粘り強い抵抗を感じる。そしてまた、こうした人の存在を作品に焼き付けることができたフィル・クレイに、アメリカ文学の新たな展開を見ることができると思う。

(次回へ続く)

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アメリカ文学の新古典

分断と衝突を繰り返すアメリカ。今や国民の多くが「数年以内に内戦が起こる」との恐怖を抱いている。そうした時代の変化に伴い、民主主義と国民国家の在りかたに向き合ってきたアメリカ文学も、大きな分岐点を迎えている。 本連載ではアメリカ文学研究者・翻訳家の都甲幸治が、分断と衝突の時代において「アメリカ文学の新古典」になりうる作品と作家を紹介していく。

プロフィール

都甲幸治

とこう こうじ
1969年、福岡県生まれ。翻訳家・アメリカ文学研究者、早稲田大学文学学術院教授。東京大学大学院総合文化研究科表象文化論専攻修士課程修了。翻訳家を経て、同大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻(北米)博士課程修了。著書に『教養としてのアメリカ短篇小説』(NHK出版)、『生き延びるための世界文学――21世紀の24冊』(新潮社)、『狂喜の読み屋』(共和国)、『「街小説」読みくらべ』(立東舎)、『世界文学の21世紀』(Pヴァイン)、『偽アメリカ文学の誕生』(水声社)など、訳書にチャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』(河出文庫)、『郵便局』(光文社古典新訳文庫)、ドン・デリーロ『ホワイト・ノイズ』(水声社、共訳)ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(新潮社、共訳)など、共著に『ノーベル文学賞のすべて』(立東舎)、『引き裂かれた世界の文学案内――境界から響く声たち』(大修館書店)など。

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