原生林と焼酎の意外な関係
ひんぎゃが湧き出る丘の麓の「池之沢」という地区には原生林が広がっています。ここでは、山田さんと同じく、青ヶ島で生まれ育った荒井智史(さとし)さんという青年が、ガイドを務めてくれました。荒井さんは実家である自動車整備工場の仕事と、島の自然ガイドという二足のわらじをはきながら、島の芸能文化である「青ヶ島還(かん)住(じゅう)太鼓」の活動にも力を入れています。
彼が道案内をしてくれた池之沢の森は、シダやヤシに交じって、見たことのない種類の木が頭上で枝を差し交わしていて、まるで熱帯のジャングルのようでした。森の中で荒井さんが特に丁寧に説明してくれたのは、太くて長い葉っぱを持つ「オオタニワタリ」という植物でした。南方系のシダの一種で「谷を渡る」を語源としているそうです。
この植物は見た目の面白さだけでなく、塩とともに、もう一つの大切な地場産業の焼酎造りで、貴重な役割を担っています。池之沢の後に見学に訪れた焼酎工場で、私はそのことを教えてもらいました。
焼酎といえば南九州がまず有名ですが、もとより日本全国で造られているものであり、日本酒に対して、より「大衆的な酒」ともいえます。南九州とは別に焼酎造りは壱岐や沖縄など島に目立ちます。もちろん米焼酎もありますが、多くの島では土壌が貧弱で、また気候にも恵まれず、米より芋や麦が育ちやすかったことが理由の一つに考えられます。
さらに私が考えるもう一つの理由は、「海の人の酒好き」です。スコットランドの漁村から、マルセイユのような地中海の港街まで、海辺の人たちの酒好きは定説です。
青ヶ島の焼酎は「あおちゅう」というブランド名で、通の人たちに珍重されています。現在、十数銘柄の「あおちゅう」が販売されていますが、ブレンドの割合や熟成年数などは各銘柄で異なり、原料となるさつま芋と麦を別々に分けて蒸留しているものもあります。島で杜氏の資格を持っている人は十人。青ヶ島の人口は約百七十人で、日本で最も人口の少ない村です。人口比で見れば、杜氏率は大人のほぼ十人に一人で、これも日本一の比率といえるのではないでしょうか。
小さな島ですので、人々は複数の酒造場を持たず、一つの焼酎工場を共同で使用しています。酒造りは通常、男の世界ととらえられますが、青ヶ島では昔から家庭を守る女性が、家族のために焼酎造りに積極的に関わってきました。「奥山直子」「広江順子」など、杜氏を務めるお母さんやお婆さんの名を冠したユニークな銘柄が、ここには数多くあります。
焼酎醸造の過程で一番の特徴が、先ほど森の中で見たオオタニワタリの扱い方です。炒った麦の上に一枚一枚オオタニワタリの葉っぱを重ねていくことが、昔からの伝統だったそうです。オオタニワタリに生える特殊なカビを醸造に取り入れることで、南洋の森の香りという、絶妙な風味が加わるということでした。
実は伊豆諸島の焼酎と島流しには、密接な関係があります。幕末に薩摩の商人だった丹宗(たんそう)庄(しょう)右衛門(えもん)は、琉球貿易で清(中国)との密輸がばれて、八丈島に島流しとなりました。一八五三年のことです。当時の八丈島は米が不作で、米で酒を造ることは禁じられていました。一方、幕府は伊豆諸島でさつま芋の栽培を推奨していたので、起業家精神に富んだ庄右衛門は、それにヒントを得て、薩摩焼酎の技術を八丈島に伝えました。
この時期、やはり八丈島に流されていた近藤富蔵が『八丈実記』という回顧録を残しています。『八丈実記』には八丈島と伊豆諸島や小笠原諸島の出来事が細かく記録され、今となっては貴重な資料です。富蔵は庄右衛門の焼酎を高く評価し、「農作家作ニ大益ヲ得タリ」と記しました。つまり、島民に大きな利益をもたらしたのです。
島流しによって南国の焼酎技術が八丈島へ渡り、そして青ヶ島ではジャングルにあるオオタニワタリを醸造プロセスに組み込むことで、独自の焼酎を確立したのです。
著名な観光地から一歩脇に入った、知る人ぞ知る隠れた場所には、秘められた魅力が残されている。東洋文化研究者アレックス・カーが、知られざるスポットを案内する「巡礼」の旅が始まる。