ニッポン巡礼 Web版⑧

火山と「共生」するということ

東京都・青ヶ島【後編】
アレックス・カー

火山とともに生きる島の、苦難の歴史

 

 青ヶ島は、近年は多少の人口減少はあるものの、コミュニティが大きく変わる事態には至っていません。これは伊豆諸島の他の島、ひいては日本各地の地方を見ても珍しく、離島としてかなり例外的です。私が出会った塩職人の山田アリサさんと、ガイドの荒井智史さんの二人は青ヶ島出身で、島外での生活体験を経て、島に戻り頑張っています。青ヶ島の人たちは生まれ故郷に対して並々ならぬ愛着があるように感じました。

 その背景には、火山島ならではの歴史があります。

 私が感嘆した美しい丸山は、一七八五年の噴火までは、そこに存在していませんでした。青ヶ島では数千年前に一度火山が噴火しましたが、一五世紀ごろから、大きな噴火はなかったのです。

 しかし、火山は生きていました。一七世紀中ごろ、現在丸山の麓がある辺りに存在していた池の水温が上昇し、火山灰が噴出されることが二度ありました。「池之沢」の地名のもととなった池です。その時は大きな被害が出ずにすみましたが、その百年後に起こる大噴火の前兆だったのでしょう。火山はゆっくりと確実に成長し、一七八〇年七月から小さな地震が群発。一七八三年三月に、とうとう火山活動が活性化して、池之沢の池が火口に姿を変えました。当時、近隣にあった数十軒の家はすべて焼失したといいます。

 そこから、私たちの見た丸山が、溶岩流とスコリア(岩(がん)滓(し)=火山砕屑放出物)によって形成され始めました。畑は火山灰に埋もれ、水不足が続き、島民は八丈島へ逃げようと考えましたが、勝手に移ることはできませんでした。今の時代と同様に、何かをしようとする時は、役所への届けが必要だったのです。

 島の「名主」(村役人)だった七太夫 は、島民数十名を連れ、八丈島の役場に避難を申し入れました。それがようやく認められたのは五月になってからで、救助船三艘が青ヶ島に着いたころには、事態はすでに手遅れでした。激しい噴火により、空は昼夜問わず真っ黒になり、島民たちは海際まで引いて、降り掛かる火山灰と熱気から逃れようとしていました。お年寄りや子供は逃げ遅れ、救助の途中で波に飲まれる人も出て、百三十人以上の島民が命を失ったと伝えられています。

 結局、七太夫が先に送った人たちを含めると、難を逃れ八丈島へ移った青ヶ島の島民は、二百人ほどだったといいます。そして、その時から、彼らは苦難の難民生活にさらされることになるのです。

 八丈島は台風や不作によって、相次いで飢饉が起こり、決してのどかに暮らせる楽園ではありませんでした。そこに青ヶ島から二百人の難民が来たとなれば、人々の生活は貧窮を極めることになります。当時、難民の社会的な地位は、島流しにされた流民より低く、青ヶ島の人たちの立場はさらに厳しいものでした。

 七太夫をはじめとする歴代の名主は、船で島民を青ヶ島に送り込み、島での生活を復活させようと図りましたが、十数回にわたる試みはすべて失敗に終わりました。その間に名主二人も船の沈没で亡くなりました。復興の計画は完全に頓挫し、一八〇一年からしばらくの間、青ヶ島は無人島として放置されることになりました。しかし、村人はまだ諦めていませんでした。一八〇六年に、当時の名主多吉は江戸まで上って、幕府に「起返(おこしかえし)」を申請しました。

 一八一七年、佐々木次郎太夫が新たな名主に就任したころには、大噴火から三十年以上の歳月が経ち、島には緑が戻っていましたが、被災した島民は歳を取り、八丈島で生まれ育った子供も増えて、青ヶ島を知らない世代が多数になっていました。

 その状況に危機感を抱いた次郎太夫は、二十年近くの年月を費やして、幕府との手続き、資金調達、島の整備(水、畑、港、道路など)、そして島民の意思統一に、文字通り命をかけて力を尽くしました。

 島民は一八二二年から少しずつ青ヶ島に引き上げ始めました。一八二四年には約二百人が、島で再び暮らせるようになったといいます。一八三五年には幕府の検地を受け、その数年後、年貢納めが始まると、それを機に復興の成功がお上から認められるようになりました。復興年には諸説ありますが、いずれにしても、納税を基準に考えるあたりは、さすがお役所の幕府と言えます。

 噴火から「起返」が完了するまで五十年かかりました。その後、一九三〇年代に民俗学者の柳田(やなぎた)國男が青ヶ島の劇的なストーリーを題材に『青ヶ島還住記』を書きました。それ以降、「起返」は「還住」という言葉に置き換わりました。

 二〇〇八年、ある研究者が古文書を調べて、当時の島民は全員無事に脱出できており、悲劇の物語は後に創作されたものだったのではないか、と疑義を呈しました。しかし、今も昔も都合の良い形に包み込むのが役所の常ですので、古文書の記載を鵜呑みにすることもできないと思います。本当の史実を掴むのは難しいですが、噴火による被害が島民の心に深く焼き付けられていることだけは確かです。

 

「里帰り」と「地方移住」の守り神がここにいる

 

 還住から百八十年余、現在にいたるまで島の人口は驚くほど安定しています。島民の島に対する強い思いも絶えていません。しかし、島は今も活火山の指定を受けています。丸山と池之沢のひんぎゃから噴き出している蒸気は、眠れる竜の息です。

 旧約聖書には、モーゼは砂漠を迷いながら四十年の月日を費やし、やっと神との約束の地「カナン」にヘブライ人を導いたと書かれています。柳田は次郎太夫を「青ヶ島のモーゼ」と称しています。

 ところで、還住を成し遂げるため、次郎太夫が町民に「和のための九カ条」を約束させたことが、私にとっては、とりわけ印象的でした。次郎太夫が還住を果たすにおいて、意識づくりからスタートしたことは偉大なことだったと思います。私が泊まった宿の近くに、次郎太夫のお墓がありましたが、地域再生活動が盛んになった今日、青ヶ島の次郎太夫は全国の「里帰り」と「地方移住」の守り神といえるかもしれません。

 ただ、日本各地で行われている地域再生プロジェクトを見れば、どこも大抵は反対者や愚痴をこぼす人たちがいて、地域の合意形成ができずに行政が消極的になる、という悪循環があります。

 皮肉にも、青ヶ島でも還住が始まって間もない一八二四年ごろに派閥争いが生じ、晩年の次郎太夫はそれを抑えるので精一杯だったといいます。いつ、どこにいても、人は近所の不和と争わなければならない。これはもう、宇宙の法則といえるでしょう。

 今回の青ヶ島は、たった一泊二日の滞在でした。火山の中に人が住む島は、短い時間の中に、強烈な思いを私に植え付けました。翌朝、島の最北端にあるヘリポートでヘリコプターを待っている間、「ああ、この島を去らねばならない……次はいつ来られるだろうか」と、感傷的な気持ちになりました。もっと長くいたかった。私がこれほど強く後ろ髪を引かれるのは、近年では珍しいことです。やがて、ヘリコプターが爆風とともに到着し、私たちをかっさらうように乗せて離陸しました。窓から振り返り、遠ざかる二重カルデラの小さな島を、私は眺め続けました。

青ヶ島の日の出

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

構成・清野由美 撮影・大島淳之

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参考:

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/青ヶ島

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/還住_(青ヶ島)

 

https://intojapanwaraku.com/travel/84644/

 

https://bunkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=7070&item_no=1&page_id=29&block_id=40

 

https://ameblo.jp/hinazoumomo/entry-12219378444.html

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/東京都島嶼部

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/流罪

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ニッポン巡礼

著名な観光地から一歩脇に入った、知る人ぞ知る隠れた場所には、秘められた魅力が残されている。東洋文化研究者アレックス・カーが、知られざるスポットを案内する「巡礼」の旅が始まる。

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プロフィール

アレックス・カー
東洋文化研究者。1952年、米国生まれ。77年から京都府亀岡市に居を構え、書や古典演劇、古美術など日本文化の研究に励む。景観と古民家再生のコンサルティングも行い、徳島県祖谷、長崎県小値賀島などで滞在型観光事業や宿泊施設のプロデュースを手がける。著書に『ニッポン景観論』『ニッポン巡礼』(ともに集英社新書)、『美しき日本の残像』(朝日文庫、94年新潮学芸賞)、『観光亡国論』(清野由美と共著、中公新書ラクレ)など。
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