なぜ天野氏たちの訴えは見直し案凍結につながったのか?

国会議員すら知らぬ間に進められていた高額療養費値上げ
ここまでの天野氏たちの行動を見ればわかるとおり、全がん連やJPAの衆参議員に対する要望活動には特定の政党色がない。むしろ、どの政党に対してもまんべんなく丁寧に訴えかけてきたことがよくわかる。その理由について、天野氏は以下のように説明する。
「全がん連が超党派で要望活動をしていることには理由がふたつあって、ひとつは、がんって国内で年間100万人の人が罹患する疾患です。100万人が罹患すれば、当然いろんな主義主張の人がいる。特定の主義主張に偏って要望していたら、絶対に幅広い支持は得られません。だから、全がん連はあくまでも不偏不党という立場を貫いています。
もうひとつは、政策を本気で動かすのであれば、最後の最後は与党がうんといわなければダメなんですよね。今回は野党の先生方が『おかしいぞ』とたくさん声を上げてくださって、それがなければ動かなかったのはもちろんですが、最後に政策を決めるのは、結局、与党なんですよ。少数与党じゃなければ押し切られていたかもしれないので、今回は少数野党であることや参院選が近いといういくつかの幸運な要素があったのも事実ですが、そうであったとしても最後に決めるのは与党であり総理なんです。
与党が政策を変えるのはふたつしかパターンがなくて、ひとつは与党議員から『これではダメだ』と声が上がること。もうひとつは、公明党が連立政権の中で自民に対して『変えなきゃダメだ』と言うこと。そういったことを考えると、やはり我々は与野党の先生がたに対してまんべんなく要望活動をするしかないんです」
その要望活動をするうえでは、さらにもうひとつ、念頭に置いておくべき重要な要素がある、ともいう。それは、政治家がもっとも重要視するのは面子と票である、という、ある意味で身も蓋もない現実だ。
「議員はもちろん、より良い政治やより良い世の中の実現のために動いていらっしゃるんだろうけども、いちばん根底の部分では『最後に議員を動かすのは面子と選挙だ、それが立たなければ彼らは動かない』とお世話になっている議員秘書の方に教えられたことがありました。これが国会で要望活動をする時の要諦だ、と私は理解しています。
当たり前ですが、与党には与党の面子があるし、野党には野党の面子がある。今回に限らずどの政策課題だろうと同じですが、高額療養費制度の件で言えば、与党が避けたかったのは『野党に言われたから凍結しました』という状況です。つまり、自民党内から声が上がるか、連立与党である公明党から言われて変えるか、どちかかしかないんです。これが与党にとって面子が立つという意味です。今回は最後に公明党が働きかけて、自民党も動いてくれたのが大きかったです。
野党にとって面子が立つのは、『自分たちが動いた結果、与党は政策を変えざるをえなかった』という状況です。それぞれ、面子が十分に立たないと議員の方はなかなか動いてくださらない。あとは選挙ですよね。今回は参議院選挙が近いこともあって、与党の参議院議員で『このままではもう参院選が持たない』と声を上げた方々がいらっしゃったようです。選挙で落ちるのは議員にとっては大変なことなので、それは別に不純な理由でも何でもなくて、そもそも代議制民主主義で政策が決まるとはそういうものだと思います。
正しいことを言っているだけでは、世の中は残念ながらなかなか前に進まない面があるし、それが政治の世界だと思います。大切なのはアウトカム(成果)です。私たちが正しいことを主張するのがゴールではなくて、あくまでも政府や与党が動いてくれることがゴールなので、政策を動かすことが選挙のためにも患者さんのためにもなる、と思っていただくことが重要なわけです」

このような経緯で、政府厚労省による当初の〈見直し〉案はひとまず見送られることになった。だが、現在の状況は、あくまでも当初案が凍結されただけにすぎない。〈見直し〉案が議論される過程で明らかになったいくつもの問題点や、高額療養費制度そのものが抱える積年の制度的課題などが解決したわけではない。政府と厚労省はあいかわらず、秋までに新しい方針を決めるという姿勢を崩してはおらず、制度そのものの根本的な見直し作業についても、いまも否定的なままだ。
一方では、そんな政府と厚労省の専横的な姿勢を抑止する対抗勢力となる可能性を持っているのが、この3月に発足した「高額療養費制度と社会保障を考える議員連盟」だ。超党派議連を結成するというアイディアは、天野氏たちが今回の高額療養費制度に関する要望活動をするなかで少しずつ固まっていったもののようだ。
「社会保障について超党派で議論する議連が必要だよね、ということは複数の方々から提案されたことはありました。一番はっきりと言われたのが、2月にBSフジの『プライムニュース』に出演したときです。私を含めて3名がゲスト出演して高額療養費制度について議論したのですが、その番組のCM中に司会者やゲストの方が『もしもこの問題について超党派議連ができれば国民栄誉賞ものですね』とおっしゃっていました。それを聞いたときに、このアイディアはあり得るなと思ったことと、もうひとつは、与野党議員の方々と話をしていても、皆さんこの問題をあまりよく理解をされていなかったんです。
たとえば与党の議員に説明に行っても『エッ、こんなに(負担額を)上げるの!?』と驚く議員や、なかには『高齢者じゃなくて、現役世代の負担を上げるの?』という議員もいました。与党の国会議員すら十分に知らないうちに決められようとしているのはかなりマズいと思い、何らかの形で議員の皆さんが議論に関与する仕組みが必要だと思ったので、〈見直し〉案が衆院を通過した頃から、継続的に議論をしていただける場所として、要望活動の一環で超党派議連設立をお願いするようになっていきました」
この超党派議連で話し合ってもらいたい論点は3つある、と天野氏は考えている。ひとつは優先順位の問題、ふたつ目は政策決定プロセスの問題。そして3つ目が、上限額の上げ幅の問題だ。
「優先順位の問題というのは、(国民医療費全体を抑制するために)高額療養費制度から手を付けなきゃいけないんですか? もっとほかに手をつけるべき部分があるんじゃないですか、という議論が必要だということ。高額療養費って、医療費全体のおよそ6%なんです。他の94%は議論をしたのかというと、おそらく十分にしていないと思います。そもそも保険とは高いリスクに備える機能を有するものなのに、ここを狙い撃ちしてくるのはおかしいだろう、と思いますね。
プロセスの問題というのは、今回は政策案が決定する過程で患者や当事者の意見をまったく聞いていないので、とくに利用者や患者の生活や治療の実態を調べた上で議論をしてほしい、ということです。
この1点目と2点目を検討しても、なお引き上げが必要だというのであれば、そのときは可処分所得に対してどれくらいの負担にするべきかという議論をしてもらわないと困る。この3点の議論が十分にできないのであれば、政府や厚労省が言っているように秋までに結論を出すのは、かなり難しいのではないかと思います」
秋までに方針を決めるという新たな議論がどのように進んでいくのか、この原稿を書いている4月末段階ではまだなにも判然としていない。当事者の声がまったく反映されずに決定したことが、前回〈見直し〉案の大きな問題点のひとつだった。今後の議論に何らかの患者団体が参画することは必須だと思われるが、全がん連やJPAが参加できるかどうかはまったくわからない、と天野氏はやや困惑気味に明かす。
「厚労省に言わせると、『いまの社会保険審議会医療保険部会は高額療養費制度だけを話し合う部会ではないので、そこに患者団体を入れるわけはいきません』というのが彼らの主張です。あの部会ではいろんなこと話し合うので、たしかにそれも一理あるのですが、そうであれば、高額療養費制度を話し合う時間は足りていないので、たとえば現在の部会の下に別途小委員会を作るなどして、患者や当事者、医療者を入れていただく、という方法などはあってもいいと思います」
それにしても、この制度によって文字どおり命をつないでいる利用者の声をまったく聞くことなく制度を大きく変えてしまおうとしていたのだから、この官僚の横暴には唖然とするほかない。厚労省で審査部会構成員も務める天野氏も「かなり異例のことだと思う」と開いた口が塞がらない様子で、この厚労省側の無理筋の姿勢を以下のように類推する。
「彼らの言い分としては、医療保険部会には既に当事者がいるという建前なんですよ。厚労省が主張するところの当事者とは、『全国老人クラブ連合会』や『高齢社会をよくする女性の会』で、その人たちから意見を聞いているというんですが、両方とも高齢者団体で現役世代の意見は全然聞いていない。それに、その両団体にしても高額療養費制度について何か意見を言った形跡はないんですよ。本当に当事者に話を聞いているのかな、それっておかしいだろう、と思うのですが、厚労省の言い分としては、当事者は既にいる、という言い分なんですよ。
あの〈見直し〉案の進めかたは、議論をする期間が極めて短く、ある人がそれを評して〈盗塁的手法〉と言ったそうです。今回の政府と官僚は、ピッチャーのモーションの隙を狙って進塁するような手法をやりたかったのかな、と思わざるを得ないですよ」
〈盗塁的手法〉とは、まさに言い得て妙だ。今後は、そのような狡猾で悪辣な手法は、超党派議連を通じて監視し牽制していくことになるだろう、と天野氏は述べる。
「高額療養費制度を含む社会保障のありかたに関する今後の議論は、基本的に超党派議連の先生方へお願いすることになると思います。ただ、また今回のように拙速に決めるであるとか、あまりにも過重な負担を強いようとするような動きがあれば、もちろん議連を通じてやめていただくように申し上げていきたいと思っています」
この超党派議連は、4月23日に衆議院第一議員会館大会議室で第2回総会を行い、立教大学教授・安藤道人氏が、政府・厚労省案の問題点の指摘や目指すべき社会保障のあり方について「高額療養費上限額引き上げ案の衝撃と教訓」と題する講演を行った。そこで、次回は安藤氏のこの講演をさらに掘り下げながら、凍結された〈見直し〉案や現行制度の問題点、そして「世界に冠たる日本の国民皆保険」は果たして自画自賛するほど卓越した制度なのか等々について、安藤氏に質問をしながら議論を進めてゆきたい。
※5月1日に行われた厚労省第194回社会保障審議会医療保険部会では、医療保険部会の下に「高額療養費制度の在り方に関する専門委員会(仮称)」の設置が議題のひとつに上がり、患者等の当事者の意見を反映する委員を加えて丁寧に議論を進めていくことで了承された。ただし、「秋までに改めて検討を行い方針を決定する」という当初のスケジュールは、この段階でも厚労省は変更していない。
撮影/五十嵐和博
プロフィール

西村章(にしむら あきら)
1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。