平等権侵害、幸福追求権侵害という憲法違反の可能性はある
では、高額療養費制度の何が、どのように日本国憲法の保障する平等権を侵害しているのだろう。
「憲法14条は『すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない』と記しています。収入という言葉は条文にないのですが、ここで『人種、信条、性別』等と言われているのはあくまで例示にすぎません。つまり、収入による差別も許されないわけです。わかりやすい例で言うと、収入が低い人に選挙権を与えない、ということをやろうとすると憲法違反になるわけですよね。収入による差別だから。それは逆の場合も同じで、収入が高いから差別されることも許されない。収入の高低による差別は許されない。憲法上、これは明らかです。それがまずひとつ。
ただし、合理的な区別は憲法14条のもとでも許されます(たとえば、治療を受ける時点の収入が違うことを理由に、高額療養費の自己負担額支払い額に差を設ける場合など)。そうすると、高額療養費制度で所得区分の制限をつけることが合理的かどうかという話になりますが、一般的に言えば高額療養費制度を利用しなければならないような重い病気に罹った場合、普通は収入が減るんですよね。
そうすると、前年度に高収入であったとしても高額療養費が必要なレベルの病気になると、治療を受けている段階では働けなくなっていて、その高い収入をすでに失っている可能性があるわけです。そうであれば、前年度収入を基準とした自己負担の金額と、治療を受けている段階での支払い能力にずれが生じてしまう。だから、前年度所得区分による区別の仕方は合理的ではない、ということになるわけです。そうすると、非常に不合理な基準で所得区分を分けていることになるので、これは合理性のない収入の差別ということで、憲法14条違反になるのだと思います」
つまり、高額療養費の自己負担上限額が所得区分ごとに異なる応能負担であることが、この「収入による差別」の原因になっている、というわけだ。
この論旨は、当連載の前回(第11回)で紹介した高久玲音一橋大教授の主張とも一致する。高久教授の場合は医療経済学からのアプローチだが、斎藤弁護士の憲法論的考察でも同じ結論に達しているところが面白い。参考までに、高久教授の言葉を再度紹介しておこう。
「応能負担というのは、基本的に税金や社会保険料を徴収するときの原理なので、(サービスや保障を)給付する時には区別をしない、という考え方が一番明快で理にかなっていると思います。つまり、納税するときに応能負担で、給付を受けるときにも応能負担だと、ある種の二重課税になっていますよね。中高所得者は納税や社会保険料の納付で多額のお金をすでに払っているわけですが、医療サービスが給付される段階になってまた高い金額を課されると、その支払いに見合った充分な便益を受けられていないと考えるようになり、再分配に対する支持が次第に失われていく危険性があります」
「(医療サービスを)給付する際にも応能負担を要求するのはあまり筋のいい話ではないし、再分配に対する支持が失われるという意味では、むしろ非常に危険な考え方と言ってもいいのではないかと思います」
ちなみに、高額療養費で支払う自己負担上限額は所得区分に関わらず統一すべし、という斎藤氏の主張は以下のとおりだ。
「社会保険料は標準報酬月額に基づいて計算されるので、収入に応じるようになっています。それとは別の基準で高額療養費は給付を絞るということになると、どうしても所得区分の境目で逆転現象が生じる不公平が発生してしまいます。これは、たとえば児童手当に所得制限をかけていたときにも大いに議論になったことなので、よくわかると思います。
だから、税金や社会保険料を収入が高い人からたくさん徴収するのは合理的だと思うんですが、徴収するときにそういう区別をしているのであれば、給付する際は全員一緒にしないと不平等はどうしても生じてしまいます。要するに、そこの問題ですよね」
では、冒頭でも触れた丸山島根県知事などが言及していた「生存権の侵害」ということについてはどうだろう。丸山知事が批判したのは、あくまでも3月に凍結された政府〈見直し〉案に対するものだったが、現行の高額療養費制度は平等権(憲法14条)を侵害するという主張のように、生存権についても同じような考え方が成立するのだろうか。
生存権とは憲法25条に記されている人権で、なかでも第一項の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という条文は、社会生活の様々な局面でよく引用される。だが、現行の高額療養費制度が生存権を侵害していると真正面から主張することは難しいかもしれない、という。
「生存権の侵害で憲法違反に該当する、という判例は、じつはあまり多くないんです。今年6月に生活保護の裁判で最高裁が違法判決を出しましたが、あれは算定方法や手続の問題で生活保護費の引き下げを違法とするという内容で、この給付水準だと生きていけないという生存権侵害を認めたわけではありません。
どこまで給付すれば生存権侵害ではなく、どれくらいの金額だと生存権侵害に相当するのかという基準は、おそらく裁判所も作りにくいと思います。だから、生存権侵害を真正面に据えて主張しても、裁判所は判断しづらいでしょう。
そういう意味で言うと、平等権侵害との合わせ技なら裁判所は判断しやすいと思います。ある所得層の人が給付を受けられる治療が別の所得層の人は受けられない、ということになれば、これはやはり合理性がないでしょう。生活保護を受給している人が間違いなく受けられる治療を、前年度たまたま高額収入があったけども重い病気で収入を失った人が受けられないのであれば、困窮の度合いはおそらく一緒だろうと思われるけれども、治療の給付に大きな差が出てきてしまう。そうなると、これはやはり生存権侵害に該当する可能性があると思います。
生活保護を受給する人が受けられている治療が、ある所得層の人は受けられないのは、一般的に保障されるべき治療を保障してもらえないことになるので、生存権と平等権の侵害である、ということになる可能性はあると思います」
また、このような高額療養費制度の制度的矛盾は、憲法13条が保障する幸福追求権(「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」)や、日本が批准している国際的な人権規約に抵触する可能性もある、と斎藤氏は指摘する。
「幸福追求権は、生命に対する権利も当然含んでいるので、(高額な医療費を払えずに治療を諦める人が出てしまう状態は)幸福追求権を侵害している可能性があり得ます。また、社会権規約(「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」:1966年に国連総会で採択された条約)では、第12条で「すべての者が到達可能な最高水準の身体及び精神の健康を享受する権利を有することを認める」と記されています。この「最高水準」は必ずしも本当の意味の世界最高水準とはかぎりませんが、少なくとも国内で他の人が受けているレベルの治療を受けられない人が存在する状態は、この社会権規約12条に反するといえます」
プロフィール

西村章(にしむら あきら)
1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。