「それから」の大阪 第11回

緊急事態宣言明けの西成をゆく、ちんどん行列

スズキナオ

「道端で寝てる人がいたとして、そのスペースはその人の家なんです」

京都の学生だった林さんが大阪にやってきて最初に暮らしたのが西成区の天下茶屋という町だった。林さんが住み込みで働いた青空宣伝社がこの地にあったためである。1981年当時の天下茶屋は今とは比べものにならないほどに猥雑な町だったという。

――京都から大阪の天下茶屋にやってきて、すぐに慣れましたか?

40年前というとね、あの辺りはまだ、世間の流れに取り残されながらもコミュニティが残っていたんですわ。飲み屋さんも銭湯もたくさんあって、みんなほとんど半径50メートルから出ずに生活できていた。飲み屋で話を聞くと、「警察につかまった時にピストルを盗んだことがある」なんていう武勇伝を話す人がいてね。謝って返したら許してくれたというんですけど、今だったら絶対にあり得ない(笑)。でも僕の祖母の出身である九州の飯塚という炭鉱町も、僕が育った福岡の西新という町も同じように飲み屋があって荒くれものがいるような土地だった。だから天下茶屋に来てホッとするような、懐かしいような気持ちがありました。

――当時の西成のあたりはどんな様子だったんでしょうか。

この前行った萩ノ茶屋なんかは、とてもじゃないがちんどん屋が足を踏み入れられるような場所ではなかった。酔っ払いばかりでね。晴れた日でも地面がぬるぬるやったんよ。おう吐物と酒と小便でぬるぬるしてた。今は乾燥してるでしょう。ようあそこまで綺麗になったと思います。動物園前の方ですら、立ち飲み屋がずらーっと並んでいて、とにかくたくさん酔っ払いが寝ていてね。男娼がドレスを着て立っていて、僕がピエロの格好で青空宣伝社の仕事に行こうとする時によくひやかされました。

――今とはまったく違うんでしょうね。

全然変わった。もうそういう人はみんなこの世にいなくなったんですわ。20年ぐらい前までは、ちんどんをやっても、10人ぐらい酔っ払いを引き連れて歩くことになってね(笑)。「おらぁ!俺が宣伝したるわ!」とか、「ビラ貸せ!俺が配ったるわ!」とかいうて、そんな風にしてビラを配っても誰もその店には来ないですよ(笑)。「なんじゃこらお前!」とか言って通行人といちいちケンカするしね。今はそういう人はほとんどいなくなった。人口密度も全然違う。住んでいる人も減ったし、高齢化した。前は30代、40代の人が多かったからね。

ちんどん通信社の事務所にて、林さんにお話を伺った(2021年6月撮影)

 

 

――それでも林さんにとっては居心地のいい場所だったわけですね。

僕は高校に入った時にまわりがエリートばっかりでね、自分は勉強も運動もできない、何の役にも立たないと自己嫌悪に陥っていた。それが大阪に来て、成績と関係ない世界にやっとたどり着けたと思った。みんな無職で年金ももらえなくても堂々として幸せそうにしている。世の中の流行だとか、そういうものとまったく関係なく生きている人々がいるんだなというのを知ったんです。まあ、靴を脱いで上がるアパートだったら靴はすぐ盗まれるし。特に革靴は盗まれた。自転車を止めておいたらすぐ無くなるとか、そういう町でもあったけどね。油断も隙もないけど、愛すべき町だった。

――今、西成でまちまわりをしていてどう感じますか。

みんな高齢化しているからね。フォーク世代の人がもう70代になったりしているから、「『いちご白書をもう一度』をやってくれ」とかいうてくるおっちゃんがいて、リクエストに応えると100円くれたり500円くれたり、あるいはその辺で30円で売っている缶コーヒーを買ってくれたりする。それは、単純に人に施すと自分に返ってくるという日本古来の信仰もあるんでしょうけど、やっぱり「本当の自分はこうじゃなかった」という思いを抱えている人が多いんですよ。ここにいるのは落ちぶれた人たちだと思われがちですけど、もとはと言えば、ひとかどの人物ばっかりなんですよ。とび職でもかつてはバリバリやっていたとか、昔はヤクザでブイブイいわせていた人が今はよれよれになっていたりする。中小企業の経営者もいるし、お医者さんもいましたよ。思わず「うそでしょ!」っていうたらドイツ語しゃべってたから、「じゃあ本当なんやな」いうて(笑)。

――色々な歴史を経てきた人たちがいると。

着ている服とか、見た目とか、そんなんで判断して接したらいけないんです。道端で寝てる人がいたとして、そのスペースはその人の家なんですよ。塀や生け垣こそないが、その人の家なんですよ。だから僕たちがちんどんでまわる時でも「ちょっとお宅の軒先を通らせていただきますよ」っていう気持ちでやらないと失礼なんです。それはどこの町でも同じですけどね。世阿弥が能の心は何かと問われて「衆人愛敬」だと答えました。これは愛想をよくしなさいとかいうことではなく、人を見たら愛情と敬う心を持ちなさいと、お客さんを尊敬するということですね。神様がたまたまこういう姿をして目の前にいると思って接する。そうしていると向こうも僕らに敬意を持って接してくれる。それぐらいじゃないと心は通じないですよ。

――コロナ以降の変化についても伺っていいでしょうか。

毎年必ずあると思っていたイベントやお祭りごとが全部無くなるわけです。30年ぐらい毎年行っているようなものがたくさんあった。近所の祭礼であったり、富山の「全日本チンドンコンクール」であったり。それが無くなってショックでしたね。最初は風邪の一種やと思っていたから、暖かくなったら元に戻ると思ってた。気楽な感じやったんです。それがそうならないとわかった。でも、よう考えたら、僕がこの世界に入った1981年当時も土日祭日は仕事が無かったんですよ。商店街とか市場の仕事はだいたい平日で、それがその後、ちんどん屋のことを世の中の人が知って、土日にやっているイベントに呼ばれ出した。だから、それがなかった以前に戻ったなと感じましたね。

――なるほど。キャリアの原点に戻ったような。

その頃はケータイ電話がこんなに普及するなんか思ってもいないし、コピーやファックスすらあまりなかったんですよ。まったく想像もできなかった時代に今なっているわけやから、これからも多分そうなるだろうし、自分の小さな頭で未来を予想しても仕方ないなと。ケータイ電話が出始めた頃、「こんなん普及するわけない」と思いながら宣伝してましたから(笑)。「そもそもドコモという名前が悪いわ!覚えられへん」とかいうてね(笑)。「メール?口でいうた方が早いやろ」とか(笑)。

――たしかに今後どうなっていくかはまったくわからないですよね。

まちまわりをしていたら、自分たちを見ている人もいれば通り過ぎる人もいる。物陰から見てる人もいる。これは舞台でも同じで、「早く終わらんかな」と思って見ている人もいる。トリの落語を目当てにしてる人もいるし、寝ている人もいる。かといってこの人を起こすようにやったらダメなわけです。軽く聞き流したい人にはそう聞こえなあかんし、寝てる人は起こしたらあかん。その気配りはどちらも同じなんですよね。昔は商店街やったらとにかく派手にやらなあかん、人ごみに負けないようにしないとと思っていたけど、今はどこに行っても人ごみなんかないしね。そしたらもう、ここでいい音楽をやって、いい感じで歩いて、「わあ、いいもの見たなあ」と思われながら通り過ぎることができたらいいなと、そういうことをコロナのおかげで再確認できた気がしています。

――貴重なお話、ありがとうございました。

 

林さんがちんどん屋を志した1981年当時、すでにちんどん屋は“珍しいもの”とされていたらしい。それから25年以上も前の1955年に富山で「全日本チンドンコンクール」が始まった背景にも「近頃ちんどん屋を見なくなった」という危惧があったという。さらには、明治末期の文献にはすでに「最近では楽隊広告も見られなくなった」というようなことが書かれているんだとか。

つまりちんどん屋はいつの時代も“珍しいもの”とされてきたのである。「ちんどん屋は、いわば時空を超えた存在なんです」と言って笑う林さんは、きっとこの先の未来も変わらぬゆったりとした足取りで、賑やかに進んでいくのだろうと思った。

(つづく)

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「それから」の大阪

2014年から大阪に移住したライターが、「コロナ後」の大阪の町を歩き、考える。「密」だからこそ魅力的だった大阪の町は、変わってしまうのか。それとも、変わらないのか──。

プロフィール

スズキナオ

1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』『QJWeb』『よみタイ』などを中心に執筆中。テクノバンド「チミドロ」のメンバーで、大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』(スタンド・ブックス)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)、パリッコとの共著に『のみタイム』(スタンド・ブックス)、『酒の穴』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)がある。

 
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