マーク・キングウェル『退屈とインターフェース』を読む 第6回

「ステイホーム」でスマホから離れられなかった私たちが、ポスト・トゥルースについて考えるべきこと

⑥絶対に正しい解釈は存在しない
上岡伸雄

 私はこの衝動をハイモダンと名づける。これは後期啓蒙主義というさらに大きな運動と根本的に関わっているからだ。ただし、実のところ、この関わりには長く複雑な系譜がある──特に政治と哲学の分野で。我々はそれをカントの「啓蒙とは何か?」に含まれる有名な勧告にまで確かにたどることができる──「知恵を持て(サペレ・アウデー)(自分のために考える勇気を持て)。しかし、同様にもっと長く、どこかねじくれた線をたどり、ソクラテスの反対論証(エレンコス)までさかのぼってもよい──日常生活の言葉や概念に含まれる誤った意識の暴露。簡単に言えば、基本的な批評的様式の哲学である。

Lipik / PIXTA(ピクスタ)

 

 しかし驚くまでもないが、この土台は不安定であり、それがここでポスト・トゥルースを論じる際に「羅生門効果」と結びつけたい第二の理由となる。この言葉はコミュニケーション理論家のロバート・アンダーソンの仕事から広まったのだが、彼によれば「羅生門効果は見方の違いだけに関わるのではない。それは特に、こうした違いが証拠のなさと一緒になった場合に起きる。真実の一つの可能性を決定的なものと、あるいは不適なものと見なすだけの証拠がなく、それに加えて、この問題に決着をつけようとする社会的なプレッシャーがある場合である」。最後の要素が重要なのは、いくつもの解釈を経験することが安定を覆すと同時に、いかに新しい安定の新しい瞬間へと導くかを示しているからだ。この「決着」にはもはや基礎となる現実──「起きたこと」を先入観なしに素朴な視点で見る現実──の看板が掲げられない。しかし、にもかかわらず、合意に基づく秩序が持つ基準の力を発揮する。

yanikap / PIXTA(ピクスタ)

 

 この衝動によって我々は、隠れた前提とイデオロギー的先入観とに直面することを強いられるのだが、そのまさに同じ衝動が、遅かれ早かれ、それ自体にも前提と先入観があるという二次的な問題を認めなければならなくなる。実に明白な形で、内省が充分ではない批評理論は隠されたイデオロギーを暴露しながらも、その行為自体がイデオロギーになるという矛盾を生み出す。簡単な言葉で言えば、「何が本当に起きているか」を示す仕事は、単純に、存在論上の反動的な確信を前提にするという罠にはまる。世界をありのままに見ようとするナイーブな見方の代わりに、世界を自己欺瞞的なものと見る「啓蒙された」見方をするのだが、後者は前者と同じくらい、基礎となる現実という観念に基づいているのだ。

スフィア / PIXTA(ピクスタ)

 

 さほど明白ではない形では、暴露しようとする努力のあり方が不確かだということになりかねない。これまで埋もれていた考えや関わりを表面に出すことで、結局のところ何が得られるのか? (表面と深みというイメージは、もちろん文学作品にはたくさんある──フロイトの有名な氷山のイメージ、精神の85パーセントは「水面下」にあるというのが、ここで思い出される)

スコーン / PIXTA(ピクスタ)

 

 したがって、こうした紛糾状態に気づくことから逃れられなくなると、理論家たちは純粋にポストモダン的な転換をし始める。これで私が言いたいのは、リオタールが著作で説明した伝統的な「メタナラティブへの懐疑心」であるが、すべてがシミュレーションだという論理への回帰でもある──その回帰を煽るのが、標準的な批評理論の取り組みにおける信念の危機だ。この問題はすでにアドルノの後期の著作に見られるし、(それほどはっきりとではないが)バルトにも見られる。理論書が前提や力関係を脱自然化することで暴露するためのものなら、我々は暴露された状態を「より真実」であると単純に見なしてしまうことからどうやって逃れることができるのだろう? アドルノは、この基本的な取り組みは「見抜く」取り組みであると捉えており、当然ながら、そこに潜む紛糾や行き詰まりの可能性に悩んでいる。つまり、暴露の論理は「(いま)見られたものの暗黙のイデオロギー化」を伴っているように見え、それは避けることができないのだ。批評的態度を維持するには、ある原則に則ってこの論理を拒絶するしかない。そして注目すべきは、批評の機能がいまシフトしないといけないということだ。というのも、この解釈だけが正しいと主張できるものはどこにもなく、解釈と解釈されたものとのあいだに上下関係を想定しようとする主張もあり得ない。つまり、すべてが解釈だと言ってもいい。だからといって、知と信念に規範があるという考えを放棄するものでもない──どんなものにおいても、それは批評の視点を鋭くする。第4部で結論づけるように、インターフェースからの絶え間ない刺激は、絶え間ない哲学的批評の取り組みによってのみ対抗できる。これが、ネオリベラル的退屈が哲学的退屈に変わるとき、光を当てられる重要な洞察なのである。

(第7回へ続く)

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第7回  
マーク・キングウェル『退屈とインターフェース』を読む

「ステイホーム」の号令下で、いつもとはまったく異なる日々を自宅で過ごした読者も多かったのではないだろうか。スマホやパソコンを手放すことの出来ない時間が飛躍的に増え、コミュニケーションから生活、余暇のすべてがこうしたデバイスに支えられていることを実感しただろう。カナダでポピュラーな哲学者・Mark Kingwellが「退屈」という概念を哲学的に考察することで、こうした事態を巡る問題に警鐘を鳴らした『退屈とインターフェース』から、現下の状況に関わりの深い第二部をアメリカ文学研究者、上岡伸雄の翻訳連載で送る。

関連書籍

テロと文学 9.11後のアメリカと世界

プロフィール

上岡伸雄

1958年生まれ。翻訳家、アメリカ文学研究者。学習院大学文学部英語英米文化学科教授。東京大学大学院修士課程修了。1998年アメリカ学会清水博賞受賞。フィリップ・ロス、ドン・デリーロなど現代アメリカを代表する作家の翻訳を手がけている。著書に『テロと文学 9.11後のアメリカと世界』、『ニューヨークを読む』、訳書に『リンカーンとさまよえる霊魂たち』、『ワインズバーグ、オハイオ』、共著に『世界が見たニッポンの政治』など。

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