マーク・キングウェル『退屈とインターフェース』を読む 第7回

「ステイホーム」でスマホから離れられなかった私たちが、ポスト・トゥルースについて考えるべきこと

上岡伸雄

新型コロナウイルスが猛威を振るう最中、「ステイホーム」の号令下にあって、いつもとはまったく異なる日々を自宅で過ごした読者も多いのではないだろうか。外出機会が制限される一方で、ウイルスを巡っての深刻なニュースが矢継ぎ早に飛び込んでくるとあっては、必然的にスマホやパソコンを手放すことの出来ない時間が飛躍的に増えただろう。それだけではない。リモート会議などのコミュニケーションから生活を支えるオンライン通販、映画や音楽の視聴といった余暇まで、在宅におけるすべての事柄がこうしたデバイスに支えられていたとさえ言える。

wavebreakmedia / PIXTA(ピクスタ)

 

2019年4月、カナダでは非常にポピュラーな哲学者であるMark Kingwellが「退屈」という概念を哲学的に考察することで、こうした事態を巡る問題に警鐘を鳴らす一冊『退屈とインターフェース』を上梓した。その中でも現下の状況に最も関わりの深い第二部を、ドン・デリーロやフィリップ・ロスなどの翻訳で名高いアメリカ文学研究者、上岡伸雄の翻訳連載で送る。


 

(第6回より続き)

 もちろん、ニーチェ自身もこの認識論の限界を洞察しかけていたのであり、そのことは事実と解釈に関して頻繁に引用される文章に現われている(「事実などない、あるのは解釈だけだ」)。しかし、ニーチェは決定的な意味において自分自身の洞察を真剣に受け取っていなかったか、あまりに知的暴露の喜びに中毒になっていて、その洞察に完全に専心することができなかった。次の世紀の中頃までには、バルトやその他の者たちが言語学の構造主義的装置を自分たちの文化批評の道具に加えたが、洞察力によって深く見抜こうとする取り組みを捨てることはなかった。大衆文化研究の草分け的な本である自著、『現代社会の神話』(1957年)について、バルトは次のように述べている。「本書には、二つの決意が見出されるだろう。一つは、いわゆる大衆文化の言語活動に関するイデオロギー批評をするということ。もう一つは、この言語活動について、初めての記号学的な分解作業をすることである。私はソシュールを読んだばかりで、そこから次のような確信を引き出していた。すなわち、『集団的表象』を記号の体系として扱うことによって、敬虔ぶった告発から抜け出せるし、プチ・ブルジョワの文化を普遍的な神話に変換する神秘化を、つぶさに説明できる、という確信である」[1]

 

我々がここに見るのは、暴露の取り組みに関する標準の(そして説得力のある)説明だ。バルトはいつでも我々に、文化的生産と消費の「神秘化」において隠されてきたものを見るようにと求める。こうして脱神話化の取り組みが行なわれるのだ──特定の(プチ・ブルジョワの)利害が普遍的(自然な)規範へと変わる過程を、その利害の起源、限界、そして政治的傾向を正確に示すことで、推定に基づいて逆にたどる。我々はいまだにソクラテスの領域にいるのである。

Daikegoro / PIXTA(ピクスタ)

 

 アドルノはもちろん、同じことに取り組んできたが、バルトがこの分野では役に立たないと考える「敬虔ぶった告発」の回避という点については、かなり一貫性を欠いている。アドルノはキャンプや日光浴、テレビ、ラジオ、ジャズ、そして(とりわけ)映画に関する自分の気難しい批評が反動的であるとわかっていた。また、こうした批評が的を外していることも、かなり気は進まないながら、認めるようになった。告発は意味がなく、理解することに意味があるとバルトが感じ取っているとすれば、アドルノは単純に、時代と場に合わせられない偏屈老人の「わしの芝生から出ていけ」的な態度が捨てられずにいるのだ。

melis82 / PIXTA(ピクスタ)

 

 ドゥボールとボードリヤールだけが、困難の範囲を本当に気づいていると私には思われる。我々が真剣に受け止めなければならない考えは、事柄の事実といったものはないということ。すなわち、文化はあからさまなブルジョワの利害を支えるために働く詐欺ではなく、その代わりに空虚な「意味するもの(シニフィアン)」と無秩序な光景(スペクタクル)の自由な行動であって、それは──そう──現行の利害を強化しがちではあるが、見つけようと思えば見つけられる真実を隠すことによってではない。実際、基本的な真実は誰にでも見ることができる──絶対的な真実は作用していない! という真実。あるのは解釈だけ。あとは、半ば無秩序に配置された文化的財産があるだけで、それは示唆したり挑発したりはするが、決してはっきりとは語らない──語れない──のである。これを理解する人は真のポストモダニストだ。真実を暴露することによる解放の論理に無意識的に逆戻りしない人々。現実と幻想の境界は安定したものではないし、おそらく存在もしない──そう受け入れる人々である。

diego_cervo / PIXTA(ピクスタ)

 

 これが政治的に意味しているのは、もちろん、光景(スペクタクル)の包括的勝利が──メディアによるシミュレーションが絶え間なく作用するなかで、あらゆる退屈の追放を約束しているあいだにも──他の価値の尺度をすべて無意味にするということだ。「リアリティTV」大統領が登場するようになったことは、真実と幻想が区別不能となった認識論的システムの自然な流れである(訳注:リアリティTVは事前の台本や演出のない、現実に起こっている予測不可能な状況に、素人出演者たちが直面するありさまを追うテレビ番組のジャンル。大統領になる前のドナルド・トランプは「アプレンティス」というリアリティTV番組に出演していた)。このように真実と幻想の区別が消えること──伝統的な権威の衰退、ソーシャルメディアの広い普及、「本当の生活」という現象学への侵食など──を可能にした構造的条件にこだわり続ける人もいるかもしれないが、それらはすべて同じ結論につながっている。我々はもはや虚偽と真実とを、見かけと現実とを、確実に区別することはできない。長く続いてきた西洋哲学の取り組みは行き詰まりに達し、その結果、誰でも何でも言えてしまえるだけでなく、その「何でも言う誰か」が地球上最強の国の最高権力者である、ということがあり得るようになったのだ。ポストモダン状態にようこそ!

 

[1] Roland Barthes, Mythologies, trans. Annette Lavers (New York: Farrar, Straus & Giroux, 1972), introduction. (訳注:引用部分の訳は、ロラン・バルト『現代社会の神話』(下澤和義訳、みすず書房)によるが、文脈を考えて変更したところもある)

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「ステイホーム」の号令下で、いつもとはまったく異なる日々を自宅で過ごした読者も多かったのではないだろうか。スマホやパソコンを手放すことの出来ない時間が飛躍的に増え、コミュニケーションから生活、余暇のすべてがこうしたデバイスに支えられていることを実感しただろう。カナダでポピュラーな哲学者・Mark Kingwellが「退屈」という概念を哲学的に考察することで、こうした事態を巡る問題に警鐘を鳴らした『退屈とインターフェース』から、現下の状況に関わりの深い第二部をアメリカ文学研究者、上岡伸雄の翻訳連載で送る。

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プロフィール

上岡伸雄

1958年生まれ。翻訳家、アメリカ文学研究者。学習院大学文学部英語英米文化学科教授。東京大学大学院修士課程修了。1998年アメリカ学会清水博賞受賞。フィリップ・ロス、ドン・デリーロなど現代アメリカを代表する作家の翻訳を手がけている。著書に『テロと文学 9.11後のアメリカと世界』、『ニューヨークを読む』、訳書に『リンカーンとさまよえる霊魂たち』、『ワインズバーグ、オハイオ』、共著に『世界が見たニッポンの政治』など。

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