なぜ働いていると本が読めなくなるのか 第1回

労働と読書は両立しない?

三宅香帆

●労働と読書は両立しない?

麦「俺ももう感じないのかもしれない」

絹「……」

麦「ゴールデンカムイだって七巻で止まったまんまだよ。宝石の国の話もおぼえてないし、いまだに読んでる絹ちゃんが羨ましいもん」

絹「読めばいいじゃん、息抜きくらいすればいいじゃん」

麦「息抜きにならないんだよ。頭入んないんだよ。(スマホを示し)パズドラしかやる気しないの」

絹「……」

麦「でもさ、それは生活するためのことだからね。全然大変じゃないよ。(苦笑しながら)好きなこと活かせるとか、そういうのは人生舐めてるって考えちゃう」

(坂元裕二『花束みたいな恋をした』p114、リトル・モア、2021年)

生活するためには、読んで何かを感じることを、手放さなくてはいけない。そんなテーマを通して若いカップルの恋愛模様を描いた映画『花束みたいな恋をした』は、2021年に公開され、若者を中心にヒットした。私自身は主人公の年齢とほぼ同い年なのだが、面白く観たし、なにより働いている同年代の友人たちが「最近見た映画の中でいちばん身につまされたよ……」と何とも言えない表情で感想を語っていたのが印象的だった。実際、ネットでもずいぶん熱心な感想を書く人は多かった。

この映画の主人公は、麦と絹という一組のカップルである。大学生の時に出会い、小説や漫画やゲームといった文化的趣味が合ったふたりは、すぐに恋人になる。しかし同棲し就職するなかでふたりの心の距離は離れてゆく。とくに会社の仕事に熱中し始めた麦は、それまで好きだった本や漫画を読まなくなる。そんな麦に、絹は失望を抱えるようになる。

『花束みたいな恋をした』において、長時間労働と文化的な趣味は相容れないものとされる。麦は営業マンとして夜遅くまで働く一方、絹は残業の少ない職場で自分の趣味を楽しんでいる姿が描かれる。二人のすれちがいが決定的になるのは、絹が出張に行く麦に、芥川賞作家の滝口悠生の小説『茄子の輝き』を手渡すシーン。麦はそっけなく受け取り、出張先でも本を乱暴に扱うさまが映し出される。一見よくある若いカップルの心の距離を描いた物語に見えて、このストーリーの背後には、「労働と、読書は両立しない」という暗黙の前提が敷かれている。

実際、私の友人たちが「身につまされた」と語っていたのは、麦と絹の恋人関係そのものよりも、麦の読書に対する姿勢だった。「働き始めた麦が本を読めなくなって、パズドラを虚無の表情でやっていたシーン、まじで『自分か?』と思った」と友人たちは幾度も語った。働き始めると本が読めなくなるのは、どうやら映画の世界に留まらない話らしい。

私は、この作品を見たとき映画としての作劇や演技の完成度に感嘆しながらも、こう感じた。この映画がヒットした背景には「『労働と読書の両立』というテーマが、現代の私たちにとって、想像以上に切実なものである」という感覚が存在しているからではないだろうか? と。もっといえば、今、働くことと文化を楽しむことの両立に、想像以上に多くの人が困難を感じているのではないだろうか。

●速読、情報処理スキル、読書術

実際、映画で描かれていた通り、現実においても人々は「労働」と「読書」の間で悩んでいる。それを象徴するのがAmazonの「読書法」ランキングだ。

この分野の売れ筋ランキングを覗いてみると、『独学大全 絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』(読書猿、ダイヤモンド社)、『忘れる読書』(落合陽一、PHP研究所)、『1冊3分で読めて、99%忘れない読書術』(山中恵美子、SBクリエイティブ)など、さまざまな読書法や学習法の書籍が並んでいる。現代の読書法には、読書を娯楽として楽しむことよりも、情報処理スキルを上げることが求められているのだ。それがよく分かるタイトルの並びではないだろうか。

たしかに自分が書店に行っても、速読本はいつでも人気で、「東大」や「ハーバード大学」を冠した読書術本が書店に並び、ビジネスに「使える」読書が注目されている。「速読法」や「仕事に役立つ読書法」をはじめとして、速く効率の良い情報処理技術が読書術に求められている。それは多くの人が「労働と読書の両立」を求める結果ではないだろうか。

2022年に集英社新書から『ファスト教養』(レジ―)が刊行されたが、「ファスト教養」が求められる背後にもまた、現代の労働を取り巻く環境が影響していることが指摘されている。『花束みたいな恋をした』に象徴的であるように、娯楽としての読書の変化は、労働の在り方が変化していることに明らかに影響を受けている。

だとすれば、実はこう言えるのではないか。――読書について語ることは、実は私たちの労働や生活について語ることでもある、と。

●社会の格差と読書意欲

冒頭に紹介した映画『花束みたいな恋をした』の麦と絹の対比には、「労働環境が異なる」特徴以外に、もう一点気になる属性がある。

それは麦と絹の階級的格差だ。麦は地方の花火職人の息子であり、仕送りが止められる場面も描かれる。しかし絹は都内出身で、親は広告代理店に勤めオリンピック事業にも関わっている。この出身の格差は、麦と絹の労働の対比にも影響をもたらしている。つまり、この映画は「読書の意志の有無が、社会的階級によって異なる」ことを描いた物語にも読めてくるのだ。

実はこれと同じ話が、Amazon「読書法」カテゴリランキングの一位を飾る『独学大全 絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』にも書かれてある。

勉強本を買うほどに、学ぶことに関心を持つことができた者は、それだけ恵まれているということだ。現代では、格差はまず動機付けの段階で現れる(注3)。そのことを薄々感じるからこそ、学ぶ動機付けを持てなかった者は「勉強・学問なんて役に立たない」と吐き捨てるだけで済まさず、僻み根性を拗らせて、幸運にも動機付けを持てた〈めぐまれた連中〉に嫌がらせまでするようになる。これに対して、こうした連中を見下したい〈意識の高い連中〉は、自分が学ぶ動機付けを持った人間だと思いたい一心で、あれこれの勉強本を買い漁る。

(注3)苅谷剛彦『階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差(インセンティブ・ディバイド)社会へ』(有信堂高文社、2001)

(読書猿『独学大全 絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』ダイヤモンド社、2020年)

つまり読書しようと思う意志の有無に、社会の階級格差が影響を及ぼしている、ということである。

もちろん、『花束みたいな恋をした』の麦が「スマホのゲームならできるけど、本や漫画は読めない」と述べたときの「本や漫画」は、勉強というよりも文化的な娯楽、という意味だ。しかし『独学大全』が述べる「勉強・学問」と、『花束みたいな恋をした』の指す「ゴールデンカムイ」や「宝石の国」が離れたものであるとは私には感じられない。というか、ほぼ同じもの――つまりは自分の余暇の時間を使って文化を享受しようとする姿勢――だろう。

『花束みたいな恋をした』の麦と絹の、文化的趣味に触れる姿勢の背後にある階級格差は、『独学大全』の指摘する、勉強学問に触れる姿勢の背後にある階級格差と同様のものではないだろうか。そしてそれがどちらも2020年~2021年に指摘された問題であることは、決して偶然ではないだろう。

「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢつと手を見る」……と詠んだのは明治時代の石川啄木だったけれど、現代でもやっぱり、はたらけどはたらけど、暮らしは楽にならない。それどころか、私たちは本を読む余裕さえなくなっている。暮らしは社会の格差を反映するし、その暮らしは本を読む時間すら、手に入れさせてくれない。

私たちが本屋で本を手に取るとき、そこにはすでに社会が背後にある。だとすれば労働と読書の関係を探ることは、私たちの社会全体の問題を読み解くことでもあるのではないだろうか。

●日本人はいつ本を読んでいたのか


ここまで見てきた内容で、現代に生きる私たちは「労働と読書の両立」に苦しんでいることがよく分かった。
しかし、それではこれまでの働く日本人たちは、労働と読書を両立させられていたのだろうか?
というのも「日本といえば長時間労働」と評される機会はしばしば存在する。そのような状況下で、日本人はこれまで読書とどう向き合ってきたのだろうか。単純に考えると、現代は法律や制度が整備され、100年前に比べて労働環境は改善されているはずだ。しかし、文化的趣味を享受する時間が取れない、という嘆きは100年前より現代のほうがむしろ強まっているように感じる。こうした矛盾が生まれる背景には、なにがあるのだろうか。
そもそも日本人の近代的な読書習慣は、明治以降に始まった。詳しくは後述するが、そこには明治政府の思惑も絡んでいた。つまり日清・日露戦争後の政府は、文明国としての文化・教育水準を高めるために読書を推奨した。一部エリート層ではなく、国民全体の知的水準の向上のために、読書という趣味に白羽の矢が立ったのだ。
小学校卒業以降の青年たちの学力低下を防ぎ、文化的水準を保つために明治政府は「読書国民」の創出を国家の課題とした。[i]かくして日本人の「読書国民化」が、国家主導で達成された、ということになっている。
しかし、不思議だと思わないだろうか。日本人は戦前既に長時間労働が問題になっていた。一方、戦前の日本は読書が推奨されたという。はたしてこれまでの日本人は、一体いつ本を読んでいたのだろう?
「読書国民」でありながら「残業国民」である。両立が難しいであろう読書と労働の関係は、なぜ生まれたのか。本連載では明治時代から現代にかけての労働と読書の在り方を並べてみることで、日本人の読書観を明らかにする。労働と読書の歴史を振り返ることは、「働きながら本が読めない!」と悩んでいる人たちへのヒントになるはずだ。


[i] 永嶺重敏『“読書国民”の誕生―明治30年代の活字メディアと読書文化』(日本エディタースクール出版部、2004年)

第2回  
なぜ働いていると本が読めなくなるのか

「大人になってから、読書を楽しめなくなった」「仕事に追われて、趣味が楽しめない」……そのような悩みを抱えている人は少なくないのではない。しかし、それは現代だけの悩みなのだろうか。書評家・批評家の三宅香帆が、明治時代から現代にかけての労働と読書の歴史を振り返ることで、日本人の読書観を明らかにする。

プロフィール

三宅香帆

みやけ かほ 

作家・書評家。1994年生まれ。高知県出身。京都大学大学院人間・環境学研究科博士前期課程修了(専門は萬葉集)。著作に『人生を狂わす名著50』(ライツ社)、『文芸オタクの私が教えるバズる文章教室』(サンクチュアリ出版)、『副作用あります!?人生おたすけ処方本』(幻冬舎)、『妄想とツッコミで読む万葉集』(だいわ文庫)、『(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説を面白く読む方法』『女の子の謎を解く』(笠間書院)、『それを読むたび思い出す』(青土社)、『(萌えすぎて)絶対忘れない!妄想古文』(河出書房新社)。

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労働と読書は両立しない?