1. 活版印刷による「黙読」文化誕生
●長時間労働と明治時代の幕開け
さて、時計の針を明治時代まで戻そう。
日本の労働が現代の様式と近くなったのは、明治時代――日本が江戸幕府から明治政府へその政権を移し、そして欧米から取り入れた思想や制度によって近代化を成し遂げようとする時代のことであった。
そもそも「労働」という言葉が使われ始めたのも、明治時代に変わってからだった。翻訳語で「労働」という言葉が広まり始めた頃、日本人の働き方はすでに長時間労働の傾向にあったという。『仕事と日本人』(武田晴人)[i]によると、明治時代の日本の工場労働者たちは、農民時代と比較して長時間働くようになっていたのだ。
西欧での残業に対する考え方と比べると、日本では残業は一般化していたようです。先ほどの日本工業協会の資料によると、一九三七年に東京の工場ではかなりの長時間の残業が観察されています。この年は、まだ本格的に戦争経済には突入していない時期です。戦前の日本経済の状況のなかでは、平時の経済発展の頂点にあると見なされることが多い、そういう基準になるような年です。
この年の調査によると、一日の平均残業時間は二時間前後で、染織(繊維)工業や機械器具工業の男子では三時間に近く、最長では化学工業の一二時間、これは昼夜連続して交代勤務を通しで働いたということでしょう。
(『仕事と日本人』p172)
武田はこのような状況の背景に「労働組合が弱かったこと」「残業による割増賃金が魅力的だったこと」があったと指摘する。[ii]
当時、石川啄木はすでに「最近はみんなせっかちだ」と嘆いていたらしい。
意地の悪い言い方をすれば、今日新聞や雑誌の上でよく見受ける「近代的」という言葉の意味は、「性急なる」という事に過ぎないとも言える。同じ見方から、「我々近代人は」というのを「我々性急(せっかち)な者共は」と解した方がその人の言わんとするところの内容を比較的正確にかつ容易に享入(うけいれ)得る場合が少くない。
(「性急な思想」石川啄木[iii])
労働という概念が輸入され、工業化が進み、それにともない労働時間も増えていった明治時代。おそらく当時の人々がせっかちにならざるを得なかった。そこに急速な時代の変化が背景にあったのは確かなのだろう。
[i] 武田晴人『仕事と日本人』ちくま新書(筑摩書房、2008年)
[ii] さらに武田は『仕事と日本人』の中で、あるフランス人が大阪の都市の印象を1897年時点で「人々せわしげに動き周り、駆け回るばかりだ」と感じていたことを紹介している。
[iii] 石川啄木「石川啄木集(上)」新潮文庫(新潮社、1951年)
●黙読の誕生
そんな明治時代初期に読書界に起きた革命と言えば、「黙読」の誕生だった。
なんと江戸時代において、読書といえば朗読だったのだ。当時、本というものは個人で読むものというよりも、家族で朗読しあいながら読むものだった。実際、森鴎外が『舞姫』を書き上げたとき、その内容を家族の前で朗読したというエピソードが残っているが、これは江戸時代の文化が存在していたからこそ成立する話であろう。
しかし明治時代、黙読という文化が生まれる。その背後には、木版印刷から活版印刷によって莫大な出版物が市場に登場するようになったという技術革新が存在した。活版印刷によって大量に書籍は印刷できるようになり、そして大量の書籍が市場に出回り、すると個人の読書が誕生するようになる。近代の読書の変化について解説した前田愛は、この変化を「自我にめざめて行く近代人とのダイナミックな相互作用」[i]と呼んだ。明治時代の技術革新と精神の変化があってはじめて、日本人は「自分の読みたいものを読む」という趣味を得たのである。
黙読は日本語の表記も変えた。黙読の普及によって「もっと目で読みやすい表記を作り出す」という目標が出版界に生まれた。そうして誕生したのが句読点である。句読点の使用が急速に普及したのは明治10年代後半~20年代のことだった。[ii]
明治時代に活版印刷が登場し、それにともなう表記の変更により、本は急速に読みやすいものとなっていった。
本が市場に出回り、たくさんの人に読まれるようになると、本を手にする環境も変化する。書店の興隆はもちろん、図書館や古書店の登場によって、明治時代に本というメディアは一気に広まった。このような文化の変化によって、現代の私たちが想像するような「読書」は明治時代にはじめて生まれたのである。
[i]前田愛『近代読者の成立』「明治初年の読者像」岩波現代文庫p159(岩波書店、2001年)
[ii] 永嶺重敏『雑誌と読者の近代』p7(日本エディタースクール出版部、1997年)
●「自分のニーズに合った読書をする」という図書館の文化
われわれが知っているような読書の形式が広まる過程において、図書館の登場は大きな役割を果たした。日本の図書館史について研究する永峯重敏は「図書館での読書体験を通じて、人々は近代的な読書習慣を獲得した」と述べる。
西洋からの輸入制度である明治期の図書館の読書空間は、明治社会のただ中に人為的に創出された「近代読書」のモデル空間であった。その特徴を分析すると、まず第一に、図書館は書物の「多読的」な読書空間であった。明治前期の社会にあっては書物の普及がまだ弱く個人で利用できる書物はきわめて少なかったために、人々は特定の限られた書物を繰り返し熟読する「読書百遍」的精読法が支配的であった。これに対し、図書館では冊数制限こそ設けられていたものの、利用者は各自の読書興味に応じてあらゆるジャンルの多様な書物を好きなだけ読むことが可能であった。
(p236[i])
好きな本を、好きなだけ借りることができる。それが図書館の効用だった。しかし永峯いわく、明治時代の図書館の利用者の大半は学生に留まっていたらしい。
明治時代の文学を読むと、たしかにその様子は伺える。たとえば夏目漱石の『三四郎』には東京帝国大学の図書館が登場する。
主人公の三四郎が、大学図書館に行って本を借りる。しかし彼はそれを熱心に読むわけではない。ただ「他の人が読んでいない本はないか」探すだけで終わるのだ。三四郎の「読書」への憧れと距離を感じるエピソードである。
三四郎は一年生だから書庫へはいる権利がない。しかたなしに、大きな箱入りの札目録を、こごんで一枚一枚調べてゆくと、いくらめくってもあとから新しい本の名が出てくる。しまいに肩が痛くなった。顔を上げて、中休みに、館内を見回すと、さすがに図書館だけあって静かなものである。しかも人がたくさんいる。そうして向こうのはずれにいる人の頭が黒く見える。目口ははっきりしない。高い窓の外から所々に木が見える。空も少し見える。遠くから町の音がする。三四郎は立ちながら、学者の生活は静かで深いものだと考えた。それでその日はそのまま帰った。
次の日は空想をやめて、はいるとさっそく本を借りた。しかし借りそくなったので、すぐ返した。あとから借りた本はむずかしすぎて読めなかったからまた返した。三四郎はこういうふうにして毎日本を八、九冊ずつは必ず借りた。もっともたまにはすこし読んだのもある。三四郎が驚いたのは、どんな本を借りても、きっとだれか一度は目を通しているという事実を発見した時であった。それは書中ここかしこに見える鉛筆のあとでたしかである。ある時三四郎は念のため、アフラ・ベーンという作家の小説を借りてみた。あけるまでは、よもやと思ったが、見るとやはり鉛筆で丁寧にしるしがつけてあった。この時三四郎はこれはとうていやりきれないと思った。
(夏目漱石『三四郎』[ii])
私はなんともこの場面が好きなのだ。それはおそらく、これが図書館という場所の意味を端的に描いた場面だからだと思う。
九州の田舎から上京し、大学に入ったばかりの三四郎は、こんな大量の本を目にしたことがなかった。いくら読んでも新しい本がまだある。そして自分以外の人が、大量の本を読んでいる。それは現代よりも更に新鮮な驚きだっただろう。
明治時代に図書館で大量に本を借りて読むような趣味は、エリート学生をはじめとするインテリ層の男性のものだった。しかしそのインテリ男性にとってすら、自分の読みたい本を「選んで」読むのは、きわめて新鮮で目新しい行為だったのだ。夏目漱石はその様子を『三四郎』において端的に描いている。
ちなみに、地方の各町村に図書館が登場するのは、大正時代の到来を待たなくてはいけなかった。[iii]日露戦争後の地方改良運動によって、日本の地方の図書館は飛躍的に増えた。なかでも地方だとしても各町村に絶対図書館を作る、ということが決まってから、なんと日本の図書館の数は十年間で四倍になるほど増えた。「特定階級のための図書館ではなく、町村部の一般庶民のための図書館」の登場――大正時代になってはじめて、階級や地方に関係のない読書の習慣は広まる。が、明治時代は、まだ読書はインテリ層の男性のものだった。
[i] 『“読書国民”の誕生―明治30年代の活字メディアと読書文化』
[ii] 夏目漱石『三四郎』新潮文庫、(角川文庫クラシックス、角川書店、初出1908年)
[iii]『“読書国民”の誕生―明治30年代の活字メディアと読書文化』
2.日本初の男性向け自己啓発書『西国立志編』
●「仰げば尊し」と立身出世の明治時代
ところで、あなたは「仰げば尊し」を歌ったことがあるだろうか?
歌詞の意味もわからず歌ったことのある方も多いかもしれない。が、「仰げば尊し、わが師の恩」という言葉から始まる歌詞を聴いたことはあるのではないか。昭和の卒業式の歌、という印象を持つ方もいるかもしれない(ちなみに私は平成生まれだが高校の卒業式で歌った思い出がある)。
この歌の歌詞をしっかり読むと、「学校を卒業した後、教師に教わった恩を忘れず、出世するべく頑張れ」と鼓舞する歌であることがよく分かる。とくに注目すべき歌詞はここだ。
「身をたて名をあげ やよはげめよ」
そう、何はともあれとにかく「身をたて、名をあげ」ること。それが、『仰げば尊し』の望む学校を卒業した後の若者像である。幸せになるとか健康でいるとかそんなことより、まず、立身出世し、名声を得ることが重要だという。
なんだか言葉は古臭いわりに、現代的な競争社会を煽る価値観の歌だなと思われるかもしれない。しかし実はこの歌、明治17年にはすでに小学唱歌集(音楽の教科書)に収録されていた。昭和や平成ではなく、100年以上前、実は明治時代の教育的価値観が反映されている歌詞なのである。
明治の日本は、職業選択の自由、そして居住の自由が唱えられた。これまで住む場所すら決められなかった青年たちは、田舎から都会へ出て、そして出世し手柄を上げる夢を見るようになる。江戸時代は武士が立身、町人が出世、とそれぞれの身分にあった野心に留められていたのに対し、明治時代はその二つが重なるところに野心を持つことができる時代だった。たとえば明治政府の出した「五箇条の御誓文」(明治元年)や「学制被仰出書」(明治五年)を眺めてみても、これは「身分ではなく実力によって出世することができることを押し出した政府文書」であることが分かる。このような明治の時代状況を研究する竹内洋は、『立身出世主義』[i]において、明治時代の価値観について以下のように解釈する。
武士の立身と町人などの庶民の出世という分節化は終わり、立身出世というひとつながりの言葉が使用されるようになる。立身出世を志向する態度に価値(望ましさ)が付与され、志を立て広い世間で出世し、故郷に錦を飾る人間への焚きつけがおこった。立身出世主義の時代が開幕したのである。
(『立身出世主義』p21)
『仰げば尊し』の歌が作られたのは、まさに「身をたて名をあげやよはげめよ」――「立身出世主義の時代」が始まった頃のことだった。
そして出版業界においても、当時はじめて立身出世を煽るベストセラーが誕生した。
[i] 竹内洋『立身出世主義―近代日本のロマンと欲望』(日本放送出版協会、1997年)
●明治時代のミリオンセラー
ベストセラーとは、時代の空気にベストタイミングで合致した本を出した時にだけ起こる、台風のようなものではないか。そうだとすればまさに本書は、立身出世主義が加速していったそのエンジン音と共に、ベストセラーに駆け上がった書籍だった。
『西国立志編』――イギリスのスマイルズの著作を中村正直が翻訳した書籍が、明治初期に大ベストセラーとなる。
日本の歴史に詳しい方であれば、「え、明治時代の立身出世を説いたベストセラーといえば、『学問のすゝめ』じゃないの?」と思われた方もいるかもしれない。たしかに明治5年に刊行された福沢諭吉の『学問のすゝめ』は、5年で18万部売り上げるベストセラーとなった。しかしそれは県庁から区長を通して各区に一定数が割り当てられ、公的な流布もおこなわれたからこそ到達した数字だといわれている。[i]
しかし明治3年に刊行された中村正直翻訳の『西国立志編』は、更に売れた。明治時代も終わりに差し掛かると出版部数の伸びが落ちた『学問のすゝめ』に対し、なんと『西国立志編』は大正時代に至るまでベストセラーの地位を維持している[ii]。明治末までに100万部は売ったらしい。まだ人口5000万人だった日本において、驚異の売り上げと言っていいだろう。
本書は欧米の成功者のストーリーとその教訓を集めた書籍だが、同時に西洋の価値観を紹介するものであった。たとえば「天は自ら助くる者を助く」という現代でも有名なことわざも、実はHeaven helps those who help themselves.という西洋のことわざを翻訳したもので、この書籍が初出だった。
[i] 『近代読者の成立』
[ii] 大澤絢子『「修養」の日本近代 自分磨きの150年をたどる』(NHK出版、2022年)
●”Self-Help”と自助努力の精神
本書はイギリスのベストセラー”Self-Help”を翻訳した書籍である。ページを捲ると、そこには300人以上の欧米人の成功談がひたすら挙げられている。例えばニュートン、ナポレオン、ウェッジウッド等、欧米の成功者の伝記を教訓とともに収録しているのだ。
たとえば、イギリスの発明家であるジェームズ・ワット(電力の「ワット数」の由来となる人物だ)のことを説いた章が以下の通りだ。
七 ジェームズ・ワットの勤勉、ならびにその心思を用いて習慣となれること
ワット(James Watt)は、最も勉強労苦せる人と称すべし。その生平の行跡を観るときは、絶大のことを成し、絶高の功を収むるものは、天資(生まれつき)、大気力ありて大才思ある人にはあらずして、絶大の勉強をもって、極細の工夫を下し、慣習経験によりて、技巧の知識を長ずる人にあることを知るべきなり。この時にあたり、ワットよりすぐれて知見の広き人は、あまたありしかども、勉強を居恒(ふだん)の習いとして、およそその知るところのものを、有用の実物練習に運転すること、ワットのごときものは、独りもなかりけり。
なかんずくその心思、もっとも恒久忍耐にして、真証実験を求むることをもって務めとし、また常に勤めて心思を用うることを習い養えり。
(『西国立志編』[i])
ここで使われている「心思」は現代語でいう「精神」に近しい意味である。「心思を用いる」は「精神力を使う」くらいの意味。つまりこの文章の言いたいことは、「ワットは天才だったわけではなく、勉強を習慣にして、勤勉に頑張り、忍耐力のある精神を身につけていたからこそあんな大発明ができたのだ」ということなのだ。才能や身分ではなく、自分の努力が大切。それがワットから学ぶ成功の秘訣、ということだ。
このように本書はさまざまなサクセスストーリーを掲載しているが、ほとんどが「身分や才能ではなく、自分で努力を重ねたからこそ成功した」という教訓を最後に付記する。忍耐や節約、あるいは強靭な精神力に、勉強の習慣。そのような日々の訓練によって、これらの成功者は誕生した。それしか言っていないに等しい。英語の書籍名は”Self-Help”、つまり「自助努力」。内容を端的に表現した秀逸なタイトルである。
元々本書は、スマイルズが労働者の青年たちに「労働者階級の教育」というテーマでおこなった講演が元ネタである。それは労働者階級の自助努力の重要性を、さまざまな偉人の事例にもとづいて語る講演だったらしい。[ii]
本書が世界中でベストセラーになった理由として、渡部昇一はその偉人のセレクトにあったと説明する。「それまでの伝記と言えば、たいてい王様や将軍や貴族や文人のものであったが、スマイルズは主として、ふつうの市民で一業を成した人の伝記を、実証的に入念にえがくという分野を切りひらいた。これがまた産業革命の先進国イギリスの好みに合い、またイギリスの後を追っていた諸国民にも読まれた」[iii]という。たしかに、一代で出世する成功者の物語は、王様や貴族といったもともと身分が高かった人々の成功譚よりも、労働者階級に響くサクセスストーリーだろう。貧乏ながらに努力した、周りに恵まれなくとも勤勉さを失わなかった。その物語こそが当時の人々の心をつかみ、ベストセラーとなったのだろう。
[i] サミュエル・スマイルズ著、中村正直訳『西国立志編』講談社学術文庫p108-109(講談社、1981年)
[ii]『「修養」の日本近代 自分磨きの150年をたどる』
[iii] 渡部昇一「中村正直とサミュエル・スマイルズ」(『西国立志論』講談社学術文庫収録)p551-552
3.修養ブームの誕生
●「ホモソーシャル」な「自己啓発書」の誕生
『西国立志編』は、勤勉であることや努力すること――つまり「修養」が立身出世に繋がることを何度も強調する。重要なのが、『西国立志編』は「修養」という言葉を日本ではじめてつかった書籍であるということだ。[i]Cultivationやculture、cultivateといった単語を中村は「修養」と訳した。『西国立志編』のベストセラー化によって、「環境に頼らず自分で努力しよう」という思想が明治時代には広まっていった。
しかし本書を現代の私たちが読むと、そのホモソーシャルな空気に驚くのではないだろうか。というのも自助努力を説く上で登場するのはほぼすべて男性である。そこに女性の介入する余地はない。更に本書に登場する成功者たちは、家庭などを顧みる時間もなく、ただただ立身出世のために努力を重ねる姿が描かれる。
しかしそのような男性権威的な世界観で、マッチョイズムな努力を説く『西国立志編』は、日清・日露戦争へと向かう当時の日本の時流にも合致していた。竹内[ii]は『西国立志編』を「立身出世の焚き付け読本」と呼んだ。実はその後、明治時代の著名な男性――幸田露伴、渋沢栄一、村上俊蔵などさまざまな各界の男性たち――が何人も「影響を受けた読書」として、本書を挙げる。『西国立志編』がいかに当時立身出世を目指す男性たちのバイブルであったのか、よく分かる例だろう。
大澤絢子[iii]は『西国立志編』が打ち出す「修養」の思想を、現代の自己啓発書ジャンルに通じるところがある思想だと指摘する。現代の自己啓発書の研究をする牧野智和[iv]は、「自己啓発書は男性中心主義的なジャンル」であることを指摘しているが、まさにその源流は明治時代から始まっていたのだ。
つまり、現代の自己啓発書にも通じる「男性たちの仕事における立身出世のための読書」の源流はまさにここにあった。働く男性社会と、成功するための心構えを説く成功譚は、ここですでに一緒になり「自己啓発書」というジャンルを作り出していたのである。
[i] 『「修養」の日本近代 自分磨きの150年をたどる』
[ii] 『立身出世主義―近代日本のロマンと欲望』
[iii] 『「修養」の日本近代 自分磨きの150年をたどる』
[iv]牧野智和『自己啓発の時代 「自己」の文化社会学的探究』(勁草書房、2012年)
●ビジネス雑誌の流行
「自己啓発」とは明治時代においては「修養」と呼ばれていたが、「修養」はその後もひとつのブームとなる。明治時代後半、「修養」を説く書籍や雑誌が人気を博した。『西国立志編』から続く、「修養ブーム」と呼ばれる流れのことである。
明治35年に刊行された雑誌『成功』は、「立志独立進歩之友」という文字を描いた表紙ともに創刊される。この雑誌は偉人伝を中心に掲載していたが、他に大きく収録していたのが「修養」の欄である。[i]「成功の秘訣」を寄稿してもらうこの欄の著者は、政官財界あるいは教育界の著名人がほとんどだった。雑誌『成功』は、明治時代に見事成功をおさめ、一万部以上を発行する人気雑誌となる。読者はノンエリートの労働者階級が中心だったらしい。[ii]
明治30年に刊行された『実業之日本』もまた、同じく明治時代に広く読まれた雑誌だった。内容は、日本の青年たちに向けて政治や経済の時事、そして処世術やビジネステクニックについて掲載されている。現代のビジネス雑誌の源流といっても良いだろう。読者層は経済界の業界人から、労働者階級に至るまでさまざまな層が存在しており、当時最も読まれた雑誌のひとつになった[iii]。この雑誌は、成功者の名前とその生き方を載せるとともに、新渡戸稲造の説く精神の修養の重要性の記事なども載せていた。明治時代の働く青年たちに「修養」の思想を流行させる一助を担っていたのである。
[i] 三上敦史「雑誌『成功』の書誌的分析 ―職業情報を中心に―」(愛知教育大学研究報告教育科学編 61、2012年)
[ii] 雨田英一「近代日本の青年と「成功」・学歴–雑誌『成功』の「記者と読者」欄の世界」(学習院大学文学部研究年報35、1988年)
[iii] 『雑誌と読者の近代』
●欧米の思想的影響
雑誌『成功』の表紙には、英米の偉人たちの肖像が描かれるのが通例であった。創刊号にはリンカーンの横顔が描かれている。さらに『成功』の雑誌名の由来も、当時アメリカで流行していた雑誌”SUCCESS”によるものだったらしい。[i]そう、明治時代の「修養」を押し出した雑誌は、なにより欧米の思想を輸入するような形で流行していった。
また書籍においても、欧米の自己啓発的ジャンルの書籍を翻訳したものは、多く売れていた。たとえば明治40(1907)年に刊行された『快活なる精神』(マーデン著、波多野烏峰訳、実業之日本社)は当時人気を博していた。
マーデンの著作は、ポジティブに行動することで成功するという、精神の明朗さと実業の成功が繋げて語られるところが特徴的である。これらの書籍は、19世紀末からアメリカで流行した「ニューソート」という思想の宗派をもとにして綴られている。この「ポジティブ思考信仰」とも言えるニューソート由来の思想は、『人を動かす』『思考は現実化する』といった、現代でもベストセラーとなっているアメリカの自己啓発書を生み出すに至る。[ii]このようなジャンルの先駆けであったマーデンの著作は、既に明治時代、日本で流行していたのだ。
「自己啓発書の流行」というと現代において最近始まった流行のように感じられる。しかしその源流は明治時代にすでに輸入され、日本で流行していた。「成功」「修養」といった概念と共に日本の働く青年たちに広まっていたのである。
『西国立志編』から始まり、『成功』などの雑誌に至るまで、欧米の自己啓発的思想の輸入は、日本のベストセラーを作り続けていた。
[i] 『「修養」の日本近代 自分磨きの150年をたどる』
[ii] 『「修養」の日本近代 自分磨きの150年をたどる』
●「ビジネス書」をめぐる日本の階級格差
折しも明治時代後半は、日清戦争や日露戦争といった戦争をきっかけに、産業革命が起きた時代だった。「富国強兵」を掲げる明治政府のもとで、欧米の産業革命にならう形で、日本においても重工業は飛躍的に発展する。鉄道の整備や鉱業の注力には労働力が必須だったのだ。それまで農業に従事していた男性たちが、一気に重工業を担う働き手となる必要があった。
その労働の様子は、ジャーナリストの横山源之助が綴った『日本の下層社会』(1899年、明治32年)に克明に綴られている。横山によると、なんと労働者は1日13~16時間も働いていたらしい。横山は長時間労働を問題視する姿勢を見せていた。しかしその待遇が改善されるのはもう少し先のことであった。
そのような労働環境の中で、『成功』や『実業之日本社』といった雑誌は、工場の図書室に置かれることがあったらしい。[i]工場で働く労働者たちは、これらのビジネス雑誌に職場で触れていたことが伺える。明治時代の読書といえば、インテリ層の男性たちによる文芸の読書が思い浮かぶかもしれない。しかし実は雑誌や自己啓発書を中心として、労働者階級にも読まれる書籍は存在していたのである。
ちなみに当時のインテリ層によるビジネス雑誌へのまなざしは、意外にも夏目漱石の小説に刻まれている。夏目漱石の『門』において、主人公の宗助が歯医者へ寄った場面。歯医者の応接間に『成功』の雑誌が置いてあったのだ。
宗助は大きな姿見に映る白壁の色を斜めに見て、番の来るのを待っていたが、あまり退屈になったので、洋卓の上に重ねてあった雑誌に眼を着けた。一二冊手に取って見ると、いずれも婦人用のものであった。宗助はその口絵に出ている女の写真を、何枚も繰り返して眺めた。それから「成功」と云う雑誌を取り上げた。その初めに、成効の秘訣というようなものが箇条書にしてあったうちに、何でも猛進しなくってはいけないと云う一カ条と、ただ猛進してもいけない、立派な根底の上に立って、猛進しなくってはならないと云う一カ条を読んで、それなり雑誌を伏せた。「成功」と宗助は非常に縁の遠いものであった。宗助はこういう名の雑誌があると云う事さえ、今日まで知らなかった。
(夏目漱石『門』[ii])
『門』は日本が日米通商条約を結び、日清・日露戦争が終わりを迎えた1911年(明治44年)に刊行された。ちょうど産業革命の時代の出来事である。
しかし大学を中退した後、公務員として働く宗助は、「成功」の文字を「縁遠いもの」と感じる。それは宗助のようなインテリ層からして、実学のヒントや成功の秘訣を説く明治時代の空気感が、ひどく遠いものだと思えるということだろう。――ここに、明治時代の働く男性間の階級格差を見出すことができるのではないか。
自己啓発的な雑誌を「そんなものがあることすら知らなかった」と、ひややかな目で見るエリート男性。これはまさに現代でもしばしば見られる現象ではないか。
第1回に挙げた『ファスト教養』(レジー、集英社新書)は、自己啓発書やビジネス書をエリート層がひややかに見つめる様子について触れている。だが遡ること明治時代、夏目漱石の『門』においても、同じように『成功』と冠する自己啓発的ビジネス雑誌を、エリート層にいる宗助は、縁遠いものとして見つめている。宗助は「何でも猛進しなくってはいけないと云う一カ条」と「ただ猛進してもいけない、立派な根底の上に立って、猛進しなくってはならないと云う一カ条」を読んで、雑誌を伏せる。それはまさに明治時代の立身出世を目指す男性たちを、自分とは異なる階層の人間であると感じたからではないか。
ここに「ビジネス書」をめぐる日本の階層格差の物語を見出すことができる。同じ明治時代、『成功』というビジネス雑誌が、一方では大阪の工場の図書室で読まれ、一方では東京の歯医者の待合室で眺められる。一方ではおそらく「それしか読む雑誌がなかった」人間がおり、一方では「そんな雑誌があることさえ知らなかった」人間がいる。それは同じ男性の間でも、日本の階層格差がたしかに存在していた証ではないか。
考えてみれば、第1回で挙げた『花束みたいな恋をした』もまた、ビジネス書をめぐる日本の階層格差の物語が挿入されていた。麦と絹が本屋に行くシーンでのことだ。絹は自分が好きな文芸誌「たべるのがおそい」を見つけ嬉しそうに手に取る。一方、麦はビジネス書コーナーで前田裕二の『人生の勝算』を立ち読みする。東京生まれで親も裕福な絹は、地方生まれで仕送りをもらえない麦がビジネス書を手にすることに、否定的な反応をする。
しかしどうやらそれは現代だけの問題ではないらしい。夏目漱石の『門』から続く、日本の労働と読書をめぐる問題なのである。
[i] 「明治三十八(一九〇五)年の鐘紡中島工場(大阪)の読書室には、『成功』や『太陽』、『工業之大日本』と並んで『実業之日本』が置かれていた。鐘紡では、「職工の徳性の涵養事業」として、従業員を精神面でも教育するために、読書室の設置のほか説諭に説教、礼儀作法の教育など、さまざまな取り組みが行われていた」(大澤絢子『「修養」の日本近代: 自分磨きの150年をたどる』)
[ii] 夏目漱石『門』「夏目漱石全集6」ちくま文庫(筑摩書房、1988年)

「大人になってから、読書を楽しめなくなった」「仕事に追われて、趣味が楽しめない」……そのような悩みを抱えている人は少なくないのではない。しかし、それは現代だけの悩みなのだろうか。書評家・批評家の三宅香帆が、明治時代から現代にかけての労働と読書の歴史を振り返ることで、日本人の読書観を明らかにする。
プロフィール

みやけ かほ
作家・書評家。1994年生まれ。高知県出身。京都大学大学院人間・環境学研究科博士前期課程修了(専門は萬葉集)。著作に『人生を狂わす名著50』(ライツ社)、『文芸オタクの私が教えるバズる文章教室』(サンクチュアリ出版)、『副作用あります!?人生おたすけ処方本』(幻冬舎)、『妄想とツッコミで読む万葉集』(だいわ文庫)、『(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説を面白く読む方法』『女の子の謎を解く』(笠間書院)、『それを読むたび思い出す』(青土社)、『(萌えすぎて)絶対忘れない!妄想古文』(河出書房新社)。