対談

ホーク・ウォリアーを語ろう~忘れじのヘルレイザーズ~

佐々木健介×斎藤文彦
佐々木健介×斎藤文彦

○「いまはお前がリーダーだ」とホークに言われた日

斎藤 ここで健介ヒストリーをちょっとだけ“早送り”させていただくと、マサ斎藤さんのアイディアで、健介さんがロード・ウォリアーズみたいなキャラクターに変身するという大きなプロジェクトが動きだした。92年(平成4年)の秋でしたか。

佐々木 ぼくがアメリカのWCWに短期で遠征していたときでした。マサさんから連絡があって、マイク、ホークですね、彼がぼくとタッグを組んでやっていくと…。でも、ぼくはロード・ウォリアーズをよく知っているじゃないですか、そのすごさを。

斎藤 怪物スーパースターですからね。

佐々木 無理ですよ。最初、マサさんに無理ですと伝えました。自分に自信がなかったんです。でも、まあ1回会って話してみますって答えて、ミネアポリスに行ったんです。

斎藤 じゃあ、ホークとじっくり話したのはそのときから? あれほどのスーパースターなのに、びっくりするくらいナイスガイですよね。どこかで待ち合わせをして?

佐々木 ホテルで待ち合わせをして、ちょっと飲みながら。ぼくのこと、ケンスキーって呼んでくれて。

斎藤 ケンスキーですね。KENSUKEの最後のKEのところを“キー”と発音して。

佐々木 「俺と組もうぜ」みたいな感じで。でも、自信がなかったですね。最初は。「じゃあ、1回、試合してみよう」って言われたんですよ。

斎藤 まだ、おそろいの衣装もない状態で。

佐々木 おたがいにいつものリングコスチュームで。ミネアポリスのバーでの試合。ボロボロのリングで試合をやって、やったあと、あれっ、 楽しいな、いけるかな、うん、やれると思った。で、がっちり握手して、じゃあ、やろうってなって、日本でデビューです。

斎藤 その年(92年)の11月、両国国技館でのデビュー戦では長州&馳と対戦しました。

佐々木 あれも裏話があって、ペインティングはこういうデザインでというのが決まってたんですけど、自分ではうまく描けなくて、ホークがぼくの顔に描いてくれたんです。

斎藤 やさしい!

佐々木 そういう派手なことというか、まだ完全に殻を破れない自分、バーンってはじけられない自分がいたんですけど、ホークと組むようになってその殻が破れた感じがあった。

前座のころ、リング下でセコンドについて観ていたウォリアーズの試合スタイルが頭のなかにずっとあった。だから、あのふたりに恥かかせてはいけないってずっと思ってました。

斎藤 パワー・ウォリアーに変身したら、対戦相手もジュラシック・パワーズ(スコット・ノートン&ヘラクレス・ヘルナンデス)のようなスーパーヘビー級になりました。

佐々木 バケモノですよね(笑)。リング上ではぼくがいちばんちっちゃいんですけど、バカーンってぶつっかっていかなくちゃいけない。倒さなくちゃいけない。だから、体をデカくしなければいけない。力をつけなくてはいけない。ウエートばっかりやって…。

斎藤 ホークとの関係っていうのは、ずっとタッグを組んで試合をしているうちに新しいステージに入っていったわけですか?

佐々木 ある日、試合が終わってふたりでいるときに彼に言われた言葉があったんです。「なあ、ケンスキー」っつって、「以前は俺がアドバイスして、お前はそれについてこようとしてがんばってきたよな。でも、いまは俺がお前についていってるんだ。お前がリーダーだ」って。それを聞いたとき、もう涙が出るくらいうれしかったです。

斎藤 ホークはあれほどのスターなのに、おごり高ぶるところが全然なくて、アニマルとのコンビを解消していた時期ということもあり、新日本の景色のなかにすんなり溶け込み、東京滞在中はよくひとりで六本木を飲み歩いていた。

“ヘルレイザースの章”が終わり、ホークはまたアメリカのプロレス・シーンに戻り、ウォリアーズを再結成して…彼が亡くなったのは2003年ですから、もう18年前になります。健介さんは彼のお葬式に出席しましたね。

健介 そのとき、ホークのご家族と会ったんです。「ケンスキーはわたしたちの家族だから」って、みんながぼくを迎えてくれた。彼が話してくれていたんです。「ケンスキーってこういうやつだよ」って。

斎藤 彼はほんとうにナイスガイで、豪快な人間だったけれど、ひょっとしたら長生きはできないかもしれないという漠然とした感じがいつもどこかにありました。

佐々木 ありました。

斎藤 日本人レスラーでは健介さんがいちばん長い時間をホークといっしょに過ごしました。それはとてつもない財産なんだ、とぼくなんかは勝手に思っています。

佐々木 ほんとうにそうですよ。ホークと組んでいなかったら、もう引退した身ですけど、自分はここまで来ていなかったと思います。言葉だって、英語ができなくても、どういうわけか、いっしょにいると気持ちが通じ合うようになるんです。不思議ですよね。

斎藤 それがプロレスのすごくいいところなんでしょうね。

佐々木 でしょうね。

 

○小橋戦後の控室で「頭は大丈夫か?」と心配された

斎藤 プロレスの世界にはチャンピオンベルトというものがありますね。健介さんはIWGPヘビー級王座を獲った。これは新日本プロレスの最高峰。全日本プロレスには三冠ヘビー級王座(インターナショナル王座&PWF王座&UN王座)がある。これは日本だけでなく世界のプロレス界の至宝。

そして、プロレスリング・ノアにはGHCヘビー級王座というものがあって、これは歴史は比較的浅いんだけど、全日本から所属選手がほぼ全員、ノアに移籍して、新しい権威として生まれたいちばん新しいメジャータイトルです。

佐々木 いや、ほんと、IWGPと三冠とGHCというベルト、結果的に初めて…。

斎藤 健介さんが3団体のリングでチャンピオンになって史上初のグランドスラムを達成した。

佐々木 チャンピオンベルトっていうのはたしかにすごく大きいんですけど、ぼくはぼくと当たってきた選手たちに感謝したいですね。そういうすごい強い人たちがいてくれて、そこで闘えたっていう喜びがベルトと同じくらい大きかった。

斎藤 ノアでは小橋建太選手とのシングルマッチが実現した。

佐々木 小橋選手とは東京ドームで。

斎藤 あの試合(2005年7月18日)を観てプロレスファンになったという世代が存在します。バックハンド・チョップの応酬がいまでも語り草です。

佐々木 すごいやり合った、チョップで。もうここ(胸板を指さして)が真っ黒になって、チョップで皮膚が裂けちゃってね。あんなこと初めてでした。

斎藤 胸全体が内出血でドス黒く変色した。

佐々木 そうです、黒い内出血。試合後、控室に帰ったんですよ。あとからみんなに心配されたんですけど、ぼく、控室でずっとスクワットとかプッシュアップやってたんですよ。

斎藤 なんでなんで? アドレナリン出すぎて?

佐々木 うん、興奮しちゃってね。もう、うれしくて。小橋建太って男とここまで闘えたんだっていう。みんなから聞いたんですけど、頭は大丈夫かってすごい心配したって。

斎藤 その2005年あたりからですが、プロレス界は“暗黒時代”というか、人気がとことん凋落した時期がありました。K-1やPRIDEがブームとなって、毎年大みそかにはNHKの『紅白歌合戦』の裏番組で民放各局がプロ格闘技の番組をオンエアし、そういった試合に出場したプロレスラーが格闘家に負けてしまったりという時代があった。

活字メディアでは『ファイト』『ゴング』が休刊になり、『内外タイムス』『レジャーニュース』といったプロレスを扱っていた駅売りのスポーツ新聞も何紙か姿を消した。

ぼくがいた『週刊プロレス』もつぶれそうだった。2007年の春、ぼくらフリーのライター、カメラマン、デザイナーがみんな会社から呼び出しをくらって「あなたの原稿料を見直しました」とギャラの大幅ダウン提示を受け「これで了承していただければ今後もがんばってください」と。その額がノーならクビです。ぼくはそれを甘受してしまったわけですが。

健介さんは新日本プロレスを退団し、新団体WJプロレス設立に参画して、その後、全日本、ノアに活動の場を移していった。

佐々木 みんな、プロレスが好きで、みんな選手一人ひとりがあきらめずにがんばってきたからいまがあるんですよね。やってる選手たちには夢がある。観ているみなさんにも夢がある。やっている側、観てくれている側がおたがいに夢を…、それが同じような夢だったらいいなって思っていました。

斎藤 健介さんは新日本育ちなので三沢光晴、小橋、全日本に残留した川田利明を含め、全日本出身の選手たちは遠い存在だったのでは? それまではその人たちと交わることはなかった。

佐々木 その日が来るとは思っていなかった。でも、ぼくはフリーになりましたから。おたがいに力を出し切れるときに、小橋選手が病気になる前に闘えてよかった。トシとってからじゃなくて、バリバリのときにやれたっていうのがいちばんよかったと思いますね。

斎藤 心に残る試合ですね。

佐々木 そうですね。

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忘れじの外国人レスラー伝

プロフィール

佐々木健介×斎藤文彦

佐々木健介(元プロレスラー)

1966年8月4日生まれ、福岡県出身。1986年2月後楽園ホールにてプロレスデビュー。IWGPヘビー級王座、三冠ヘビー級王座、GHCヘビー級王座と合わせて、史上初のメジャー3大シングル・タイトルを戴冠する快挙を成し遂げた。2004年度プロレス大賞 MVP、2005年度年間最優秀ベストバウト賞を受賞。2014年2月13日、現役引退を発表し、28年のプロレス生活に終止符を打った。私生活では1995年女子プロレスのカリスマ北斗晶と電撃結婚し、現在2児の父親。タレントとしても活躍中。

 

斎藤文彦(プロレスライター)

1962年1月1日生まれ、東京都杉並区出身。オーガスバーグ大学教養学部卒業、早稲田大学大学院スポーツ科学学術院スポーツ科学研究科修了、筑波大学大学院人間総合科学研究科体育科学専攻博士後期課程満期。現在、専修大学非常勤講師。在米中の1981年より『プロレス』誌の海外特派員をつとめ、『週刊プロレス』創刊時より同誌記者として活動。海外リポート、インタビュー、巻頭特集などを担当した。著書は『プロレス入門』『昭和プロレス正史 上下巻』ほか多数。昨年11月発売の『忘れじの外国人レスラー伝』が話題に。

 

 

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