ゴッチ、デストロイヤー、アンドレ、ロビンソン、キッド、ゴーディ、ウィリアムス、ビガロ、ベイダー、ホーク……。伝説の外国人レスラー10人の黄金時代はもちろんのこと、知られざる晩年、最期までの「光と影」を綴った『忘れじの外国人レスラー伝』。
その刊行記念イベントとして、1月12日に渋谷のLOFT9にて、著者・斎藤文彦さんをホスト役に、元プロレスラー・佐々木健介さんをゲストに招いた対談が行われた。
プロレス引退後はほとんど公の場でプロレスについて語ってこなかった佐々木さんが登壇するのは、著者との関係性あってこその貴重な機会。
ホークと、伝説のタッグチーム「ヘルレイザーズ」を組んでいた佐々木健介さんに、ホークの人となりやエピソードをうかがった。そのほか、ベストバウトとなった小橋建太戦や、故橋本真也さんとの忘れがたき会話などの秘話も明かしてくれた。
○ウォリアーズの付き人を命じられて
斎藤 拙著『忘れじの外国人レスラー伝』の刊行記念のトークイベントということで、だれとおはなしをしたらすごく楽しいかなと考えてみて、こういったトークイベントにはあまり登場しない佐々木健介さんにゲストをお願いいたしました。健介さん、2014年に引退してからこういうトークイベントはほとんどやっていませんね。
佐々木 いやあ、ないですね。
斎藤 いまのプロレスもあまりごらんになっていない?
佐々木 観てないですね。もうやりきった、やるだけやったんで、はい。
斎藤 プロレス自体が嫌になってるわけではないんでしょ。
佐々木 嫌じゃない、全然。でも、最近はあまり観てない。あるタイミングでまた観はじめるんでしょうね、そんな気はしてます。うちにいた子たちががんばっていることはよく聞いているんで、それがうれしくて、安心しています。
斎藤 健介道場にいた若い子たちとは、まず中嶋勝彦。プロレスリング・ノアのトップグループ、トップですね。もうひとりは宮原健斗。全日本プロレスのエースです。ふたりの直弟子が大きな団体でそれぞれメインイベンターとして活躍している。すばらしいです。
『忘れじの外国人レスラー伝』には、10人の外国人レスラーたちが登場します。すでにこの世を去ってしまったレジェンドたちのストーリーです。
このなかには健介さんがよく知るレスラーたちが何人かいる。いちばん深く関わったのは、いうまでもなくタッグパートナーだったホーク・ウォリアーですね。ホークとパワー・ウォリアー(佐々木健介)のヘルレイザースはものすごく夢のあるタッグチームでした。
80年代から90年代にかけての世界のプロレス・シーンを代表するタッグチームとしてホーク&アニマルのロード・ウォリアーズがあって、そのウォリアーズの片割れホークが新日本プロレスと正式契約して、日本のリングで健介さんと本格的にコンビを組む。そういうとんでもないプロジェクトだった。
ヘルレイザースというタッグチームで約4年間活動。あの時代はほんとうに特別な時間でした。
佐々木 そうですね。どこから話せばいいんですかね。
斎藤 ロード・ウォリアーズの初来日は1985年(昭和60年)の全日本でした。当時、健介さんはジャパン・プロレスの新弟子で、全日本のシリーズ興行に帯同していた。
佐々木 はい、なぜかそのときに先輩からウォリアーズの付き人をしろって言われて。
斎藤 シリーズ中ですか?
佐々木 ウォリアーズがスパイク・プロテクターをつけてリングに上がるじゃないですか。それをぼくがもらって控室に持っていって。
斎藤 若手の仕事ですね。
佐々木 そうです、そうです。それで、試合後にホテルに帰ってからも、あの金属スパイク、あれすごく重いんですよ、1個1個がとんがってるやつ、あれを磨いていました。タオルで巻いて、傷つかないようにたたんで衣装ケースに入れて。巡業中は同じバスで移動したり、会場でいっしょにウエートトレーニングをやらせてもらったり。
斎藤 健介さんのデビューは86年(昭和61年)2月。全日本のリングでしたね。
佐々木 デビューはジャパンの自主興行です。
斎藤 当時の全日本のリングには全日本勢、ジャパン勢、外国人選手がいて、試合数も1日12、13試合あってものすごい大所帯、たいへんな選手層だった。そして、87年(昭和62年)春に長州グループが新日本プロレスにUターン。渋谷区池尻にジャパンの自社ビルがありましたが、健介さんはそこに住んでいた?
佐々木 1階が道場で、2階が事務所で、3階の合宿所に住んでました。
斎藤 ぼくが健介さんと初めて話したのはそのジャパンの分裂騒動のころで、マサ斎藤さんがアメリカから帰ってきて、池尻の道場で練習していて、そのとき毎日いっしょにマサさんと練習していたのが健介さんだった。マサさんが道場に来るのは午前中の合同練習が終わったあと、夕方でしたよね。
佐々木 はい、昼間の練習が終わったからでしたね。
斎藤 マサさんが来ると、その練習にも全部付き合った。その後、メシも食いますよね。
佐々木 メシは食います。で、そのあとに夜の練習もあるので、夜も練習して。
斎藤 しかし、分裂騒動があって池尻の合宿所を出ることになってしまった。
佐々木 まだ若かったので、何がどうなったのかくわしくはわからなかった。いちばん下っ端だったので、いわれるがまま、どうしていいのかわからなくて「行くぞ」と言われたら「はい、行きます」って。
斎藤 そして、翌88年(昭和63年)に改めて新日本に入団した。
佐々木 全日本はほんとうに先輩方が多くて、いろいろな勉強をさせていただいたんですけど、新日本に行くと同じ世代の人たちが多くて、もう練習から試合からみんな競争していましたね、負けてたまるかっていう感じで。
斎藤 比較的にすぐ、89年(平成元年)でしたか、海外武者修行に出ることなりました。
佐々木 いっしょに練習していた人間がどんどん海外に行くようになって、置いていかれるような気持ちでした。やっぱり、外国に行かないとダメだって感じだったんで。
斎藤 昔は海外武者修行がメインイベンターへの第一のステップでした。ジャパン・プロレス出身では馳浩のほうが先に海外に出ましたよね。
佐々木 行きました、行きました。年齢はぼくよりも5歳上なんですけど、入門はぼくの2カ月後。でも、彼はオリンピックへ行ってるし、学校の先生もやって、何もかもすべてちがうじゃないですか。いきなり追い抜かれてあたりまえなんですけど、ぼくはもうそのケツを追っかけいくのに必死でした。
斎藤 最初に向かった修行の地はプエルトリコでしたね。
佐々木 プエルトリコ、カナダのカルガリー、ドイツ。それからまたカルガリーに戻って、日本に帰ってきたんです。
プロフィール
佐々木健介(元プロレスラー)
1966年8月4日生まれ、福岡県出身。1986年2月後楽園ホールにてプロレスデビュー。IWGPヘビー級王座、三冠ヘビー級王座、GHCヘビー級王座と合わせて、史上初のメジャー3大シングル・タイトルを戴冠する快挙を成し遂げた。2004年度プロレス大賞 MVP、2005年度年間最優秀ベストバウト賞を受賞。2014年2月13日、現役引退を発表し、28年のプロレス生活に終止符を打った。私生活では1995年女子プロレスのカリスマ北斗晶と電撃結婚し、現在2児の父親。タレントとしても活躍中。
斎藤文彦(プロレスライター)
1962年1月1日生まれ、東京都杉並区出身。オーガスバーグ大学教養学部卒業、早稲田大学大学院スポーツ科学学術院スポーツ科学研究科修了、筑波大学大学院人間総合科学研究科体育科学専攻博士後期課程満期。現在、専修大学非常勤講師。在米中の1981年より『プロレス』誌の海外特派員をつとめ、『週刊プロレス』創刊時より同誌記者として活動。海外リポート、インタビュー、巻頭特集などを担当した。著書は『プロレス入門』『昭和プロレス正史 上下巻』ほか多数。昨年11月発売の『忘れじの外国人レスラー伝』が話題に。