対談

閉ざす小集団と、開く心

荒木優太×外山恒一 『サークル有害論』刊行記念対談vol.2
荒木優太×外山恒一

政治vs文学という対立

荒木 そのあたりを、もう少し追求していきたいですね。私は今回の本の中で、プロレタリア文芸評論家の蔵原惟人に触れています。彼はサークルの政治的利用ということを日本で初めて唱えました。多くの場合サークルとは文化的、つまり政治的には中立でどのような立場も受け入れるわけです。ただ、蔵原はその隙や寛容さを利用して、自分たちの政治的勢力を拡大させるための捕獲器として利用しようとした。中立で油断させておいてからガブリというわけです。

外山 政治用語で言うと、フラクションですね。

荒木 こうした蔵原惟人のサークル論を今日本で一番近い形で実践しているのは、もしかしたら、外山さんなんじゃないかと思ったのです。というのも、外山さんは都知事選のエキセントリックな印象と違って、実際会って喋ってみると礼儀正しいし割と常識的なことをおっしゃる。自分の政治的立場を括弧にくくる術を心得ている、または心得ているパフォーマンスに長けている。しかし、その人当たりのよさこそがまさしく高度な政治的手練手管に見えるわけです。いかがでしょうか?

外山 荒木さんも書かれていたように、日本では“政治vs文学”という対立が繰り返し問題化されてきました。敗戦直後の『新日本文学』vs『近代文学』の論争とか、80年代の埴谷雄高vs吉本隆明の論争とか、いろいろありますよね。
 それらの論争では常に文学なり芸術の側が勝ってきたわけです。しかしその結果、文学者・芸術家たちはことごとく政治音痴になってしまったのではないのか。だから9・11の時にしても原発の時にしても安保法制の時にしても、芸術系の連中がたまに政治的に目覚めると、とんでもなく低レベルな言説を垂れ流し始める。そういう現実を見るにつけ、やはり“政治vs文学”という対立においては断固として“政治”の側に立つべきだ、と確信するようになった次第です。
 僕はファシストとして、かつて共産主義者たちが唱えた「社会主義リアリズム」芸術論と同様、“芸術ふぜいは政治に従属してろ!”という「国家社会主義リアリズム」を唱えています(笑)。

左翼より右翼のほうが魅力的な理由

荒木 外山さんは最初、左翼として出発していたそうですが、やがてファシストに転向したわけですよね。そこには、どのようなきっかけがあったのですか?

外山 転向の理由は、ざっくり言えばポリコレへの反発です。しかしファシストに転じてみると、新しく右翼方面の友達が増えるわけです。新鮮だったのは、左翼と違って右翼はうるさいことを言わないんだ。一回一緒に酒を飲んだら、もう仲間みたいな(笑)。“理”への反発、つまり理屈はどうでもいいというのが右翼の本質でもあるし、とにかく付き合いやすい。
 で、僕には左翼方面にも転向前からの古い友達がいるので、僕の家に左右双方を集める飲み会を企画するんですけど、左翼の連中がなかなか来ないんだよね。右翼の人たちは「左翼ってどういう奴らなんだろう?」と興味津々なんですよ。ともかく話は聞いてみたいと。しかし左翼の連中は「右翼と話してもしょうがない」と最初から拒絶する。これじゃあ左翼は衰退して当然です。

荒木 確かに左翼は、Twitterでも「誰々に『いいね!』したから、おまえは敵だ」みたいな幼稚なことをよくやってますよね。

次ページ 僕がやってきた運動は「ほっといてくれ」運動だけ
1 2 3 4

関連書籍

サークル有害論 なぜ小集団は毒されるのか

プロフィール

荒木優太×外山恒一

荒木優太(あらき ゆうた)
1987年東京生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。明治大学大学院文学研究科日本文学専攻博士前期課程修了。2015年、第59回群像新人評論賞優秀作を受賞。主な著書に、『これからのエリック・ホッファーのために』『無責任の新体系』『有島武郎』『転んでもいい主義のあゆみ』など。編著には「紀伊國屋じんぶん大賞2020 読者と選ぶ人文書ベスト30」三位の『在野研究ビギナーズ』がある。最新刊は『サークル有害論』(集英社新書)。

外山恒一(とやま こういち)
1970年生まれ。福岡を拠点とする革命家。思想的にはマルクス主義、アナキズムを経て、03年に獄中でファシズム転向。07年の東京都知事選に出馬し、過激な政見放送で一躍注目を浴びる。近年は「右でも左でもないただの過激派」として独自の活動を続けるかたわら、後進の育成や革命運動史の研究にも力を入れている。著書に『全共闘以後』『政治活動入門』、共著に『対論 1968』など。

集英社新書公式Twitter 集英社新書Youtube公式チャンネル
プラスをSNSでも
Twitter, Youtube

閉ざす小集団と、開く心