河野 ちょっと話がズレますけど、今回ノンフィクションを書きながら感じていたのは、これは栗城さんがやってきた表現方法とは逆のアプローチかもしれないな、ということなんですね。
――栗城さんとは逆のアプローチ、ですか。
河野 はい。栗城さんの表現方法っていうのは「キャッチーで、見た目が面白くて、派手でわかりやすい」というものでしょう。そして、「夢を共有しよう」「否定の壁を越えよう」といった万人が否定しづらいフレーズを使い、選ぶ言葉も一つ一つがわかりやすい。
逆に、ノンフィクションっていうのは地味だけど、根気よくと言いますか。派手じゃないけど突っ込んで深く、と言いますか。わからないことはわからないまま提示する、わかりやすさなんか求めないという表現形態でもある。
執筆を通して、まったく逆のアプローチだな、っていうのを感じながら、愚直に彼の人生を辿っていったという実感がありますね。
――活字のノンフィクションは、テレビのドキュメンタリー番組のつくり方や表現の仕方とはかなり違うのでしょうか。
河野 まさにそのことを僕も考えながら執筆していました。やっぱり違いますね。テレビでは宿命として1時間なら1時間、1時間半なら1時間半という枠の制約があります。さらに厄介なことに、視聴率という要素も絡んでくる。
そうなるとどうしても、やっぱり面白くわかりやすく、お客さんが逃げないように、という配慮が必要になります。それで、結局「わかりづらいこと」は提示しづらいんですよ。この点が決定的な差かもしれません。
「いろいろ考えたけど、よくわかりませんでした」という結論になってしまったら、じゃあなんで放送するんだ、なんでつくったんだ、というツッコミが即座に飛んできてしまう。
だから、特に人物を描く時には、良心的な制作者ならば誰しもが悩むはずです。どうしても長く時間を共にしていると、その追っている人物の良くない面も見えてくるわけですよね。
それをどの程度番組に入れるか、あるいは入れないかで葛藤する。悪い面を全く落としてしまって、良い点だけを謳い上げて、実際の人物とは違う人間を描いちゃうのも問題ですから。
それでも、どうしても「わかりやすく」描く必要がある。そういう「まとめなきゃいけない」というテレビの性(さが)というのは非常に重い足枷と言いますか、難しい問題なんですね。
――活字のノンフィクションでは、そうした制約はあまり感じなかったでしょうか。
河野 そうですね。活字ならば、調べたり考えたりしてもわからなかったことを「わからない」と書ける。テレビドキュメンタリーの場合には、わからなかったことはシーンとして構成しない、つまり「無かったこと」にして描かないことが多いんですが、活字だとそういうモヤモヤした部分もしっかり描ける、というのは発見でした。
同時に、ネットでもテレビでも活字でも溢れている、一見威勢の良い言葉とか、耳当たりの良いキャッチフレーズに簡単には乗らないような社会が一番深くて豊かなんだろうな、ということも改めて思いました。
今回の本も、「いいね」をつけて拡散してすぐに忘れてしまうようなものではなく、読んだ人の心の中にずっしりと深く沈んでいくようなものであってほしいなあ、という願いを込めています。
プロフィール
1963年愛媛県生まれ。北海道大学法学部卒業。1987年北海道放送入社。ディレクターとして、数々のドキュメンタリー、ドラマ、情報番組などを制作。高校中退者や不登校の生徒を受け入れる北星学園余市高校を取材したシリーズ番組(『学校とは何か?』〈放送文化基金賞本賞〉、『ツッパリ教師の卒業式』〈日本民間放送連盟賞〉など)を担当。著書に『よみがえる高校』(集英社)、『北緯43度の雪 もうひとつの中国とオリンピック』(小学館、第18回小学館ノンフィクション大賞、第23回ミズノスポーツライター賞優秀賞)など。『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』で第18回開高健ノンフィクション賞を受賞。