プラスインタビュー

亡き父の足跡を辿り、あの「戦争」について考える

『鉄路の果てに』著者・清水潔氏インタビュー 【前編】
清水潔

シベリア鉄道に残る日本軍の痕跡

――清水さんは国内の鉄道も随分乗っていらっしゃると思いますが、今回の「鉄旅」はいかがでしたか?

清水 長距離列車の旅は移動の手段と考えたら辛いかもしれませんが、私は移動そのものが楽しいんですよね。

「ボストーク号」の車窓から見える景色は見渡す限りの原野で、どこまでも地平線が広がる彼方に夕日が沈んでいく雄大さは、日本では見たことがないものでした。

 コンパートメントでは青木センセイとふたりで何もやることがないですし、延々と変わらない景色を見ながら、若い頃の旅を思い出したり、「父がシベリアに連行されていったときは、極寒の中、貨車にすし詰めにされていったんだな」「こんな遥か遠くまで日本軍は兵を進めてきたのか」など、色々なことを考えたりしていました。

鉄道の車窓からの景色 (写真提供:清水潔氏)

――『鉄路の果てに』からは、戦前の日本が鉄道というインフラを通じて大陸に版図を広げていった様が生々しく伝わってきます。

清水 父が所属していた鉄道聯隊は後方支援のような役目だと想像していたのですが、今回の旅を通して戦争における鉄道の重要性を思い知らされました。

 当時は道路も整備されていない時代ですから、「鉄の道」を引かなければ人も物資も運ぶことができず、だからこそ国家は莫大な予算をかけて鉄道を整備し、鉄道は戦争にも深く関わっていったわけです。

 今でも国によっては鉄道は軍事的に重要な位置づけで、写真撮影すら気軽にできなかったりしますからね。

 日本が鉄路によって大陸に勢力を伸ばしていった名残が、シベリア鉄道の中露国境駅にありました。ネットやガイドブックには「中国とロシアではレールの幅が違うから国境駅で台車を交換する」と書いてありますが、なぜ違うのかというところがなかなかわからなかったんです。

 オタクな話で恐縮ですが、通常、レール幅が違う場合は3本のレールを敷く「三線軌条」でとりあえずどちらの列車も走れるようにするんです。ところが中露国境駅は4本のレールの「四線軌条」で、これは非常に特殊で面倒なケースと言えます。

 詳しくは本書を読んでいただくとして、日露戦争の「戦利品」としてロシアが敷いた東清鉄道の一部を獲得した日本は、日本国内から運んだ機関車や貨車をそのまま使うため線路幅を変え、その後、さらに朝鮮半島の鉄道のレール幅に揃えるという無駄な改軌を行いました。

 その名残がこの「四線軌条」で、そうまでして大陸を北上していった日本軍の行為が、5時間にわたる国境駅での台車交換の遠因になっているんですね。

 本当は線路に降りて、目の前にある4本のレールの幅を巻き尺で測りたかったんですが、我々はわざわざシーズンオフにシベリア鉄道に乗っている、珍しい日本人のおっさん二人組として相当怪しまれていたので、無用のトラブルを避けるために仕方なくあきらめました。

 実は私の祖父は日露戦争で戦功を立てた軍人だったので、ロシア側から見れば、実際、私は「危険人物」だったかもしれませんね。

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プロフィール

清水潔

1958年東京都生まれ。ジャーナリスト。日本テレビ報道局記者・特別解説委員、早稲田大学ジャーナリズム大学院非常勤講師などを務める。新聞社、出版社にカメラマンとして勤務の後、新潮社「FOCUS」編集部記者を経て、日本テレビ社会部へ。著書は『桶川ストーカー殺人事件――遺言』『殺人犯はそこにいる―隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件―』(共に新潮文庫)、『「南京事件」を調査せよ』(文春文庫)など。2020年6月放送のNNNドキュメント「封印〜沖縄戦に秘められた鉄道事故~」は大きな反響を呼んだ。

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