――本書の第一章では、学習指導要領に掲載された「特別の教科 道徳」の内容項目を示して、「これらの項目は、残念ながら絶対に正しいとは言えないものばかり」と手厳しく評しています。
苫野 学習指導要領の示す「道徳」の内容項目には、いろいろなものが混ざっています。例えば、公正、公平、社会正義といった市民社会のルールと言ってよさそうなものもあれば、節制、家族愛など習俗の価値のようなものも、あるいは礼儀のようにマナーにあたるものもあります。マナーはモラルやルールともまた少し違うものですね。
中には自己啓発のような内容さえ含まれています。これでは、ますます道徳とは何なのかがよくわからない。実際、小中学校の先生方からも、どうしたらいいのか困っているという相談をよく受けます。
それでも、学校の先生方は実際に道徳の授業をなさっているので、「授業を何とか少しでも良いものにしたい」と口々に言われます。だったら実際の授業のあり方から抜本的に変えてしまいましょう、という実践的な提言をするために書いたのが本書です。
――しかし、学習指導要領には法的拘束力があるとされており、また、教科書の使用義務もあります。授業を変えると言っても簡単にはできないのではないでしょうか?
苫野 実は学習指導要領には「この価値を教えろ」とか「これに到達させろ」とはどこにも書かれていません。ただ「取り扱う」とだけ書いてある。だから、取り扱えばいいんです。教科書の使用義務はありますが、「絶対に教科書通りにやらなければいけない」とか、「教科書だけしか使っちゃダメ」とか、そんなこともありません。
指導要領にせよ教育法規にせよ、ちゃんと知っていれば実は道徳に限らず授業はもっとクリエイティブにできます。意外に授業の自由度が高いことが理解できるはずです。例えば「規則の尊重」という内容項目を「取り扱う」場合。「ルールはちゃんと守ろう」という結論で終わってしまう授業をたくさん見てきましたが、この内容項目に関しても、「どういう規則であれば尊重すべきで、どういう規則であれば変えていくべきなのか、またどうすれば変えることができるのか?」と問いかけて議論していく道徳の授業だってできるはずです。そして実際に、学校のルールをみんなで変えたりつくり合ったりする経験を積む。
近代の学校教育のパラダイムは、「決められた通りのカリキュラムをこなしていけば、皆がそれに到達する」というフィクションに基づいています。道徳の場合でもまったく同じですね。しかし、「今回は家族愛をやります」とか、「友情をやります」といって教えたからといって、全員が家族愛や友情に満ちた人間になるかと言えば、そんなことはあるわけがありません。
私はこれまで「皆が同じことを同じペースで、同じようなやり方で、決まったことを決められた通りに」という学び方からの構造転換を提唱してきました。道徳というのは、その気になればこの従来的な学び方からの構造転換をやりやすい教科だと言えます。しかも道徳はかなり教科横断的な性格も持っている。だとするならば、道徳を一つのきっかけにして、やがては学校教育全体での学びの構造転換へと広げていくことができるかもしれない。そういう可能性を本書で示したいと考えています。
プロフィール
哲学者・教育学者。熊本大学教育学部准教授。1980年兵庫県生まれ。早稲田大学大学院教育学研究科博士課程修了。2020年4月に開校予定の軽井沢風越学園では理事を務める。著書に『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)、『教育の力』(講談社現代新書)、『子どもの頃から哲学者』(大和書房)、『勉強するのは何のため?』(日本評論社)、『はじめての哲学的思考』(ちくまプリマ―新書)、『ほんとうの道徳』(トランスビュー)、『愛』(講談社現代新書)など多数。