スコットランド出身の作家・歴史家、ウイリアム・ダルリンプルによる『9つの人生 現代インドの聖なるものを求めて』は、インドに息づく鮮烈な伝統、信仰、歌や踊りの世界を描いたノンフィクションの傑作。すでに19カ国で翻訳出版されているが、この傑作を日本に送り出した翻訳者のパロミタ友美氏は、この物語のひとつにも登場するバウル(ベンガル地方で歌い継がれる修行歌の伝統)の行者でもある。
急速な経済発展を遂げる現代インドも格差や差別を抱え、内なる声は聞こえにくい。ダルリンプルの膨大なフィールドワークは、その声なき声に潜む圧倒的なパトスを9つの物語に結実させた。「全編にわたって、むせかえるような聖性を感じた」という宗教学者の釈徹宗氏と、パロミタ友美氏による対話は、加速する現代文明に翻弄される私たちに、「聖性」とは何か、そして、立ち止まって考える、深く感じることの大切さを示唆してくれる。
構成=宮内千和子 撮影=三好妙心
バウルとは、一瞬一瞬の生成
釈 この本には、吟遊行者バウルとなった人々の物語(第九章 盲目の吟遊行者のうた)も語られています。彼らは過去にいろんな悲しみを哀しみを背負ってきているのだけれど、どのバウルも安らかで幸せそうで、バウルの音楽があると「幸せ過ぎて、悲しみがどんなだったか、忘れてしまう」と言うのが、非常に印象的でした。パロミタさんは、同じバウル行者として、彼らの心境が分かりますか?
パロミタ この物語に出てくるバウルのカナイさんは、じつはこのダルリンプルのインタビューの数年後に奥さんとお子さんを事故で亡くされているんです。その悲しみは誰にも分からないと言っていました。でも、彼らがやっぱりバウルの行者だなと思うのは、決してその悲しみにのまれないことです。もちろん悲しいときは悲しむんですよ、徹底的に。怒るときは怒る。それを隠すことはしない。でもそれに囚われすぎて、変にいじけたり、引きずり続けたりしない。表面的なあれこれに、深いところでは囚われていない、振り回されない。悲しみを否定せずに受けとめて表現する中でも、一瞬一瞬の喜びはちゃんと認識している。そういう感じです。
釈 バウルとは、そういう心と体を育ててくれるものなんですか。
パロミタ そうだと思います。おそらく彼らは、こうしなきゃと理屈で考えてそうあろうとしているのではなくて、ただ自然とそうなっている。尋ねれば哲学的なこともいくらでも答えてくれますよ。でもこういう理念だからこうします、ということではない。体得された智慧です。過去の行者の体験や智慧を反映したうたを歌い続けることによって、身に染み込むものもあると思います。
釈 なるほど。ベンガル地方発祥のバウルは500年の歴史を持つといいますが、その伝承方法はどうしているんでしょうか。バウルの真理を身につける順序とか、伝える技術みたいなものがきちんとあるんですか。
パロミタ あるといえばあるし、ないといえばないですね。見て聞いて覚えろという部分もありますが、やはり一緒に生活すること、生活の中の奉仕を通して身についていくことが一番大きいですね。それで初めてうたも生きてくる。弟子によって行の伝授のされ方や内容も変わります。今はバウルの定義も広がっていて、とくにバウルのうたはベンガルの文化として注目されて人気があります。ラロン・ファキールという19世紀末の大きな存在のバウルがいるんですが、バングラデシュでは、ロックバンドが、彼のうたをよく歌っています。バウルは、カーストや宗教の区分を否定しますが、とくにラロン・ファキールはカースト否定についての言葉がストレートなんです。ここ200年くらいでは、一番大きい存在だと思います。
でも、バウルのうたを歌うからと言って、その人がバウルとは言えない。やはり、行を含めた生活を知らないといけないのだと言われます。バウルのうたを歌う歌手も、その辺は謙虚なことが多い気がします。
釈 バウルの定義が広がっているのは、そういう芸能的な活動まで広がっているという意味なんですね。本来のバウルは、歌う、踊る、そして行者であることが一体になっているわけですか。
パロミタ ええ。今はうただけが取り上げられて、何だかよく分からなくなっている部分もあります。
釈 バウルの行者が目指す地平みたいなものは、どんなところにあるんですか。
パロミタ 多分……生ける死人になること。一瞬一瞬にしか生きないということです。「ジャンテ・モラ」という言葉は、生の中の死とか、死や時空を超えるという意味がある。そして「サハジャ(ベンガル発音ではショホジ)」。「サハ」はwithの意味で、「ジャ」が生きる、生まれるの意味なので、一瞬一瞬に生成されるというニュアンスがあって、バウルでは毎瞬を生きること、それが一番大事だとされているんです。
釈 ほう、なるほど、なるほど。この本でも少し触れられていますが、やっぱりタントリズム(密教)の流れも汲んでいるということですね。
パロミタ かなり仏教からの流れは強いと思います。タントラやスーフィズム(イスラーム神秘主義)、女神信仰などの要素も引き継いでいると思います。
釈 それは、思想的にはよく分かるお話ですね。でもきっとパフォーマンスの部分は、少しずつ違う流れを汲んでいるものがあるんでしょうね。
パロミタ そうですね。古典舞踊とは違って決まった振り付けがあるわけではないですし、バウルのパフォーマンスは、師匠によって相当違うんですよ。同じ詩でも人によって違うメロディーで歌われたりもしますし、昔はより即興性が強かったので、違ううたでも全く同じスタンザ(詩行)が入っていたりすることもある。多分、そういう組合せが幾つもあって、それを受け継いで、その場その場で即興で歌っていたんだと思います。
バウルとの出会い
釈 パロミタさんがなぜバウル行者になったのか。そこにとても興味があるんですが、そもそもの出会いを教えてください。何がきっかけだったんでしょう。
パロミタ 私は埼玉県出身で、十代の頃は、伝統や聖性みたいなものとは全く縁がなかったんです。帰国子女なので、幼いときに海外の日本人コミュニティのなどの繋がりが多少あって、日曜学校に行っていたぐらいで。でも、ずっと古代の日本やアジア世界に興味があって、オーストラリアの大学でサンスクリット語を勉強するようになってから、インドに興味が湧いて。それで南インドのケーララ州に行ったときに、古典音楽と出会いまして。その後一時、東京の大学にいたこともあったのですが、やはりちゃんと古典音楽をやってみたいとインドに戻って、ケーララ州の会社に就職したんです。バウルの師匠にはそのときに出会いました。最初はたまたまご縁があって訪ねていったという感じで、バウルのことは何も知らなかったし、うただけ少し習って、本格的に行をやるとは思いもしていなかったんですが。
釈 そうでしたか。もともと武術をやってらしたそうですね。
パロミタ ええ、その経験は大きかったと思います。私は元々身体性や、文学的・文化的表現としての「歌われる詩」の方に興味があって、哲学などには興味が無かったんですよね。いわゆる「ヨガ」にも全然興味が無かったぐらいで、師匠に言われたからというだけで始めました。それが、修行をして歌っているうちに、自然と精神性的な、中身の方にも関心が向くようになりました。あるときから、バウルのうたがよく言われる「メタファー」などではなく、ただ純粋に体験としての真理を語っているんだなということが腑に落ちたのは、武術を通して追求していた身体性による学びが大きかったです。対談の初めに釈先生が、ロゴスがパトスを駆逐するというお話をされましたけれど、バウルを学ぶうちに、精神性も身体性もひとつのもので本来、変わりはないんだという心境に近づいてきて……。すると内側から喜びが湧いてくるようになってきたんですね。以前はずっと苦しみがあったんですけれど、今はそれよりも、ひたすら喜びの実感になってきています。
釈 ああ、そうですか。教義的なものではなく、それは人類が営んできた宗教の本質的な在り方のひとつだと思うし、聖性に触れる尊さのような気がします。
芸能がコアに持つ宗教性
釈 バウルのほかにも、この本では、最下層のダリットが1年に2カ月だけ神として祭られて踊るテイヤム(第二章 カンヌールの踊り手)とか、絵巻物の叙事詩を伝承するボーパーのパル(第四章 叙事詩の歌い手)など、非常に情熱的で魅力的な芸能が紹介されています。私は動画とか写真でしか見たことがないんですが、ぜひ一度見てみたい。でも、現状インドでは、こういう芸能の継続は難しい状態になっているんですか。
パロミタ 外から見た感じと、本人たちの感じ方はまた違うので軽々しくは言えませんが、この本で紹介されているような中身を伴ったボーパーのパルは、今どの程度見られるのか……ラージャスターン州にはあまり詳しくないのですが、簡単ではないかもしれません。テイヤムは今も非常に盛んです。ただのエンターテインメントとしての芸能ではなく、より古くて地味な形式のものの方が支持基盤を失いつつあるということはあるかもしれません。
釈 日本の伝統芸能も、一時期本当に厳しいときがありましたね。でも、何だかんだ言いながら続く、簡単に消滅しないというのは、その芸能が、コアに持つ宗教性をどれだけ自覚しているか、大切にしているかが、分かれ道のような気がするんです。コアの宗教性を軽視して外側の芸能性ばかり追求しちゃうと、寿命が短くなると思います。
パロミタ ああ、それは分かる気がします。ダルリンプルも、単なるエンターテインメントだった叙事詩は今はまったく歌われなくなっているけれど、ボーパーは宗教性と密着しているからこそ続いていると書いていますね。
釈 そうなんですよ。コアの宗教性を大事にすると、持続可能性が高くなるんですね。お能もそう。あまり大きな声で言えないですが、お能ってあんまり面白くないでしょ(笑)。なのに、世界最古の舞台芸能として今でも現役なのは、お能の人たちが全員、芸能のコアにある宗教性にすごく自覚的で、大切にしているからなんですね。
パロミタ なるほど。日本の場合、古典芸能は昔とほぼ変わらない形式で伝承されるという向きが強いかと思いますが、インドの場合は、日本人が思う以上に表面的な変化が大きいんです。ヴェーダ詠唱とか以外は。インドの伝統舞踊って何千年の歴史とか言いますが、客観的に見ると、今の古典舞踊の多くは、結構新しいんですよ。それで、外から見た愛好者や研究者が、これはすっかり変わってしまったとか、伝統的ではないと言ったりしますが、実際はコアのものを守るために、あるいは中身を受け継いでいるからこその表現の必然として、そういう表現方法になっているということも多々あるんです。もちろん本人たちの間でもいろいろ議論があったりもしますけれど、そこも含めての伝統の継承なんですよね。
釈 それは大事なことですよね。表現方法を分かりやすくしたり、ここはちょっともう現代人に合わないのでカットするとか、コアの部分を大切に思うがゆえにいろいろ工夫をする。だからこそ続いていくわけですね。
バウルは愛と智慧の源泉
釈 この9つの物語には、宗教家にしても芸能の達人にしても、本当にすごい人たちが登場しますが、活字を通してもまったく威圧感というものを感じさせませんね。私も今まで多くの宗教者に会ってきましたけど、この人はと思う人に共通しているのは、威圧感がないことです。よく教祖みたいな人でカリスマ性があるとか言いますが、それはちょっと違う気がします。
パロミタ 私の師匠のパルバティ・バウルもカリスマと言われたりしますけど、それは本質とはまた別の話だなと感じます。カリスマを伴う仕事をすること自体が彼女の役割だとしても、彼女はいつもとても謙虚です。ただ、インドのいわゆる聖者とか、すごいと言われる人たちに会うと感じることが多いんですが、「プレーマ」という、いわゆる無条件の愛と訳されるもの、それがグワーッと出ている人が多い。人が惹きつけられずにはいられない、愛としか呼べないものをただ自然と放射しているというか、溢れ出るがままにしているというか。私の師匠もそうで、変な話ですが、自然に犬とかそういう動物たちがいっぱい寄ってくる感じ。それで圧倒されるというか、酔うような人もいるかもしれませんが、威圧感というのとは違うんですよね。もちろん、その辺のおばさん、みたいな一見するとなんてことなさそうに見える方もいらっしゃいますが。
釈 なるほどね。その感じよく分かります。カナイさんが、バウルは愛と智慧の源泉だと本の中で語っていますが、それは仏教が説くところ、目指すところと同じだなと感じました。バウルの道を歩んでいると、そこから愛と智慧が湧いてくるというような、そういう意味なんでしょうか。
パロミタ そこにしか行き着かないということなんだと思います。たとえばバウルのうたの詩で、「よいと悪いの間で」という言い方をするんです。よいと悪いの間で、サハジャ(一瞬一瞬の生成)がひっそりと存在している、たたずんでいるというような詩とか。バウルの影響も受けている17世紀のラムプロシャド・センの詩歌に、「よい息子、悪い息子、どちらであっても、女神のおみ足の下で受け入れられないことがあるだろうか」という一節があるんですが、うたの根底にはすべて「プレーマ(愛)」があるんですね。もちろんもっとダイレクトに愛を扱ううたもあります。
釈 バウルの行き着く先は愛なんですね。仏教だと慈悲という言葉を使います。慈悲と智慧に行き着くのだとすれば、まさに仏教が目指すことと同じです。
パロミタ 智慧の無い愛(プレーマやバクティ[信愛])は無い、愛の無い智慧は無い、ともうたわれます。愛は現代的な訳なので、慈悲とか、感謝とかの訳のほうが近いところもあるかもしれません。
釈 物語に出てくる、こういう圧倒的なパトスと出会うと、ちょっと縮んでいる心と体がほぐれる感じがしますね。すごいスピードで社会が動いてるので、どうしても現代日本人は、心も体も縮んでしまいがちです。ですから、本当に圧倒的で、マージナルな存在との出会いがあると、読んだだけでも、心と体が軟らかくなりますね。これは、すごく大事なことだと思う。ぎゅっと萎縮していると、いらいらしますし、攻撃的になりますし、目先のことを追いかけがちですが、少し緩むことで大切なものが見えてきたりもしますからね。
パロミタ 何かを求めながら、様々な制約に息苦しい思いをしていたり、葛藤していたりする方も多いと思います。この物語の当事者たちは、本質を生きるということにまっすぐです。その存在が今を生きている人たちの何かひとつの勇気になればいいなと思っています。【了】
プロフィール
釈徹宗(しゃく てっしゅう)
1961年、大阪府生まれ。僧侶、宗教学者。相愛大学人文学部教授、次期学長。著書に『親鸞の思想構造』(法藏館)、『いきなりはじめる仏教生活』(バジリコ)、『不干斎ハビアン』(新潮選書)、『歎異抄 救いのことば』(文春新書)等多数。『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』(朝日選書)で第5回河合隼雄学芸賞受賞。共著に『いきなりはじめる仏教入門』(内田樹との共著、角川ソフィア文庫)、『異教の隣人』(細川貂々、毎日新聞「異教の隣人」取材班との共著、晶文社)等多数。
パロミタ友美(パロミタ ともみ)
翻訳者、バウル行者。オーストラリア国立大学アジア研究学部卒業。サンスクリット語、言語学を学ぶ。2013年、世界的に著名なバウル行者の一人、パルバティ・バウルと出会い、師事。バウルの道に入る。日印を行き来しながら、2017年より東京を中心に定期公演を開催。2018年にはパルバティ・バウルの日本ツアー「バウルの響き」を共催。訳書にパルバティ・バウル『大いなる魂のうた インド遊行の吟遊詩人バウルの世界』(「バウルの響き」制作実行委員会)。