対談

現代日本でなぜ「聖性」を考えることが大事なのか①

──インドに息づく信仰の圧倒的パトスを考える

釈徹宗×パロミタ友美

スコットランド出身の作家・歴史家、ウィリアム・ダルリンプルによる『9つの人生 現代インドの聖なるものを求めて』は、インドに息づく鮮烈な伝統、信仰、歌や踊りの世界を描いたノンフィクションの傑作。すでに19カ国で翻訳出版されているが、この傑作を日本に送り出した翻訳者のパロミタ友美氏は、この物語のひとつにも登場するバウル(ベンガル地方で歌い継がれる修行歌の伝統)の行者でもある。
急速な経済発展を遂げる現代インドも格差や差別を抱え、内なる声は聞こえにくい。ダルリンプルの膨大なフィールドワークは、その声なき声に潜む圧倒的なパトスを9つの物語に結実させた。「全編にわたって、むせかえるような聖性を感じた」という僧侶で宗教学者の釈徹宗氏と、パロミタ友美氏による対話は、加速する現代文明に翻弄される私たちに、「聖性」とは何か、そして、立ち止まって考える、深く感じることの大切さを示唆してくれる。

構成=宮内千和子 撮影=三好妙心

 

排除されがちなパトスとエートス

 まず本の感想をひと言で言えば、この大作をよくぞ訳してくれました。とにかく全編にわたって、むせかえるような聖性と猥雑さと生への欲動が溢れていて、圧倒されました。

パロミタ ありがとうございます。

 インドは大きいですし、研究者の間でも宗教のるつぼだと言われますが、まるで宗教曼荼羅を見ているような作品ですね。宗教性豊かといっても、主にパトスの部分、宗教的情念に焦点が当たっていて、そこが非常に興味深く面白く感じました。宗教を捉える場合、教義や理屈や価値観といったロゴスのほうに目が行きがちですが、パトスの部分も見ないと宗教は捉えられない。

 また、地域地域の文化圏がずーっと培ってきた独特の様式──エートスの部分を見ることも大事です。つまり宗教を理解するには、ロゴスとパトスとエートスの三つを見ることが必要だと思っているのですが、この本には、パトスとエートスが溢れている感じがいたしました。

 例えば第五章の「赤い妖精」は、イスラームのワッハーブ派の理念によってスーフィーが異端扱いされて、だんだんやせ細っていくという話です。これはロゴスがパトスを駆逐しているんです。そんな逆境にあっても、スーフィーたちは自分たちの魂を必死に堅持しようとする。ここに登場する人たちは、ロゴスよりはパトスの強さを感じます。ほかにも、インドのローカルの神々が、画一的なヒンドゥーのロゴスによってやせ細っていく話がいくつも紹介されていますね。宗教というのはロゴス的な体系が肥大化すると、その地域地域でつないできた様式やローカルな信仰の内にあるパトスやエートスを駆逐してしまう現象が、しばしば起こります。この本の特徴は、それぞれの人に宿る宗教的な情念に光が当てられていて、それが非常に魅力だと思いました。

パロミタ この本で扱われている方たちの中には、日本から見れば、宗教と見られるようなものでも、本人たちは宗教としては全く意識していない場合も多いと思うんです。今、ロゴスとパトスとエートスのお話を聞いていて思ったのは、恐らく彼らの中にもロゴスはあるんですよね。それがただエートス、パトスの部分と分かたれてはいないという気がします。

 そうですね。いずれも、いわゆる各宗教の正統派の聖職者ではない人々で、ある意味、土着の精神文化を担っている人たちです。そういうものは、世界各地において「正統派」と呼ばれる聖職者に非難されたり、異端扱いされて排除されがちなんですが、そんな理屈が吹っ飛んでしまうほど、溢れる身体性や情念が文字を通しても切実に感じられて、本当にわくわくしました。

パロミタ 釈先生が、そう書評(「青春と読書」2022年2月号掲載 http://seidoku.shueisha.co.jp/2202/read08.html)でも書いてくださって、すごくうれしかったです。宗教学者という方から見てどうなのかなと、ちょっと不安な部分もあったんです。ダルリンプルのインタビューを見ると、絶賛もあった一方で、こんなのはという批判的な反応もあったようなので。それは恐らく、先生のおっしゃる正統派の中から出ているものだとは思うんですが。

 これは、我々が漠然と思っている宗教という枠組みでは、うまく捉えられないですし、そんなふうに名づけると、捕まえそこなう部分がある。大きな意味での人間の営み、生と死の営みをも宗教であると捉えてみると、こういう物語こそ、その宗教の本質に肉薄できるような気がするんですよ。みんな、宗教を知りたいとなると、概説書とか読んじゃうじゃないですか。

パロミタ そうそう、私も本当にそう思います。ヒンドゥー教って、牛食べないでしょとか、取りあえずそこおさえとこうみたいな(笑)。

 そうなんです。その辺りからアクセスするんですが、理屈で終わってしまう。でも、まさにその周辺で息づいている、むせ返るような生と死の営みをこの本から感じてもらえたら、人類ならではの営みとしての宗教に少しアプローチできるんじゃないかという気がします。

パロミタ 私はバウルという、簡単には説明のしがたいものを学んでいるのですが、私が取り組んでいるものを日本語で説明しようとするときに、いわゆる求道であるとか、釈先生のおっしゃったような「大きな意味での人間の営み、生と死の営み」としての霊性や修行というものへのイメージが、現代日本ではステレオタイプな宗教やスピリチュアリティという枠に押し込まれがちで、非常に発想が貧しいなという感じを受けるんですね。それでますます、ちゃんと伝わるような説明ができない。その説明ができないというのも、私の中でこの本を訳してみたいという動機ではあったんです。

 なるほど。この本を読むと、人間って何だろうという気にさせられますね。どうしてこんな不条理な状況に置かれていて、こんなふうに考えられるんだろうかと、どんどん気になってくる。これは私の実感でもあるんですが、宗教を通して考えれば考えるほど、人間ってすごく愚かだなという気にもなりますし、すごくすばらしいなという気にもなる。ひと言で言うと人間がいとおしくなる。そういう感じがこの本ではとてもリアルに感じられて増幅されましたね。

 

境界線に近づく作家ダルリンプル

 この本の著者ダルリンプルさんは、イギリスやインドでは人気の作家だということですが、どういう方なんでしょうか。

パロミタ 非常に評価は高いですね。著書には『最後のムガル』や『ホワイトムガル』(いずれも未邦訳)など、西洋がインドに入ってきたときの様々なせめぎ合いなどをテーマに、その辺りの歴史をノンフィクションで書いています。今も、インスタグラムを見ると、カンボジアに行って精力的に取材しているので、もしかすると仏教の流れをテーマに書くのではないかと、楽しみにしているんですけど。

 ああ、それは読んでみたいですね。

パロミタ これは彼がまえがきでも書いていますが、紀行文学というと、冒険している自分を主題にしているものが多いけれど、そうじゃないものを書きたかったと、言っています。自分は前に出ず、あくまで9人の登場人物の語りに主眼を置いて、彼ら自身に語らせている。もちろん彼は著者なので、ある程度の編集は入るにしても、そのアプローチに徹したことで、彼らの物語の本質的なものをちゃんと伝えているような気がします。

 個人的に私はバウルを学んでいるので、実践者として自分が訳せてよかったなと思います。まず、作者というひとつのレイヤーがあって、その上で、修行的な道の実践者ではない訳者が入ると、二段階のレイヤーが厚くなりすぎてしまうように思えて、できれば、一人の実践者として、私が訳す立場にありたいと思っていました。でも、ベストセラーですから私以外の訳者で出版されてしまうかもしれない。なので、賭けではありましたが、出版社が見つかる前に、数カ月かけて全部訳したんです。

 そうだったんですか。パロミタさんの訳で世に出て本当によかったと思います。私は、この作品しか読んでないので、当たっているかどうか分かりませんが、ダルリンプルという人は、端っこや辺境が気になるというか、境界線に近づくことに関心が高いタイプじゃないかなという気がします。

パロミタ ああ、そんな気はしますね。たとえば、先ほどの『最後のムガル』も、ある王朝が終わるときの、境界線に近づく話とも言えますよね。

 領域と領域との境界、聖と俗、あるいは生と死のような、違うものと違うものとの接触面みたいなね。そこに本人が大変魅力を感じているのがよく分かります。境界線って曖昧ですが、すごくエネルギーが旺盛ですし、クリエイティブですよね。そこに近づく営み自体、すごく宗教的だと思うんです。この本に出てくる登場人物も、少し枠から外れたり、いわゆる聖と俗の間にいるような、マージナル(境界線上)な存在が多く描かれていますよね。それを本当に丁寧に観察して表現しようとしている。

パロミタ そうなんです。でも、どんなに対象者に興味があっても、一人よがりにならず、彼はあくまで外部の人間として、ある種の謙虚さを持ちながら、対象者に肉薄していく。その尊さみたいなものがあると思います。

 聖と俗、生と死の境界のところに宗教は発生しますし、芸能も発生すると私は思っているんです。例えば京都で言うと、古代からの死体遺棄場所である鳥辺山=死のゾーンと、人々の暮らすこちら側=生のゾーンがある。そして鴨川がある。その境界を空也とか一遍(上人)みたいな人たちが、鐘をたたいて念仏しながら行き来しますでしょ。あるいは、出雲から阿国がやってきて、歌舞伎踊りをする。今、川沿いに南座があるのもゆえなきことではなく、あの場所はまさに生と死の境界線上なんです。今でこそ、生の領域が大きくなって、鳥辺山の死のゾーンが小さくなってしまいましたが、かつてはかなり大きいものでした。そういう境界が持つクリエイティブな能力が、その土地ならではの信仰や芸能、ある種の表現力を発生させるんですね。それは私の研究テーマのひとつでもあるので、彼の視点には大変魅力を感じたわけです。

パロミタ 私も境界線好きです。昔から、町や村のコミュニティの境にある墓地や何とか塚みたいなものにすごく興味があって、よくそういうところをうろうろしていたんですよ。

 境界線好きな人って危ない人が多いんですよ(笑)。自然にできた境界線って、地形的に警戒地域なんですね。なので、そこに社や鳥居を建てたりして、人類は境界をずーっと警戒してきたんです。昼と夜の境界が逢魔時(おうまがとき)って言うでしょう。川を渡る橋とか、境界を象徴するものは基本的に丁寧に扱わないと危ないという感覚は、人類にはずっとあるんですね。

パロミタ バウルを含めたインドの神秘主義者の詩の言葉はよく「謎めいている」と言われる、ある種の暗号的な表現で詠われているのですが、その言葉を「サンディヤー・バーシャー」と言います。サンディヤーというのは、暁や夕焼けどきの、まさに逢魔時のことで、バーシャーは言語です。英語にはtwilight languageと訳されて、素敵なのですが、境界上を揺蕩(たゆた)うような言語で真理を歌うということですね。境界上を行き来する修行者どうしなら通じる言語表現です。アールティと呼ばれる灯火のお祈りも、サンディヤーの時間に行われることが多いです。

 

歎異抄(たんにしょう)に通じるチベット僧の懊悩(おうのう)

パロミタ 釈先生は、書評で、第六章のチベット僧の話にとても感銘を受けたと書かれていましたね。親鸞の教えを説いた「歎異抄」にも通じると。

 これはすごい話ですね。中国によるチベット侵攻によって、あるチベット僧が、出家者でありながら、仏教を守るために、還俗して銃を取る決意をする。中国兵に母親を拷問で殺されて、さらに悲憤は高まります。しかし結局、この僧侶は中国と戦うことなくインドへと亡命しますが、今度はインド軍の兵士として駆り出され、人を殺すためにたくさん銃を撃つことになる。彼はその後30年を経て、再度、出家の道を選ぶのです。この話を読んで、私は、すごい人生だなと思うと同時に、「歎異抄」の問答を思い起こしました。

 歎異抄の十三条に、親鸞が弟子の唯円に、「君は、千人殺せるか」と語りかける場面があります。「いえ、私にはとてもできそうにもありません」と、唯円は答える。すると親鸞は、「我が心のよくて殺さぬにはあらず」という。

 まあ大量破壊兵器のない鎌倉時代の千人ですから、とんでもない話ですよね。でも親鸞は、「私や君が善人だからできないのではない」と言うんですね。たまたま今そういうことに手を染めないでいるだけのことで、ある状況に置かれたら、自分たちは何をするか分からない。そういう存在なのだよという話です。

 このチベット僧の話を読んで、まさにそういう人だったのだろうなと思いました。中国軍に自分の母親を拷問されて、その憎しみが消えないことにも苦しんでいる。歎異抄の十三条にしても、ここに描かれたチベット僧にしても、人間は何をするか分からないと開き直っているのではなく、深い悲しみを常に抱えながら、そこに果たして救いはあるのかという宗教の問題にもなっているんですね。彼がアングリマーラの伝承を語る場面は、とくに印象的ですね。

 アングリマーラとは、昔千人殺すのを目指したという殺人鬼で、出家してブッダの弟子になるのですが、あるとき、ブッダに自分が殺害した村に行って托鉢せよと言われる。その村に行くと、村のみんなに殴る蹴るの目に遭わされる。それでも明日も行けと言われて、アングリマーラはその村で托鉢を続けるという厳しい話ですが、結局、最後には救われるんですね。チベット僧は、その話をしながら、私ももしかしたら救われる日があるんじゃないかと言うのが非常に重たいですね。歎異抄の十三条は、このアングリマーラから来ていると言われていますが、自分の罪を抱えながら生き抜いていく人間の行き着く先の救いとは何だろうと、この章では考えさせられました。

 パロミタさんはこの話を訳していて、いかがでしたか?

パロミタ 半分泣きながら訳していた場面もありました。中国を象徴する赤い色を見ただけで憎しみが止まらないという彼が、中華料理店に食べに行って、中国出身のおばあさんと話しますよね。そのやり取りの中で、おばあさんも家族を拷問で殺された文革の犠牲者だったことを知って、積年の恨みが消えていく場面は推敲などで読み返すたびに目が潤みました。

 ああ、泣けますよね。本当にね。少しでも中国のことを理解しようと思って、彼は中華料理屋さんに通うんですね。尊いと思います。まるでアングリマーラが、罪を犯した村に托鉢しに行くような、そんな行為と重なりましたね。

パロミタ そう、そう。立場的には逆なんですけど、本人の覚悟としては同じぐらい勇気のいることですよね。

 阿弥陀仏信仰というのは、ある種、受容原理の象徴なんです。どこかで無条件で受け入れられている世界が開いてないと、我々の人生、あまりにも過酷じゃないですか。厳しいですよね。だからそこにひとつ宗教的な救いのメカニズムとして受容原理がある。この方も、どこかで全てがそのまま受け入れられる物語に出会うといいますか、そういう原理に触れる日が、きっとあると思いますし、その方向に歩んでおられると思いますよ。

 その意味でも、この本には、人間というものを考えさせられる迫力のある話がいっぱい詰まっています。パロミタさんの訳も素晴らしい。その辺の宗教解説書を読むより、よほど勉強になるし、深い感動を与えてくれます。

次の回へ 

関連書籍

9つの人生 現代インドの聖なるものを求めて

プロフィール

釈徹宗×パロミタ友美

 

釈徹宗(しゃく てっしゅう)
1961年、大阪府生まれ。僧侶、宗教学者。相愛大学人文学部教授、次期学長。著書に『親鸞の思想構造』(法藏館)、『いきなりはじめる仏教生活』(バジリコ)、『不干斎ハビアン』(新潮選書)、『歎異抄 救いのことば』(文春新書)等多数。『落語に花咲く仏教  宗教と芸能は共振する』(朝日選書)で第5回河合隼雄学芸賞受賞。共著に『いきなりはじめる仏教入門』(内田樹との共著、角川ソフィア文庫)、『異教の隣人』(細川貂々、毎日新聞「異教の隣人」取材班との共著、晶文社)等多数。

 

パロミタ友美(パロミタ ともみ)
翻訳者、バウル行者。オーストラリア国立大学アジア研究学部卒業。サンスクリット語、言語学を学ぶ。2013年、世界的に著名なバウル行者の一人、パルバティ・バウルと出会い、師事。バウルの道に入る。日印を行き来しながら、2017年より東京を中心に定期公演を開催。2018年にはパルバティ・バウルの日本ツアー「バウルの響き」を共催。訳書にパルバティ・バウル『大いなる魂のうた インド遊行の吟遊詩人バウルの世界』(「バウルの響き」制作実行委員会)。

 
集英社新書公式Twitter 集英社新書Youtube公式チャンネル

プラスをSNSでも

Twitter, Youtube

現代日本でなぜ「聖性」を考えることが大事なのか①