対談

変容するアイデンティティと、サークルのゆくえ

荒木優太×綿野恵太  『サークル有害論』刊行記念対談vol.1
荒木優太×綿野恵太

「日本の地下水」としてのサークル

荒木 私たちの生活において、政治というものは、いうまでもなく重要なものですよね。ただ、その政治みたいなものの持続可能性には、時に人は非政治的な領域の中で自分を開放せねばならない要素があると思う。こういうことを言うと、非政治性の中に隠れた政治性があって云々という話になる。特にフェミニズムなんかは「個人的なことは政治的である」っていうスローガンを掲げてきたわけで。
 『サークル有害論』の中で私はマイクロアグレッションという概念を紹介しています。無意識に潜む日常生活内の偏見やマイノリティへの攻撃のことです。ただ、そういう発想を駆使して常時「お前の非政治性は政治に鈍感な特権意識の居直りにすぎない」とか「お前が平然と暮らしているあいだにもマイノリティは苦しんでいるのだ」みたいなことを延々やっていくと、最終的には政治に対する人々の無感覚みたいなものが育ってしまうと思うんです。すべてが政治ならば政治をわざわざ特別視する必要がなくなりますから。
 政治を回復させたいのならばむしろ非政治的な領域が求められているはずで、私はそれを「サークル」という言葉で呼びたい。実際、過去の「サークル」言説にはそういう可能性が見出されていたと思います。

綿野 まあ、全部、道徳の話になっていますよね。個人の意識や行動を変えるためには社会の制度や仕組みを変える必要がある。それが政治です。しかし、最近のリベラルには制度を変えるだけの政治的な力ない。だから、「意識が変われば社会が変わる」という言わんばかりの、おのれの特権性を反省したり懺悔したり、意識の高さやアップデートを説くだけの「道徳主義」におちいっている。
 しかし、ジョシュア・グリーンが指摘するように、やはり「道徳」に訴えかけたとしても、同じ正義感や道徳心を共有する「道徳部族」にしか通用しない。ここでも「道徳部族」=「種」の問題があらわれている、と言えますね。荒木さんはアイデンティティ・ポリティクスにおいて「種」に「個」が埋没する危険性を指摘されていましたが、もっと飛躍させれば、どうも大文字の政治という「普遍」の問題が「道徳部族」=「種」に塗りつぶされている現状があるかもしれません。

荒木 今回の本の中で、私は蔵原惟人が説くような戦前のサークル観から、戦後のサークル観へと時代が移り変わっていくなかで、その捉え方にも逆転があったと論じています。つまり戦前のサークルは地下の政治活動に奉仕するものであって、動員のための呼び水としてあった。対して、戦後はサークル自体が地下的に捉え直され、直接は政治と結びつかず、様々な文化活動やコミュニケーションの育成場として働いていく。地下であるがために見えにくいものの、公的な世界に流通する言葉の養分になっていった。
 鶴見俊輔の盟友だった嶋中鵬二はかつて、こうした戦後のサークルのありかたを「日本の地下水」と命名しました。それと同様のイメージで、今日の日本に「地下水」はあるのかと考えるわけです。

ネット時代のサークルとは

綿野 しかし、ネット時代のサークルとかつてのサークルはちがうと思うんですよね。かつてのサークルであれば、職場や地域が共通する人々が集まるから、自分とはちがうような様々な人がいたわけです。けれども、いまはネットで誰と付き合うかが簡単に選択できてしまう。自分と同じような人しか集まらないという同質性が高まる気がします。

荒木 逆にね。地方の場合は、同じ地域だっていう共通項だけで集められるから、結果的にいろんな人々が集まってくるんだけれども。ネットの場合はなまじ主義主張を表現できちゃうから、話す言葉が一緒だからっていうことだよね。

綿野 そう。だから、ひねくれた見方をすると、たとえば、暇空茜氏のような陰謀論っぽい言説に集まる人たちも一種の「サークル」と言えないことはないし、もっと言えばかなり特殊な「在野研究」なわけでしょう。同じような主義主張が集まって内輪でワイワイするととんでもない方向に進んで行く現象は「集団分局化」として知られています。とはいえ、アンチ・リベラルだけではなく、リベラルなネットユーザーもそういう陰謀論っぽい感じになりつつあることを最近は感じているのですが。やはり、荒木さんが理想とするようなサークルの実現はインターネットがかなり難しくしているのではないかな。

荒木 確かにそういう面はあるかもしれませんが、他方、とはいえ他者はどこまでいっても他者だよねってとも思う。私と綿野さんならば、考え方が似ているところがある、寄り添える部分もある、でも、今日話してみても、違うところもあると思うわけだ。そういうことを発見していくっていうことの積み重ねが、やっぱり大事なんじゃないでしょうか。
 最終章で書いた、「にじみ」とか「あわい」とかそういうふうに呼べるような、エッジのない、グラデーション的な差異に向き合うべきだというのはそういう意味です。エッジのあるマジもんの差異はグラデーションのあとで出会えばいい。練習もなしに自分とまったく違う奴と話せって言われてもそりゃあ無理ですよ。
 他人が集えば主義主張が似てるように見えてもやっぱり衝突が起こる。でも、衝突できるってことは、似た者同士にみえたとしても、ちゃんと違いがあったということの証明ですよね。それを感知できないのにマイノリティがどうのこうのというのはまだ早い、と私は考えるわけです。だからまず集まってみるのはいいんじゃないかと無責任に思いますよ。似た者同士でもね。

綿野 まあ、いずれにせよ、はじめの入り口は似たもの同士で集まるしかないわけですよね。

荒木優太さん

在野のサークル

荒木 率直に言うと、私は今の学生たちに、Twitterにいる人文系知識人っぽくなってほしくないんですよ。彼らは非常に頭がいい。明らかにね。でも、その頭のよさを面白いかたちで使えてないと思う。だってつまんないもん、言っていることが。それは綿野さんが本のなかでも重視している面白主義的に考えてみても、やっぱりもったいないことだと思う。
 まあ、そういう知のあり方を示す、少なくとも過去にはそういうものがあったのだと若い人に示すというのが、年長者の責任なんじゃないでしょうか。私じゃなくても、たとえば革命家の外山恒一さんは若者を集めていままでの運動史を叩きこむという私塾を運営してますが、そういう在野の場を頼ったっていい。

綿野 うーん、普通に大学に行って就職したり、研究したほうが、世間一般の幸せが得られる確率は高いと思いますけどね。まあ、ぼくはそういう生き方に興味はないんですが、世間から外れた道にもそれなりの苦労があると押しとどめるのも年長者の責任ではないでしょうか(笑)。とはいえ、ほとんどの人が本を読まない時代に、アカデミズムの知に飽き足らない若者が求める思想や運動がある、という話はよくわかります。
 ただ、『サークル有害論』の終章で荒木さんは中心がある円(サークル)ではなく、ふたつの焦点がある「楕円」を肯定します。言い換えれば、サークルの中心となるようなカリスマがいてはいけない、という立場ですよね、おそらく。しかし、サークルのような小集団はカリスマ=中心の周りに形成されがちだし、そういう人に「転移」する経験がないと教育はできないんじゃないか、という気がします。

荒木 でも、サークルは正規の教育機関じゃないからね。正規のルートは正規の機関でやっていただくのが正道で、サークルはあくまで補足・代理(難しくいえば代補)でいいでしょう。

綿野 うーん、転移ってハラスメントの温床だから、なるべく教育機関から無くそうとしている感じがするんですが。むしろ、荒木さんのいうサークルは教育というよりも、会話を通じたレッスンや訓練の場としてあればよいって感じですかね。

荒木 私は教育嫌いですよ。訓練という言葉は使ってもいいと思うけど、教育はイヤ。逆に教育には無関心だけども人間が成長したり変わっていったりすることについて言葉を費やそうとすると今回の本みたいになるって感じじゃないでしょうか。
 さて、今日は綿野さんに久しぶりにお会いできてよかったです。福島に移住なさったとのことで、いろいろと不便も抱えているのではないかとちょっと心配していたわけですが、綿野節は未だ健在であるということを確認できて良かった。やはり、オンラインなどではなく、実際に面と向かって会うのがいい。

綿野 いえいえこちらこそ、経済的には苦労していますが(笑)。ぼくは荒木さんのことをmixi時代から知っているわけですが、正直今まで、「何でこの人、こういうことをやっているんだろう?」ってちょっと分からなかったんです。

荒木 そうだったの?

綿野 もちろん、研究や執筆されていることは理解できるんですが、そのモチベーションというか、どういう意識で仕事に取り組んでいるのかがいまひとつ分からなくて。この情熱はどこから来てるんだろう、とずっと思っていたんですけど、でも、今日お話を聞いて、なるほどという感じでした。

荒木 初耳だな(笑)。今日は長時間にわたり、ありがとうございました。

撮影/甲斐啓二郎
構成/星飛雄馬

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関連書籍

サークル有害論 なぜ小集団は毒されるのか

プロフィール

荒木優太×綿野恵太

荒木優太(あらき ゆうた)

1987年東京生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。明治大学大学院文学研究科日本文学専攻博士前期課程修了。2015年、第59回群像新人評論賞優秀作を受賞。主な著書に、『これからのエリック・ホッファーのために』『無責任の新体系』『有島武郎』『転んでもいい主義のあゆみ』など。編著には「紀伊國屋じんぶん大賞2020 読者と選ぶ人文書ベスト30」三位の『在野研究ビギナーズ』がある。最新刊は『サークル有害論』(集英社新書)。

綿野恵太(わたの けいた)

1988年大阪府生まれ。出版社勤務を経て文筆業。詩と批評『子午線 原理・形態・批評』同人。「厚揚げは貧民のステーキ」(『絓秀実コレクション2 二重の闘争――差別/ナショナリズム/1968年』)「雑に飲んで、雑に死ぬ」(『B面の歌を聞け』2号)など評論やエッセイを多数執筆。著書に『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社)、『みんな政治でバカになる』(晶文社)がある。最新刊は『「逆張り」の研究』(筑摩書房)。

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