メンバーが互いをよく知っているような小規模で親密な集いには、親密でよく通じ合っているが故に発生してしまう「毒」があります。
その集いは人々の間のミクロな違い、その隙間に巣くうコミュニケーションによって「有害な小集団」と化し、わたしたちを日々毒します。
ロシア由来の小集団「サークル」をさまざまな題材を用いて再考しながら、集団性の解毒法を考察した一冊が『サークル有害論 なぜ小集団は毒されるのか』(集英社新書)です。
本書の刊行を記念し、このたび著者の荒木優太さんとゲストによる対談連載を企画しました。
その第一弾ゲストは、荒木さんと同世代であり、ほぼ同時期に若手論客として世に出た縁もある文筆家の綿野恵太さん。奇しくも、本書とほぼ同時期に約2年ぶりとなる注目の新刊『「逆張り」の研究』(筑摩書房)を上梓しました。
同世代の若手論客同士、「有害な小集団」をめぐって意見をぶつけあう中で浮かび上がった、意外な論点とは――。
「有害な小集団」とは何か
綿野 荒木さんの新刊『サークル有害論』とても面白かったです。本書のテーマは、本来はポジティブな目的のために集ったはずの「サークル」という小集団が、なぜ「有害な小集団」といったネガティブなものに堕してしまうか、というところにありますね。
その問題意識を説明する例として、姫野カオルコ氏の『彼女は頭が悪いから』が取り上げられます。この小説は、実際に2016年に起きた東大生5人による強制わいせつ事件をモデルにしたものです。実際の事件が起きた際には東大における男女差別が注目されました。しかし、荒木さんが読み解いているように、この小説では、男女の格差に止まらない、学歴や階級や出身地といった複雑な差別や格差の問題が描かれている。ただし、この小説には、理系的な学問ではなく、人文的な教養を東大生たちが持っていれば、こうした陰惨な事件は起きなかった、というニュアンスがどうもある。荒木さんの考えでは、それは違うのではないかと。
荒木さんは、サークルという小集団の問題について、戦前や戦後の思想、文学を見てきます。そもそも、「サークル」という言葉自体が荒木さんのご専門のプロレタリア文学から出てきた言葉です。小林多喜二や蔵原惟人といった戦前のマルクス主義者、中井正一の委員会の論理、谷川雁らの「サークル村」などなどが取り上げられますが、ものすごく簡単に要約すると、森崎和江、日高六郎や鶴見俊輔といったわずかな例外を除いて、マルクス主義をはじめとした「人文」的な教養は「サークル」の問題点を気づきもしなかったし、意味あることを言えてこなかった、というのが荒木さんの見立てでしょうか。
そのなかで一番に興味深かったのは、田辺元の「種の論理」が紹介されて、現在のアイデンティティ・ポリティクスと同じロジックであるという指摘です。このようなアイデンティティを共有する小集団の「有毒性」に対して、鶴見俊輔のサークル論をぶつけるという展開です。一番、論理に飛躍がありますし、議論を引き起こす部分だと思いますが、ぼくは面白く読みました。
荒木 ありがとうございます。著者のほうで少し補足をしますと、プライベートな小集団が、ある種の暴力性を帯びがちであるという話は、現代のフェミニズムだと、「ホモソーシャル」という概念で説明されることが多いと思います。
ただ、私の考えではホモソーシャルという概念では掬いきれない問題がある。そこで代わりに「有害な小集団」というやや聞きなれない概念を提起させてもらいました。
なぜそこに拘るのかと言うと、ホモソーシャルという概念を使うと、どうしても男性対女性の対立として受け止められてしまう懸念がある。しかし、現代社会におけるアイデンティティ・ポリティクスというものは、もっと複雑な相があるわけです。
インターセクショナリティと呼ばれる発想がいま大きな注目を集めています。この概念は白人のフェミニストに対して、黒人フェミニストたちが「あなたたちが唱えるフェミニズムは白人フェミニズムで、われわれ黒人をオミットしている」と異議申し立てした経緯から生まれた概念ですよね。
今日の複雑化したアイデンティティ・ポリティクスを考えるにあたっては、もはや「ホモソーシャル」では単純化がすぎるのではないか? それが新たに「有害な小集団」という概念を構え、サークルを現代的批判に耐えうる発想に鍛え直そうと思った動機です。
アイデンティティの実体化を防ぐには
綿野 一人の人間にはさまざまな側面がある。一つのアイデンティティに収まるものではない。当然ながら一つのアイデンティティを共有する人たちが集まっても、その集団のなかにはさまざまなアイデンティティの葛藤や対立が生まれる。しかも、アイデンティティには生得的な部分もありながら、文化的な側面もあるわけですね。
個(特殊)と類(普遍)をつなぐ媒介として「種」が必要である、という田辺元の論理は本書でさまざまに応用されます。たとえばかつて流行した「セカイ系」というジャンルは、個人の恋愛が世界の危機に直結する点で、「個」と「普遍」をダイレクトに直結させている。そのためにどうもスカスカな感じがしてしまう。
近代リベラリズムについても、「種の論理」は応用できます。一人の「個人」(個)がいきなり「市民」(普遍)になることはできない。田辺の教えによれば、「種」に対して無自覚であれば、「種」に縛られてしまう。実際に近代リベラリズムにおいては市民がどうも「男」(種)が中心となってきたことは、フェミニズムによって批判されてきました。
この荒木さんのご指摘を読んで思い出したのは、少し前のヘイトスピーチに対するカウンター行動です。一つのアイデンティティを元にした運動を組織すると、やはり集団内で様々な葛藤や対立を抱えるリスクがある。一人の人間には様々なアイデンティティがありますから。だから、「市民」や「シティズンシップ」というものを持ち出して、「差別はいけない」と広く連帯しようとしました。しかし、どんな人でも「市民」と名乗れるのは、それは実質がない「空虚な主体」だからです。田辺の教えは、おのれの「種」に無自覚であれば、結果的に「種」に縛られる。実際、「市民」を理念にしてカウンター行動をしていた小集団はマッチョでホモソーシャルだと批判されていました。「個」と「普遍」をダイレクトに直結させた結果、おのれの「種」=「男性」に縛られたわけですね。たしかに、こういう意味では田辺元の「種」の論理=アイデンティティ・ポリティクスは未だ有用であるわけです。
しかし、一方で荒木さんは「種の論理」=アイデンティティ・ポリティクスの危険性も指摘している。これは、田辺も陥った罠ですが、「種」を実体化してしまう危険性があるわけですね。たとえば、最近のトランスジェンダーに対する猛烈なバッシングを見ると、近年SNSで流行した「フェミニズム」は、女性といったアイデンティティを「本質主義」的に捉えていたのではないか、と感じます。アイデンティティをものすごく単純化して実体化して消費している。もちろん、「本質主義はダメだ」とえらい学者の先生たちが繰り返し批判してきたわけですが、「ケア」や「共感」ブームにしろ、どうも本質主義的に消費されたように思います。
荒木 以前書いた著作に、『無責任の新体系』(晶文社)という本があります。そこで私はいま綿野さんが「市民」という概念で説明したような、「空虚な主体」といったものを、方法論的に擁護をしているのです。誰にでもアイデンティティというものはある。しかし、そうした属性を実体化すれば、複数のアイデンティティ(属性)間の優先順位の争いのなかで衝突してしまう。だから、運用において仮定的に空無化して取り扱わねばならない、と。SNS上で、フェミニズムの論客とトランスジェンダー擁護の論客が争っていますね。でも、それって本当に争わなきゃいけないのかな、などと私は思うのです。
今回の『サークル有害論』でも、そうした問題意識は引き継がれています。たとえば、私(荒木)という人間も、様々な属性を持っている。「日本人」「フリーター」「健常者」といった、様々な属性を、私という一人の人間が持っている。しかも、そうした「私」というテクストを読み手が読む際に、「日本人」という属性を強調して読むか、または「フリーター」という属性を強調して読むかといったルートは読み手の側に開かれているわけです。
言い換えるなら、アイデンティティというものは、生得的に備わっているものではなく、さまざまなコミュニケーションの中で解釈違いを起こしたり、再解釈されていくものだということです。私が強調したいのは、アイデンティティは変わり得るものだという部分。私のアイデンティティとはアレとコレであり、それはこれこれこのように読まなければならない……という議論ではなく、「あなたが大事にしているアイデンティティも、いずれは変わってしまうかもしれないですよ」と伝えること。そうした機能が、かつてサークルと呼ばれていたものにはあって、それは現代でも重要なものだということを述べたく、過去の文献からあれこれ引っ張ってきたのです。
プロフィール
荒木優太(あらき ゆうた)
1987年東京生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。明治大学大学院文学研究科日本文学専攻博士前期課程修了。2015年、第59回群像新人評論賞優秀作を受賞。主な著書に、『これからのエリック・ホッファーのために』『無責任の新体系』『有島武郎』『転んでもいい主義のあゆみ』など。編著には「紀伊國屋じんぶん大賞2020 読者と選ぶ人文書ベスト30」三位の『在野研究ビギナーズ』がある。最新刊は『サークル有害論』(集英社新書)。
綿野恵太(わたの けいた)
1988年大阪府生まれ。出版社勤務を経て文筆業。詩と批評『子午線 原理・形態・批評』同人。「厚揚げは貧民のステーキ」(『絓秀実コレクション2 二重の闘争――差別/ナショナリズム/1968年』)「雑に飲んで、雑に死ぬ」(『B面の歌を聞け』2号)など評論やエッセイを多数執筆。著書に『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社)、『みんな政治でバカになる』(晶文社)がある。最新刊は『「逆張り」の研究』(筑摩書房)。